Zooey's Diary

何処に行っても何をしても人生は楽しんだもの勝ち。Zooeyの部屋にようこそ!

マックの吊るし看板

2011年09月11日 | 中欧旅行2011
旅先のあちこちでカフェに寄るのは
旅行の楽しみのひとつでもあります。
歩き廻って疲れて休憩もしたいし、トイレにも行きたいし。
中欧でも随分色々な店に立ち寄りました。



1800年代創業という古い店が多く、そしてテラス席が多い。
写真上はザルツブルグの老舗カフェ、Cafe Tomaselli(トマセリ)。
笑ってしまったのは、外はこれだけ客で溢れているのに
中に入ったら誰もいなかったこと。
室内も結構広く、天井も高く、重厚な調度品がしつらえてあるのに。
ブダぺストのCafe Gerbeaud(ジェルボー)など、他の古いカフェでも同じでした。


外は確かに気持ち良いけれども、日によっては暑すぎたり、
パラソルから漏れた日差しが当たったりもするのに。
埃っぽい外よりも、静かな室内の方が落ち着くのでは?と私などは思うのに。
ただ、プラハで一日だけ経験した寒すぎる日のことを考えると
8月の初めでさえあれだけ冷えることもあるのだから
夏以外の季節の寒さは容易に想像できます。
短い夏の日差しを、少しでも楽しもうとしているのかなあ。
写真は、トマセリで飲んだアイスコーヒー。


ウィーンの老舗ザッハー・カフェ(ザッハー・トルテが有名)の
すぐ向かい側にスターバックスがあったのに驚きました。
何もこんな隣で張り合わなくてもと思ったのですが
どちらも石造りの古い建物で、外観に殆ど違和感がない。
これは他の新しい店にも言えることで、
例えばザウツブルクのゲトライデ通りにあったマクドナルド。
分かりにくいかと思いますが、写真の右側に、お洒落なマックの吊るし看板があります。
あの赤と黄のロゴなんて何処にも見当たらない。
古い石畳の街並みにしっくりと溶け込んでいる。


景観条例が厳しいからか、住民の美意識が高いからか。
以前ミラノのマックが、住民の反対運動で外観を直させられたという話を聞いたことがあります。
実際、ドゥオーモ近くのガレリアにあったマックは、黒と金色の落ち着いた外観でした。

日本中に溢れている赤と黄のマックのロゴ。
そう考えると、日本は相当舐められているなあ…
というか、景観条例なんてあるのか?と思ってしまいます。
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一生分のフォアグラ

2011年09月01日 | 中欧旅行2011
フォアグラというものを食べる時、
私はなんとなく罪悪感のようなものを感じていました。
必要以上に餌を与えて太らせたガチョウの脂肪肝を食べるなんて
人間の果てしないエゴのような思いがしたのです。
そんなものを食べる機会は滅多にないし、食べたとしてもほんの少量なので
心配する必要もないのですけど。
ところがハンガリーはフォアグラの産地であった!

ブダペストで入った、ツアー抜け出しレストランその①。
karpatia(カルパティア)http://www.karpatia.hu/en/karpatia-restaurant


古いお城の中の一室のような、奥深く天井高く広い店内。
フォアグラのパテ、フォアグラのソテーをたっぷりと。
チキンのパプリカ煮込みというのは、食べ慣れない私にはちょっとぼやけた味でしたが
フォアグラは美味しかった。
なんというか、日本で食べたのよりも健康的な味がするのです。
(そんなこと言ったって、肥満体のガチョウの脂肪肝には違いないのですが)
ここは、ロマ(ジプシー)の民族楽器のもの哀しい生演奏付き。
客の近くに来て、切々と愛の歌を奏でてくれます。




ブダペストの二晩目は、Spoonという船上レストランへ。
http://www.eventparadise.com/showcase/budapest-issue-2-20/spoon-cafe-and-lounge-ship-restaurant-40.html



ドナウ河に浮かぶ豪華な船の上で、ブダ王宮、くさり橋のライトアップを眺めながら、
最後の晩餐にシャンパンで乾杯したのでした。
二晩ともフォアグラを堪能したので、私もう、これは当分いいや…
丁度その晩は結婚式のパーティも開かれており、華やかなことこの上ない。
もっとも私は旅の最後の晩ということで、中々複雑な思いだったのですが。
眩しい夜景はどんなに味わっても只とばかりに、胸にしっかり焼き付けたのでした。



(お店の写真はHPから頂きました)
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ハンガリーの意外な事実

2011年08月30日 | 中欧旅行2011
スロバキアのブラスチラバを抜け、ハンガリーのパンノンハルマの修道院(996年に造られた
もの。世界遺産)に寄りましたが、印象薄かったのでさっくりパス。

