
軽井沢では、「石の教会」など散歩してハルニレテラスでランチ、
塩沢湖畔のタリアセンにも足を伸ばしました。
ここは「湖畔に広がる自然と文化とミュージアム」という触れ込みの
小さな美術館が点在する広い公園、といった感じの所です。
昨日の日記の可愛いオブジェやブランコの写真は、こちらのもの。
ここにある朝吹家の別荘「唾鳩荘」を楽しみにしていたのです。
中学に入ったばかりの頃、「悲しみよこんにちは」「ブラームスはお好き」など
サガンの一連の小説に夢中になりました。
それを翻訳したのが朝吹登水子だったのです。
近年になって彼女の「私の東京物語」を読みましたが
まあ、凄い家の人だったのですね。
父は実業家・朝吹常吉、父方の祖父は三井系企業で活動した実業家・朝吹英二、
母方の祖父は長岡外史。
彼女は1917年(大正6年)生まれだというのに、
”父は日曜日になると、ロンドンの紳士服の老舗、サヴィルローのシンプソン製の
茶と白のラフな織のスポーティな上衣に、グレーのフラノのズボンという
典型的なイギリス風の服装をしていた。”
高輪の二千八百坪の土地に建てられた日本館には、書生や女中などが11人。
何しろ大きなグレート・デンがニ匹いて、その世話のための書生が一人いたというのですから。
この他に、W.M.ヴォーリズの建築によるテニスコート付き鉄筋三階建の洋館、
そして鎌倉と軽井沢に別荘。
彼女は幼少期を4人の兄たちと一緒に鎌倉の別荘で、
イギリス人女性の家庭教師の手で育てられたといいます。
彼女の両親という人は、1920年(大正9年)子ども5人を残して
2年間の「世界漫遊の旅」に出ているのです。

(裏から見たところ)
学齢期になると彼女は学習院に通うのですが
”白手袋をはめ、紺の制服を着た津坂が運転する自動車で学校に通った。
補助席には私付きのお女中さんが座り、幼い私一人が大きなバックシートに座った。”
朝吹家では水曜日には「タイディ・ディ」(きちんとした日)というものが催され、
”兄たちは紺の背広にネクタイ、私は中国人のテーラー、王の作った絹のドレス。
普段、子どもたちは使わない大食堂で、スコットの広瀬さんの料理と大林さんの
給仕で夕食をするのだ。この夕食の時の会話は英語でしなくてはならない。”
いやはや…
紹介していたらキリがないのですが
こんな世界があったのですね。
結局この人は、戦後の預金封鎖と財産税ですべてを失ったようです。
(この辺は詳しく書いてないのでよくわからない)
この本は、読み物としては大して面白くもないのですが
豊富な写真が満載で、こんな世界もあったのだという驚きをもたらしてくれます。
その朝吹家の軽井沢の別荘というのがこちら。
思ったよりもこじんまりとしていましたが、居間は、さすがという感じです。

「私の東京物語」 http://tinyurl.com/n28ge9x