思えばアラン・ギルバートの指揮はN響時代から聴いている。長い付き合いになったものだ。N響時代の演奏では、2002年に聴いたショスタコーヴィチの交響曲第4番と、2007年に聴いたマルティヌーの交響曲第4番が今でも記憶に鮮明だ。その後、2011年に都響を初めて振ったときのブラームス(ハイドン・ヴァリエーションと交響曲第1番)とベルク(ヴァイオリン協奏曲)にびっくり仰天して現在に至っている。
そんなことを想い出したのは、アランと都響との関係が、2011年の驚愕の出会いから今は落ち着いてきて、お互いの立ち位置を定めようとしている――と、そんな感じがしたからだ。
今回のプログラムはメンデルスゾーン、シューマンとストラヴィンスキー。アランは8シーズンにわたるニューヨーク・フィル音楽監督時代に、CONTACT!とNY PHIL BIENNIALという2つの現代音楽プロジェクトを立ち上げたそうだが、都響では(ジョン・アダムズの「シェヘラザード.2」を除いて)比較的保守的な路線をとっているようだ。
1曲目はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」。冒頭、弦の第1主題のハーモニーに耳慣れない音(あれはセカンド・ヴァイオリンだったか、ヴィオラだったか)が浮き上がった。その後も細かい伴奏音型が浮き上がることがあった。このような小技がきくところもアランらしい。
2曲目はシューマンの交響曲第1番「春」。アランらしいと思った箇所は、第3楽章スケルツォの2つのトリオでの、激烈でダイナミックな表現だ。欧米のメジャー・オーケストラを常時振っている指揮者らしい破格のダイナミズムだと思った。全体的にも、春うららの演奏ではなく、ダイナミックな、テンションの高い演奏だった。
以上2曲で印象的だったことは、オーボエの鷹栖さんの鄙びた音色だ。都響のオーボエの2人の首席奏者は、広田さんの蠱惑的な音色にたいして、鷹栖さんの鄙びた音色と対照的で、それによってオーケストラ全体の印象が変わる。
3曲目はストラヴィンスキーの「春の祭典」。第1部のフィナーレの「大地の踊り」が熱狂的でスリル満点だった。全体的にいって、第1部のほうが第2部よりインパクトが強かった。
以上3曲のどの曲でも、アランの指揮には一種の大衆性があった。それが受け入れられて、クラシック音楽愛好者が増えることを願いたい。
(2018.12.10.サントリーホール)
そんなことを想い出したのは、アランと都響との関係が、2011年の驚愕の出会いから今は落ち着いてきて、お互いの立ち位置を定めようとしている――と、そんな感じがしたからだ。
今回のプログラムはメンデルスゾーン、シューマンとストラヴィンスキー。アランは8シーズンにわたるニューヨーク・フィル音楽監督時代に、CONTACT!とNY PHIL BIENNIALという2つの現代音楽プロジェクトを立ち上げたそうだが、都響では(ジョン・アダムズの「シェヘラザード.2」を除いて)比較的保守的な路線をとっているようだ。
1曲目はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」。冒頭、弦の第1主題のハーモニーに耳慣れない音(あれはセカンド・ヴァイオリンだったか、ヴィオラだったか)が浮き上がった。その後も細かい伴奏音型が浮き上がることがあった。このような小技がきくところもアランらしい。
2曲目はシューマンの交響曲第1番「春」。アランらしいと思った箇所は、第3楽章スケルツォの2つのトリオでの、激烈でダイナミックな表現だ。欧米のメジャー・オーケストラを常時振っている指揮者らしい破格のダイナミズムだと思った。全体的にも、春うららの演奏ではなく、ダイナミックな、テンションの高い演奏だった。
以上2曲で印象的だったことは、オーボエの鷹栖さんの鄙びた音色だ。都響のオーボエの2人の首席奏者は、広田さんの蠱惑的な音色にたいして、鷹栖さんの鄙びた音色と対照的で、それによってオーケストラ全体の印象が変わる。
3曲目はストラヴィンスキーの「春の祭典」。第1部のフィナーレの「大地の踊り」が熱狂的でスリル満点だった。全体的にいって、第1部のほうが第2部よりインパクトが強かった。
以上3曲のどの曲でも、アランの指揮には一種の大衆性があった。それが受け入れられて、クラシック音楽愛好者が増えることを願いたい。
(2018.12.10.サントリーホール)