Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

トゥーランドット(1)

2019年07月20日 | 音楽
 「トゥーランドット」は問題作だろう。(1)まず未完の作品であること、(2)アルファーノの補筆に否定的な評価があること、(3)リューの死後トゥーランドットとカラフが結ばれるハッピーエンドに疑問の声があること、以上の3点が主な理由だ。

 リューの存在はたしかに扱いが難しい。女奴隷たるリューが、ひそかに愛するカラフのために命を捧げる。その時点で、観客の同情を一身に集める。では、その後のドラマ展開はどうすればいいのか。

 そもそもリューはプッチーニと2人の台本作者が作り出した登場人物だ。原作のカルロ・ゴッツィの戯曲には登場しない(正確にいえば、ゴッツィの戯曲に基づくシラーの翻案、そしてそれをイタリア語に訳したものが原作ということになるが)。さらに遡ると、ゴッツィの戯曲はペティ・ド・ラ・クロワの「千一日物語」の中の話が素材になっている(題名からわかるように、「千一日物語」は「千一夜物語」に倣った作品)。

 では、「千一日物語」の中ではどういう話になっているのか。幸いなことに、その翻訳が出ている。最上英明氏の「《トゥーランドット》と《妖精》」(アルファベータ社)の第5章がそれだ。それを読むと、リューの原型のアデルミュルク(他国の王女だが、今は捕らわれの身となり、トゥーランドットの侍女になっている)という登場人物がいて、その人物がどんな動機で、どんな行動をとるかがわかる。最後は自害するのだが、読者の同情はアデルミュルクには向かわず、トゥーランドットとカラフが結ばれることを素直に喜べる。

 だが、アデルミュルクをリュー(女奴隷で、カラフに叶わぬ愛を捧げる)に置き換えたとき、その破壊力は大きく、ドラマトゥルギーを根本的に変えた。しかもリューの最後のアリア「氷に包まれた貴女様」の歌詞は、台本作者ではなく、プッチーニが自ら書く念の入れようだ。当然その音楽にはプッチーニの想いが込められている。

 リューはそういう厄介な存在でもある。それを今回の新国立劇場での演出家アレックス・オリエは見事に解決した。第1幕の幕開き以来、女奴隷として地にひれ伏していたリューが、「氷に包まれた貴女様」で立ち上がり、トゥーランドットと対等に向き合い、愛の意味を説く。トゥーランドットは(そして周りのすべての人物も)、その事態に息をのむ。トゥーランドットはリューの言葉を理解し、その帰結としての結末を迎える(その間の心理の推移がアルファーノの補筆部分に重なる)。

 これがアレックス・オリエの読み解いたドラマトゥルギーで、わたしにはたいへん説得力があると思われた。(続く)
(2019.7.18.新国立劇場)
コメント (2)
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