(承前)新国立劇場の新制作「トゥーランドット」をめぐって、前回はアレックス・オリエの演出について書いたが、今回はその他のことを書いてみたい。
まず歌手だが、主要な歌手はすべて高水準だった。タイトルロールのイレーネ・テオリンは声のコントロールが抜群だ。ワーグナー(ブリュンヒルデやイゾルデ)を歌うときより余裕をもって歌っているように感じた。カラフはテオドール・イリンカイという歌手が歌ったが、声の強さは文句なし。リューは中村恵理が歌ったが、歌の切れの良さと情感の豊かさが十分で、かつ演技では一頭地を抜いていた。
その他の歌手では、アルトゥム皇帝を歌った歌手のイタリア語の発音に癖があるのが気になった。ピン、パン、ポンを歌った3人の歌手は、アンサンブルはいいのだが、弾けるようなコミカルさに欠けた。3人の出番は意外に多いので、その部分でドラマの流れが停滞するきらいがあった。
指揮の大野和士は、オーケストラの掌握、歌手との一体感、ドラマの構築、安定感、そのどれをとっても一流のオペラ指揮だった。オーケストラは大野和士が音楽監督を務めるバルセロナ交響楽団が務めたが、弦の音色に独特の艶があり、また木管のソロも光った。
特筆すべきは合唱かもしれない。新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブルの混成チームだが、幕開き早々、圧倒的な合唱を聴かせた。「『トゥーランドット』って合唱オペラだったっけ」と蒙を啓かれる思いがした。
舞台装置は、高い壁が三方をふさぐ巨大な地下牢のようだった。その威圧感は息苦しくなるほどで、わたしはその晩、夜中に目が覚めて、眠れなくなった。地下牢の中にすっぽり入ったような感覚だった。その地下牢はトゥーランドットの専制支配の暗示だが、それは同時に、第一次世界大戦を経験したプッチーニが、やがて訪れる全体主義を予言するようでもあり、また(プッチーニの文脈から離れて)近未来に訪れる危険のある全体主義への警告のようでもあった。
地下牢なので、舞台は暗いのだが、随所に差し込む光の美しさが印象的だった。照明はウルス・シェーネバウムという人だが、センスの良さを感じた。
演出について細かい点を補足すると、ピン、パン、ポンは3大臣ではなく、飲んだくれの労働者になっていた。地下牢の住民の退廃の表現だ。また首切り役人のプーティンパオが6人もいて、視覚的な迫力があった。(了)
(2019.7.18.新国立劇場)
まず歌手だが、主要な歌手はすべて高水準だった。タイトルロールのイレーネ・テオリンは声のコントロールが抜群だ。ワーグナー(ブリュンヒルデやイゾルデ)を歌うときより余裕をもって歌っているように感じた。カラフはテオドール・イリンカイという歌手が歌ったが、声の強さは文句なし。リューは中村恵理が歌ったが、歌の切れの良さと情感の豊かさが十分で、かつ演技では一頭地を抜いていた。
その他の歌手では、アルトゥム皇帝を歌った歌手のイタリア語の発音に癖があるのが気になった。ピン、パン、ポンを歌った3人の歌手は、アンサンブルはいいのだが、弾けるようなコミカルさに欠けた。3人の出番は意外に多いので、その部分でドラマの流れが停滞するきらいがあった。
指揮の大野和士は、オーケストラの掌握、歌手との一体感、ドラマの構築、安定感、そのどれをとっても一流のオペラ指揮だった。オーケストラは大野和士が音楽監督を務めるバルセロナ交響楽団が務めたが、弦の音色に独特の艶があり、また木管のソロも光った。
特筆すべきは合唱かもしれない。新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブルの混成チームだが、幕開き早々、圧倒的な合唱を聴かせた。「『トゥーランドット』って合唱オペラだったっけ」と蒙を啓かれる思いがした。
舞台装置は、高い壁が三方をふさぐ巨大な地下牢のようだった。その威圧感は息苦しくなるほどで、わたしはその晩、夜中に目が覚めて、眠れなくなった。地下牢の中にすっぽり入ったような感覚だった。その地下牢はトゥーランドットの専制支配の暗示だが、それは同時に、第一次世界大戦を経験したプッチーニが、やがて訪れる全体主義を予言するようでもあり、また(プッチーニの文脈から離れて)近未来に訪れる危険のある全体主義への警告のようでもあった。
地下牢なので、舞台は暗いのだが、随所に差し込む光の美しさが印象的だった。照明はウルス・シェーネバウムという人だが、センスの良さを感じた。
演出について細かい点を補足すると、ピン、パン、ポンは3大臣ではなく、飲んだくれの労働者になっていた。地下牢の住民の退廃の表現だ。また首切り役人のプーティンパオが6人もいて、視覚的な迫力があった。(了)
(2019.7.18.新国立劇場)