Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ブロムシュテット/N響

2021年10月18日 | 音楽
 コロナ禍のために昨年10月は来日が叶わなかったブロムシュテットが、今年は待望の来日を果たした。オーケストラと聴衆(わたしもその一人だ)は大喜びだ。今年94歳になるブロムシュテットが後述するプログラムを、椅子を使わずに、立ったまま指揮する姿は、矍鑠とした、という以上に、眩しさがあった。

 もっとも、コロナ禍は収まっていないので、変則的な演奏会風景が見られた。演奏会の開始にあたって、まず木管奏者が登場した。次に金管奏者。一呼吸おいてブロムシュテットとソリストのレオニダス・カヴァコスが登場した。満場大きな拍手。最後に弦楽器奏者が登場して全員揃った。この入場方法は当局か業界のガイドラインによるのだろう。

 プログラム前半はブラームスのヴァイオリン協奏曲。すでに多くの方々が絶賛の声を上げているが、わたしは疑問を感じた。第1楽章のところどころでテンポを落として、音楽が停滞した。ブロムシュテットはその部分で音楽に沈み込むようだった。わたしは太陽が沈んだのちの長い夕暮れを見るような感覚になった。第2楽章は全体的に遅いテンポだった。第3楽章では通常のテンポに戻ったが、気分はどこか晴れなかった。

 わたしは正直不安になった。N響でのサヴァリッシュやアンドレ・プレヴィン、都響でのジャン・フルネの、それぞれの最終公演を思い出した。

 一方、ヴァイオリン独奏のカヴァコスは、ブロムシュテットに最大の敬意を払っているのはよくわかるが、自分のペースで演奏しているようには思えなかった。ブロムシュテットのテンポに合わる一方、時々それを挽回するように懸命に弾くことがあった。それはわたしには、岩か流木に詰まった渓流が、そこを超えて一気に流れる光景を見るようだった。

 カヴァコスはアンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番から第2楽章「ルーレ」を弾いた。そこには自由があった。なにかの制約から解放され、音が空中に飛翔するような軽やかさがあった。

 プログラム後半のカール・ニルセン(1865‐1931)の交響曲第5番になると、わたしの不安は吹っ飛んだ。音楽がよどみなく進み、音の構築にゆるみがなく、すべての音がクリアに聴こえた。前曲で感じた危惧は雲散霧消し、年齢を超越した精神力が感じられた。たとえば突如として別次元の音楽が割り込むような前衛性も、過不足なく表現され、その意味では尖った演奏だった。わたしはこの曲は(交響曲第4番「不滅」が19世紀の交響曲の流れの中にあるのとはちがい)決定的に20世紀に足を踏み入れた交響曲だと思った。それを指揮するブロムシュテットの姿はオーラを放っていた。
(2021.10.17.東京芸術劇場)
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