Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「ルル」の台本を読み直す

2021年08月20日 | 音楽
 東京二期会が8月下旬に上演予定のオペラ「ルル」。コロナ感染者が急増中なので、無事に上演できるかどうか不安だが、心配しても仕方がないので、とりあえず台本を読み直した。すると今までとはちがう読み方をしている自分に気が付いた。このオペラのレッテルのような「ファム・ファタール」という言葉にリアリティを感じなかった。

 とくに第1幕はルルをめぐる医事顧問官、画家、シェーン博士の3人の男性のルルへの抑圧が、息苦しいほどに感じられた。ルルはそれらの男性の性的欲望にさらされ、また力による支配を受けている。とはいえ、ルルは一方的な被害者ではない。自分の魅力を知り尽くし、それを最大限に利用する術を心得ている。ルルは消費される存在だが、その中で生き抜く本能を身につけている。

 よくいわれることだが、ルルが愛した男性はシェーン博士だ。第1幕はシェーン博士に支配されていたルルが、やがてシェーン博士を屈服させ、シェーン博士を手に入れるドラマだ。だが、そもそも、なぜルルはシェーン博士を愛したのか。わたしは今回台本を読み直して、それはルルとシェーン博士が似ているからではないかと思った。身勝手さ、もっといえば一種の冷たさが、二人に共通している。だからルルはシェーン博士に惹かれたのではないか。言い換えれば、ルルは他の善良な男性では物足りなかったのだ。

 第2幕の後半から第3幕はルルの転落のドラマだ。今回の東京二期会の上演では、未完の第3幕は上演されない(第2幕の後に「ルル組曲」の抜粋が演奏される)。その第3幕ではルルがロンドンの街娼になり、切り裂きジャック(実在の人物)に殺される。切り裂きジャックはミソジニーの塊のようだ。ルルの末路にもフェミニズムが反映している。

 ルルを愛するゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、今でいうLGBTQのLだが、その面での解放は描かれていない(たぶん時代的な制約だろう)。一方、フェミニズムの観点では、第3幕の最後の独白「私はドイツに帰る。私は大学に入る。私は婦人の権利のため戦わねばならない。法律学を勉強しなければならない。」(渡辺護訳)が注目される。ゲシュヴィッツ伯爵令嬢はその独白の直後に切り裂きジャックに殺される。フェミニズムの芽生えの瞬間にその芽が摘まれる。

 「ルル」はフェミニズム・オペラだといったら、言い過ぎかもしれないが、少なくともその側面はあるだろう。だとすると、もう一歩踏み込んで考えなければならない。告発されているのはだれか、と。このオペラが1937年に初演されて以来、ファム・ファタールだとか、性愛表現だとかいって、このオペラを消費してきたわたしたち観客は、いったいどういう存在なのか。わたし自身、男性社会の意識構造に無自覚にこのオペラを観ていなかったか。今後このオペラを観るとき、わたしも安全な場所にはいないのだ。

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