そしてブダペスト。
ハンガリーには正直あまり期待していなかったのですが
ブタペストの美しい景観にみとれました。
豊かに流れるドナウ河を挟んだ中心地区には国会議事堂、くさり橋、ブダ王宮などが建ち並び、本当に綺麗。
英雄広場はとてつもなく広いし、旧王宮、マチューシャ教会も圧巻だったし。
考えてみればここはかつて「オーストリア=ハンガリー帝国」として繁栄したのだから
見事なのは当たり前なのですが。
ホテルはそのくさり橋のたもとにあるソフィテル・チェーンブリッジ、
ドナウ川を見下ろせる部屋から、最後の二晩を楽しむことができました。



帰ってからハンガリーってどういう国なんだろうと調べてみて
意外な事実に驚きました。
自殺率が異常に高いのです。
日本が高いといわれて久しいのに、その日本よりも高い。
世界一位がベラルーシ、そしてリトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリー、日本と続きます。
「自殺率の国際比較」
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html
ロシア圏が高いのはなんとなく分かるような気がしますが(アルコールのせいという説もある)
あの風光明美なハンガリーで、何故?
検索してみたら、その理由を連ねたレポートを見つけましたが
いまひとつ納得できない。

「ハンガリーの自殺率が世界でトップクラスである理由」
http://www.szagami.com/backnumber/0013.html
ここには
”いつもまじめで何事にも突進する日本人に比べ、ハンガリー人はおおらかで明るく、
人生を朗らかに生きているように見えます。
のどかなハンガリーの人の人生を日本と比べ、大変うらやましがる日本人の旅行者の方が
数多くいらっしゃいます。”
とありますが、ほんの垣間見ただけの私でも、そう思います。
しかしこの筆者は、2年間ハンガリーに暮らす間に、4回もドナウ河の橋から
飛び降りようとする人を見かけたと。
何故!?
ここでは、ハンガリー人は依存心が強すぎる、と分析していますが…



事前に知っていたら、現地のガイドさんにでも訊いてみたのに。
(聞かれたって簡単に答えられる問題でもないでしょうけど)
残念です。
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ウィーン最古のレストラン

2011年08月28日 | 中欧旅行2011
ウィーンで、ツアーを抜け出して食べに行ったレストランを紹介します。
Griechenbeisl(グリーヒェンバイスル)、1447年に建てられたウィーン最古のレストラン。
http://www.griechenbeisl.at/lang_en/page.asp/index.htm

(店の入口)

ここの”Mark Twain Zimmer”(マーク・トゥエインの部屋)には
モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、ワーグナー、
ブラームス、マーラーなど有名人のサインが壁や天井ににびっしり書き込んであるのです。
それにしてもマーク・トゥエイン、児童文学に夢中だった私は「トム・ソーヤーの冒険」
「ハックルベリー・フィン」など大好きで、敬愛してやまない文豪ではありますが
貴族社会のオーストリアにおいて、なんでアメリカの作家の名前をつけたのだろう?
モーツアルトやベートーヴェンの方が格上なんじゃないの?と思って検索してみたら…
どうもこの部屋のちょうど上がマーク・トゥエインの部屋であったから、ということらしい。
彼はヨーロッパ放浪記なども書いているようですから、それもありでしょう。
それとても19世紀後半の話ですが…
隠れ部屋のような、現実の空間からひょいと逃げ込んだような、ちょっと面白い部屋です。


もうひとつ、Plachutta(プラフッタ)。
http://www.plachutta.at/index.php?id=25

フランツ・ヨーゼフ皇帝が好きだったという鍋料理「ターフェルシュピッツ」が有名な店。
オーストリアの鍋料理って想像もつかなかったのですが
牛肉を気長に煮込んだというピカピカの寸胴鍋ごと、テーブルに置かれます。


スープを取り分けて貰って飲むと、野菜やヌードルがたっぷり入っていて美味しい。
その後、お肉を取り分けてもらい、ホウレンソウのペーストやタルタルソースのようなソース、
リンゴとホースレディッシュのすりおろしのようなソースなどをつけて食べるのです。


