青柳いづみこの「高橋悠治という怪物」(河出書房新社、2018年9月発行)を読んだ。ピアニストという同業者の眼から見た洞察に満ちた高橋悠治論だと思う。また、著者と同世代であるわたしには、人生の中でたどってきた時代が共通するので、時代の空気が蘇ってくるおもしろさもあった。
たとえばこんなくだりがある。「1970年代前半、私が東京藝大のピアノ科に在籍していたころ、理論武装した友人が高橋悠治の本を持ち歩いていた。持っているだけでかっこいいという雰囲気があった。本のタイトルはおぼえていないが、おそらく74年11月に刊行された『ことばをもって音をたちきれ』だろう。」
これなどまるで当時のわたしを見るようで赤面する。わたしも同書を持って得意がっていた。そうさせるカリスマ性が高橋悠治にはあった。高橋悠治は武満徹や小澤征爾と並んで若者のアイドルだった。
当時のわたしは、高橋悠治のLPレコードを何枚か持っていた。その中に「パーセル最後の曲集」があった。わたしのお宝だった。高橋悠治のメインの仕事ではないとはわかっていたが、その比類ない美しさに惹かれた。あのLPレコードはどこにいったのだろう。だれかに貸したっきりになっているようだ。
青柳いづみこもそうだったように、わたしも高橋悠治が超絶技巧のピアニストとしてクセナキスの難曲をバリバリ弾いていた時期は、リアルタイムでは経験していない。
そのときの高橋悠治を聴いてみたいと思い、ナクソス・ミュージック・ライブラリーを覗いたら、ジェフスキの「「不屈の民」変奏曲」(1978年録音)が入っていた。難曲で知られる同曲だが、久しぶりに聴いてみると、超絶技巧というよりも、透明な抒情を感じた。時の流れがアクを抜いたようだった。
高橋悠治はキャリアの絶頂で「水牛楽団」に(こういってよければ)ドロップアウトしたように見えた。当時、わたしは戸惑いつつも、その演奏会に行った。東京文化会館大ホールだったと思う。おもしろかったが、追っかけにはならなかった。
最近では2014年2月の浜離宮朝日ホールでのリサイタルに行った(青柳いづみこも聴いたそうだ)。そのときのハジダキスは今でも鮮明に覚えているが、バッハは記憶から消えている。でも、それは高橋悠治のバッハをわかっていなかったからのようだ。本書を読んでそう思った。
今の高橋悠治がなにを考え、なにをやっているか。本書は示唆に富んでいる。
たとえばこんなくだりがある。「1970年代前半、私が東京藝大のピアノ科に在籍していたころ、理論武装した友人が高橋悠治の本を持ち歩いていた。持っているだけでかっこいいという雰囲気があった。本のタイトルはおぼえていないが、おそらく74年11月に刊行された『ことばをもって音をたちきれ』だろう。」
これなどまるで当時のわたしを見るようで赤面する。わたしも同書を持って得意がっていた。そうさせるカリスマ性が高橋悠治にはあった。高橋悠治は武満徹や小澤征爾と並んで若者のアイドルだった。
当時のわたしは、高橋悠治のLPレコードを何枚か持っていた。その中に「パーセル最後の曲集」があった。わたしのお宝だった。高橋悠治のメインの仕事ではないとはわかっていたが、その比類ない美しさに惹かれた。あのLPレコードはどこにいったのだろう。だれかに貸したっきりになっているようだ。
青柳いづみこもそうだったように、わたしも高橋悠治が超絶技巧のピアニストとしてクセナキスの難曲をバリバリ弾いていた時期は、リアルタイムでは経験していない。
そのときの高橋悠治を聴いてみたいと思い、ナクソス・ミュージック・ライブラリーを覗いたら、ジェフスキの「「不屈の民」変奏曲」(1978年録音)が入っていた。難曲で知られる同曲だが、久しぶりに聴いてみると、超絶技巧というよりも、透明な抒情を感じた。時の流れがアクを抜いたようだった。
高橋悠治はキャリアの絶頂で「水牛楽団」に(こういってよければ)ドロップアウトしたように見えた。当時、わたしは戸惑いつつも、その演奏会に行った。東京文化会館大ホールだったと思う。おもしろかったが、追っかけにはならなかった。
最近では2014年2月の浜離宮朝日ホールでのリサイタルに行った(青柳いづみこも聴いたそうだ)。そのときのハジダキスは今でも鮮明に覚えているが、バッハは記憶から消えている。でも、それは高橋悠治のバッハをわかっていなかったからのようだ。本書を読んでそう思った。
今の高橋悠治がなにを考え、なにをやっているか。本書は示唆に富んでいる。