今回のロシア旅行に際して、20冊ほどのロシア関連の本を読んだのですが
その中で何といっても面白かったのは「おろしや国酔夢譚」(井上靖)でした。
天明2年(1782年)、伊勢から江戸に向かった光太夫ら17人を乗せた船「神昌丸」は、台風に襲われ、8カ月の漂流の後、ロシア帝国領アムチトカ島に漂着。
厳寒の地のそこでは現地人がロシア人に支配され、苦しい生活を送っていた。
漂流中に1人、この島に4年間滞在するうちに、7人の仲間が死亡。
飢えと寒さに苦しめられながら、光太夫はロシア語を習得し、帰国の途を模索。
広大なロシアの、一番右端のアムチトカ島に漂着した光太夫たちは、日本に帰ることを夢見て、10年かけて一番左のサンクトペテルブルクまで行くのです。
(エカテリーナ宮殿)
「俺たちはどんな苦労をしても、帰らなければならぬ」
リーダーの光太夫は仲間を叱咤激励し、異国の文化と言語を習得し、その土地の要人と親交を深め、何度も何度も官庁に帰国願を届け出る。
「いいか、みんな、自分のものは、自分で守れ。自分の鼻も、自分の耳も、自分の手も、自分の足も、みんな自分で守れ。自分の生命も、自分で守るんだ」
これは飢えや凍傷で、命や体の一部を次々に失っていく仲間に言った言葉。
カムチャッカ半島で更に3人が亡くなり、1人は凍傷で片足を切断。
驚いたのは、こんな時代にもロシア帝国は東の果てまで支配し、圧政を敷いていたこと。
こんな時代にも、膨大な数の人たちがシベリア送りになっていたこと。
鉄道も何もない時代、橇や馬や徒歩でシベリアを横断することがどんなに過酷であったことか。
それでも遂に光太夫は、ロシア帝国の首都に辿り着き、時の女帝エカテリーナ2世との謁見が叶うのです。
(光太夫が謁見した鏡の間)
江戸時代の伊勢の船頭だった光太夫がここまで来たのかと、絢爛豪華なエカテリーナ宮殿で、感慨深いものがありました。
光太夫は「白灰色のラシャで仕立てられた礼服を着て、つばの広い毛織の帽子を抱え」大階段を登り、幾つもの大理石の間、琥珀の間を通り、豪壮な大広間で女帝に謁見。
帰国嘆願書を差し出し、女帝に訊かれるままに、自分で漂流以降の来し方を
説明したのだそうです。
女帝は「可哀想なこと」そうつぶやき、彼らの帰国船を用意すると約束。
しかしその時に残っていたのは5人、そのうち2人はロシアに帰化していたので、帰国の途につけたのは3人。
又シベリアを横断し、オホーツクから帰国船に乗るのですが、北海道根室の地でもう1人が死亡。
江戸まで帰って来られたのは、17人中、実に2人。
ところが…
(女帝の衣装)
2人を待ち受けていたのは、もっと残酷な現実だった。
いやもう、下手なスリラーよりも怖い結末です。
ネタバレになるので詳細は書きませんが
帰国だけを夢見て頑張った光太夫、無念であっただろうなあ…
おろしや国酔夢譚 http://tinyurl.com/yb2gd8ef