ウィンナー・シュニッツェル(薄いカツレツ)やグラーシュ(仔牛のパプリカ味煮込み)など
色々なオーストリア料理を頂きましたが、私はこの鍋料理が一番好きでした。
ボリュームがあり過ぎて、とてもとても食べ切れなかったのですが…
デザートも、子供の頃愛読した「大泥棒ホッフェンプロッツ」に出てきた
アプフェルシュトゥルーデル(ごく薄い生地のアップルパイ)、カイザーシュマーレン
(小さくちぎったようなパンケーキに粉砂糖とベリーのソースをかけたもの)の
本場の味を頂けて、大満足。
子供の頃、どんなお菓子だかどうにも想像できなくて(あの頃は今のようにネットで簡単に
調べることなどできなかった)、それでもあまりに美味しそうで、
そういったものへの憧憬は狂おしいほどのものだったのでした。

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華麗なる一族

2011年08月25日 | 中欧旅行2011
花の都ウィーンは美しかった。
中心にそびえ立つ王宮(写真上)、1400室あるというシェーンブルン宮殿(中)、2500室のベルヴェデーレ宮殿(下)、
どれもが桁違いに大きく、そして美しい。
ハプスブルク家の力がいかに絶大であったかを物語っています。


ハプスブルク家といえば、全盛期にはヨーロッパから南米、アジアにまで領土を広げ、
「太陽の沈まぬ国」と讃えられる巨大帝国を作り上げた一族。
600年以上の長きに渡って君臨した華麗なる一族。
という程度の認識しか私は持ってなかったのですが
今回の旅行に当って、歴史関連の本を少しばかり読んで驚きました。


ハプスブルク家が政略結婚によってどんどん勢力を拡大したことは有名ですが
その裏には、血族結婚を繰り返し、異様なまでに血を濃縮させて自滅の道を辿ったという
事実もあったのだそうです。
”今日の優生学上の見地からは考えられない近親結婚が、あきれるばかりに次々と実現されてゆく。
純潔を保ち、またウィーン=マドリッド枢軸を形成するために、ハプスブルクの東西の
親戚では近親結婚をしきりに繰り返した。”「ハプスブルク家」より
”初代カルロス一世は従妹と、二代目フェリペ二世は姪と、三代目フェリペ三世は従妹の娘と、
そして四代目フェリペ四世が姪と結婚している。
婚姻線は入り組み、祖母はまた叔母でもある、というような複雑で怖気をふるう近親婚の
ねじれ状態だ。
そんな中での出産は、当然死産や先天性の病気、乳幼児死亡率の高さとなって現れ、
そうした危険性について全く無知というわけでもなかったに関わらず、それでもなお、
高貴な青い血に下々の穢れた血を入れるよりはましだ、「血の純潔」こそが大事だ、と
いうのが王家の選択なのであった。”「名画で読み説くハプスブルク家12の物語」より

ルドルフ二世の肖像画に見られるような、顎が突き出て下唇の腫れた顔というのは、
「典型的なハプスブルク顔」だったのですね。
あの170㎝の長身、50㎝のウエストというスタイルを誇った美貌のエリザベート皇后と
フランツ・ヨーゼフ一世も、従兄結婚であったのだそうです。
知りませんでした…

参考文献「ハプスブルク家」江村洋
    「名画で読み説くハプスブルク家12の物語」中野京子
    「エリザベート ハプスブルク家最後の皇女」塚本哲也
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明るすぎるメルクの修道院

2011年08月23日 | 中欧旅行2011
バッハウ渓谷にあるメルクの修道院に立ち寄りました。
ガイドブックによれば、11世紀に健立されたというベネディクト派、世界遺産の修道院。
10万冊の蔵書と手書きの本1888冊を収めた図書館も有名だと。



中世の修道院、図書館と聞いて思い浮かぶのは、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」。
”中世イタリアの修道院で起きた連続殺人事件。事件の秘密は知の宝庫ともいうべき迷宮の
図書館にあるらしい。記号論学者エーコがその博学で肉づけした長編歴史ミステリ。”(amazonより)
世界的な名作といわれるこの本はしかし非常に読みにくく、
若い頃、殆ど意地になって読んだ覚えがあります。
今になってamazonの書評を読んでみたら
”キリスト教における清貧論争や異端などについてのペダンティックな議論や記述が延々と繰り返され、
全てを十分に理解するには、かなりの教養が必要とされる”
という記述が。
やっぱり…


87年にショーン・コネリー主演で映画化され、こちらは分かりやすかったが
非常に陰惨で暗かった。
北イタリアの寒々しい山奥、薄暗い石の建物、重苦しい毛織物の衣をまとった修道士たち、
その間での隠微な同性愛、嫉妬、いじめ、そして殺人。
巨大な樽の中に浮かんだ修道士の灰色に膨れ上がった死体。
と、ろくな印象がないのですが(20年以上前に観たのにいまだに覚えている)
メルクの修道院のなんと豪華絢爛で明るいこと!
黄色と白の派手な外壁といい、豪華な天井のフレスコ画といい、金ピカの図書館といい、
まるでお城のようです。
こんなのってある?


