ヘンゲルブロックが初めて指揮したN響は、1曲目がバッハの「組曲第4番」。弦の8‐8‐6‐4-2の編成は、ヘンゲルブロックなら当然かもしれないが、その小ぶりな編成で、きびきびした、鋭角的な演奏が繰り広げられた。でも、それもヘンゲルブロックなら当然かもしれない。
一方、その演奏に余裕のなさを感じたことには戸惑った。ヘンゲルブロックの演奏スタイルを楽しむ様子が、N響には感じられなかった。同じくピリオド・スタイルの演奏ではあるが、あのノリントンのユニークなスタイルをこなしていたN響なのに、といぶかった。
2曲目はバッハの「前奏曲とフーガ「聖アン」」をシェーンベルクが大編成のオーケストラ用に編曲したもの。期待の演奏だったが、これにも余裕のなさがつきまとった。神経質な色合いはシェーンベルク特有のものだと思うが、その神経質な色合いをふくめて、この作品を楽しむ様子がN響には窺えなかった。
プログラムにこの曲が入ったのはなぜだろうと思った。わたしの勘では、ヘンゲルブロックの希望ではないのではないか、と‥。N響のホームページに掲載されている企画担当者のコメントを読むと、「古楽・モダンの両分野で活躍するマエストロの個性を最大限に活かすこと」がプログラム編成の方針の一つにあげられているので、その方針とバッハとを結びつけたのかもしれないが、それよりむしろ、たとえばシェーンベルクのオリジナル曲のほうがよかったのではないかと思った。
3曲目はバルタザール・ノイマン合唱団が加わってバッハの「マニフィカト」。これはすばらしかった。同合唱団を聴くのは初めてだが(初来日)、ヘンゲルブロックの演奏スタイルを熟知し、その表現に一部の隙もなかった。
わたしは初めてヘンゲルブロックの何たるかに触れた思いがした。それは、先ほど例に引いたノリントンとの比較でいうと、ノリントンのお茶目なユーモアとは正反対に、真面目で、ぬくもりがあり、ドイツの精神風土に根ざしたものだった。
同合唱団では第6曲と第9曲のアルトのソロ・パートをカウンターテナーが歌った。その歌手の声と表現がすばらしかった。
アンコールにバッハの「クリスマス・オラトリオ」から第59曲が演奏された。ドイツ語の曲になると(「マニフィカト」はラテン語)、同合唱団の味がさらによく出た。さらにもう一曲、15世紀のフランスの曲が演奏された。
(2018.12.8.NHKホール)
一方、その演奏に余裕のなさを感じたことには戸惑った。ヘンゲルブロックの演奏スタイルを楽しむ様子が、N響には感じられなかった。同じくピリオド・スタイルの演奏ではあるが、あのノリントンのユニークなスタイルをこなしていたN響なのに、といぶかった。
2曲目はバッハの「前奏曲とフーガ「聖アン」」をシェーンベルクが大編成のオーケストラ用に編曲したもの。期待の演奏だったが、これにも余裕のなさがつきまとった。神経質な色合いはシェーンベルク特有のものだと思うが、その神経質な色合いをふくめて、この作品を楽しむ様子がN響には窺えなかった。
プログラムにこの曲が入ったのはなぜだろうと思った。わたしの勘では、ヘンゲルブロックの希望ではないのではないか、と‥。N響のホームページに掲載されている企画担当者のコメントを読むと、「古楽・モダンの両分野で活躍するマエストロの個性を最大限に活かすこと」がプログラム編成の方針の一つにあげられているので、その方針とバッハとを結びつけたのかもしれないが、それよりむしろ、たとえばシェーンベルクのオリジナル曲のほうがよかったのではないかと思った。
3曲目はバルタザール・ノイマン合唱団が加わってバッハの「マニフィカト」。これはすばらしかった。同合唱団を聴くのは初めてだが(初来日)、ヘンゲルブロックの演奏スタイルを熟知し、その表現に一部の隙もなかった。
わたしは初めてヘンゲルブロックの何たるかに触れた思いがした。それは、先ほど例に引いたノリントンとの比較でいうと、ノリントンのお茶目なユーモアとは正反対に、真面目で、ぬくもりがあり、ドイツの精神風土に根ざしたものだった。
同合唱団では第6曲と第9曲のアルトのソロ・パートをカウンターテナーが歌った。その歌手の声と表現がすばらしかった。
アンコールにバッハの「クリスマス・オラトリオ」から第59曲が演奏された。ドイツ語の曲になると(「マニフィカト」はラテン語)、同合唱団の味がさらによく出た。さらにもう一曲、15世紀のフランスの曲が演奏された。
(2018.12.8.NHKホール)