私が長年抱いていたイメージは音を立てて崩れ落ちたのですが…
しかしそんな筈がある訳ないと、ヘソ曲がりの私は未だに思ってしまう。
暗さの全否定なんて、その方が怪しいのじゃないの?
宗教や人間にまつわることに、ほの暗さが微塵もないなんて
ある訳ないと…

(ドナウ川クルーズからの眺め)
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ザウツブルクの夜

2011年08月22日 | 中欧旅行2011

ザウツブルク音楽祭というものが、どうにも私はイメージできないでいたのですが
現地に行ってみてようやく納得しました。
モーツアルトが生まれた音楽の都で、毎夏40日間に渡って開かれるという音楽祭。
世界中から20万人もの人が訪れるといいます。
昼間は雑多な観光客で賑わっている街に、夕刻になると突然、夥しい数の着飾った男女が出現する。
そして街の中心部にあるお城の広場で、華やかなコンサートが催されるのです。


我々が行ったザウツブルク一日目には、内田光子のコンサートが。
ただそのチケットは、何カ月も前から予約して入手するものなのだそう。
その代わり、丘の上のホーエンザウツブルク城での、室内楽コンサートを楽しむことに。
古城の一室でのクインテットの優しい音色を、手の届くような位置から
ランプの仄かな灯りのもとでしっとり味わえたのでした。


他に印象的だったのは、モーツアルトの生家、大聖堂、ミラベル宮殿、その庭園など。
ザウツブルク2日目の夜、創業1476年という老舗ホテルのレストラン、ゴールデナーヒルシュに
ツアーの中のグルメ二人組と私が、ひょんなことから乗り込むことになりました。
しかもツアーの夕食が終ってから(この時はまったく計画性がなかった)。
おなかは空いていないけれど、せっかくだからどんなものか味わってみたい。
そんな不純な動機のゲストは、格式の高い老舗レストランに受け入れて貰えるのか?


電話で直前に予約して、9時過ぎにタクシーで駆けつけると
そこは薄暗い石造りの建物の一階。
白いクロス掛けのテーブルはまだ空席が目立っていたのだけど、
コンサート帰りのお客からの予約で埋まっているのだと。
(遅くになってから確かに正装の男女が続々と現れた)


おなかも空いていないのに注文はどうするのか?
ドイツ語と英語のメニューをにらめっこして、まずシャンパンで乾杯。
その後、飲めない私以外はワインを飲みながら
前菜、サラダ、魚料理、肉料理から一品ずつ注文して取り分けることに。
そんなことをしてつまみだされないかと心配だったのですが
長身の給仕は嫌がる風でもなく承知して、料理は次々と運ばれてきたのでした。
他のテーブルを見ても、ロングドレスや蝶ネクタイで着飾った客も
結構アラカルトだけだったり、ひとつのお皿から取り分けていたりしている…

そうしてみると
日本人って生真面目すぎるのか?
一流店と目されているところでは
前菜、スープ、サラダ、魚、肉、デザートというコースを頼まなくちゃいけないのかと思ってた。
無論その中のどれかを省略するくらいはよくあるけれど
3人で一皿なんて考えてもみなかった。
でも食べることを楽しむというレストラン本来の目的に適うのだったら
それでもいいのじゃないか…
(もっともろくに食べられなかった悔しさから、次の有名店に行く時からは
ツアーの食事はパスし、しっかりと頂くことにしたのですが)

それでも
東京のグランメゾン、例えばロオジェやひらまつなんかで
取り分け注文をする度胸は、私にはないなあ…

Goldener Hirsch http://www.goldenerhirschsalzburg.com/
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小さな墓地と骸骨堂

2011年08月16日 | 中欧旅行2011
お盆で12日夜から帰省していました。
夫の実家、私の実家。
渋滞の中、今日戻ってきました。

ハルシュタットについて検索してみたら
こんなサイトが出てきました。
http://www.hallstatt.net/publisher/articleview/action/view/frmArticleID/17/?lang=en-is



ドイツ語なのでよくわからないのですが
(ご存知の方がいらしたらお教え下さい)
私が買った絵ハガキの写真というのは
まさにこの骸骨堂が映っているのです。
ブログ仲間のtonaさまのコメントによると
”カトリック教会の墓地の奥にある納骨堂「バインハウス」にありました。地下ではありません。
土地が少ないために10年以上たつと掘り上げて頭蓋骨だけを納骨堂に納めます。この納骨堂は
12世紀に建てられ現在1200の頭蓋骨があり、うち610に彩色が施されています。”
のだそうです。


この小さな墓地は、私も見ました。
それぞれに色とりどりの花を植えて、可愛らしい公園のようでした。
人口の割に墓地の数が少ないと思ったのですが
そういう事情があったのですね。

(ハルシュタットの教会の中)
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ハルシュタットと路上の女

2011年08月12日 | 中欧旅行2011
チェスキー・クロムロフを後にし、バスで田舎道を延々と走り、
国境を抜けてオーストリアに。
国境を持たない日本人としてはそれがどんなものか気になるところですが
今はノーチェック、昔のゲートの名残(日本の高速道路の料金所のようなもの)が
あるだけでした。
その国境の手前、山に囲まれた見渡す限りの緑の牧草地だか畑だかの中の細い道路の脇に
時々ひょっこりと女性が立っているのです。
ショッキング・ピンクのミニ・ワンピースであったり、タンクトップにジーパンであったり。
一人で何するでもなく、タバコを吹かしたり腕を組んでいたり。
数Kmのうちに5~6人見たでしょうか。
ガイドさんに言わせると、あれは商売の女性なのだそうです。

驚いてしまいました。
考えてみれば、売春は最古の商売とも言われているのだし、
アメリカだってスペインだって、いや日本だって歌舞伎町辺りに行けば
そういう女性はいくらでも立ってる訳なのですが
それは派手派手しい繁華街の中のこと。
あんな牧歌的な緑の牧草地帯に、ひねもす一人で立っているなんて…
彼女たちがそこにいるということは、需要もあるのでしょうね。


ザルツブルクに泊まり、翌朝塩山の街ハルシュタットへ。
山に囲まれた湖、湖畔に建ち並ぶ山小屋のような家々、窓にはこぼれんばかりに花が
咲き乱れ、湖には白鳥がたゆとう…
それこそ絵本のような世界でした。
上々の天気に恵まれて、青い空、青い湖水の上を滑るようにクルーズ船は進む。
ハルシュタットは、「ヨーロッパの美しい町ベスト10」などの上位に必ず選ばれる町で、私も楽しみにしていたのですが、あまりにも小さくてあまりにも綺麗すぎ。

小さな町の中の小さな教会には、納骨堂もありました。
夥しい数のドクロが整然と並べてあって驚きましたが、ハルシュタットは土地が狭いため、埋葬した後10年ほどしたら遺体を取り出し、ドクロだけ納骨堂に納めるのだそうです。
それを聞いて、絵本のように奇麗すぎる町の中に、初めて人間らしい部分を見つけたような気がしました。

 
綺麗な桜の樹の下には、やっぱり死体が埋まってなくっちゃ。
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チェスキー・クルムロフ

2011年08月11日 | 中欧旅行2011


プラハからバスで3時間ほど離れたチェスキー・クルムロフへ。
湾曲したモルダウ川(向こうではヴァルタヴァ川)に囲まれた、
やはり中世からの古都です。
遠くにかすむボヘミヤの山々、13世紀に築かれたという堂々とした城、赤い屋根の家々、
その合間を流れる川との調和がお見事。
こじんまりとした、童話の中の絵のような街です。


ここのお城の内側にも、そして小さな街の中の家にも
だまし絵のような装飾が施されたところがありました。
スグラフィット装飾と呼ばれるものは、白と黒の漆喰を使って
平面なのに、遠くから見ると凹凸があるように見えるというものです。
窓がないのに壁に窓の絵を描いたり。
領主クロムロフ公って遊び心があったのか?
もっともこのお城、最初はゴシックで建てられたものの、その後ルネッサンス、バロックと
何代にも渡って修改築がなされて現在の体を成しているというので
その装飾絵がいつの誰によるものなのか、パンフレットをちょっと覗いたくらいでは
よく分からないのですが。


プラハの中心にあるカレル橋の下を悠々と流れる大河モルダウは
少し上流のこちらでは、素朴な川となっていました。
モルダウといえば思い出すのが、スメタナの交響詩「わが祖国」の「モルダウ」。
チェコという国は、かつてはハプスブルク家の支配を受け、1918年にチェコスロバキア共和国に
なった後も、ドイツ、ソ連の傘下となり、ドイツ語しか使えないという時代もあったといいます。
そんな時代にスメタナは「わが祖国」を始め、祖国への思いを込めた作品を作り続けたのだそうです。
しかも、この曲を作った時の彼は聴力を失っていたのだと。
なんという悲劇の人なのだろうと思っていましたが
Wikipediaを見てみたら、彼の失聴は梅毒によるものだったのですね。
そして脳障害で亡くなったのもそのせいだったのだと。
そうだったのか…


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