Zooey's Diary

何処に行っても何をしても人生は楽しんだもの勝ち。Zooeyの部屋にようこそ!

ベリーダンスの秘密

2008年09月28日 | トルコ旅行2008
以前から不思議に思っていたことがあります。
戒律の厳しいイスラム圏で、何故ベリーダンスのように肌もあらわに踊ることが許されるのか?ということです。

一説によるとトルコという国は、
”イスラム圏の中では唯一自由でいいかげんな国”なのだそうです。
国教分離政策のせいでもあるのでしょうが、確かにレストランでもアルコールは飲み放題、日に五回の”アザーン”(お祈りの時間を知らせる放送)が流れても、何をさておいても地面にひれ伏してお祈りする、という光景はあまり見られませんでした。
それでも、街を歩く女性の中には、スカーフで顔も頭もすっぽり隠して、見えるのは目だけ、スカートはくるぶしまで、という人も少なくないのです。
そんな国において、何故半裸状態のベリーダンスは許されるのか?

ネットで見てみたら、同じような疑問を持つ人がいるようで、その答えがちゃんと用意されていました。
ひとつは
”起源は古代エジプトであり、イスラム教の起源よりもずっと前に生まれた踊りなので、イスラム教の教えと矛盾していてもおかしくない”というもの。
もうひとつは
”イスラム圏に奴隷制度があった頃、金持ちや王侯貴族の館で美しい奴隷娘たちが踊りを見せたり、楽器を演奏して宴会を盛り上げていた。奴隷制が廃止された後も、宴会を盛り上げるためにこうした女性たちが必要とされ、職業としてのダンサーが登場した。
つまり「男性が見たいと思っているから許されている」のである。”
引用元 http://sarasaya.exblog.jp/300880/

なるほど…
ベリーダンスは、女性の肉体の「丸さ」「ふくよかさ」を前面に押し出したスタイルを採るのだそうです。
確かに、イスタンブールのガル・ミュージック・ホールで見た華麗なショーのダンサーたちのおなかにはたっぷりと脂がのり、女性の曲線美が表れていました。
でもこれ、腹筋にもかなり力を入れるので、本気でやったら美容にも非常に良さそうです。
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民族浄化という惨劇「サラエボの花」

2008年09月25日 | 映画
2006年 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ映画。
ボスニアという国は、我々からあまりに遠い。
東欧の国というくらいの認識で、私にはそのイメージすら浮かんでこない。
確か、80年代にサラエボ・オリンピックが開かれ、共産圏で初めての冬季オリンピックということで話題になったような…

1992年、ユーゴスラヴィアが解体して行く中で勃発したボスニアの内戦は95年まで続いたが、死者は20万人、難民は200万人も発生したのだそうです。
イスラム教徒のムスリム人、セルビア正教徒のセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人、その宗教や民族が憎みあい反発しての戦いだったと。
驚くべきは、その時民族浄化という名目で2万人の女性がレイプされたということ。

「ボスニアの花」は、その時レイプされて生まれてきた娘と、その母親の物語です。
2006年ベルリン国際映画祭で金熊賞(グランプリ)を受賞。
映画の中で、戦争や暴力的なシーンは一切ありません。
社会的な説明も、声高な訴えもありません。
ただ、貧しい中で必死に娘を育てる母エスマと、12歳の娘サラの日常を淡々と描いているだけです。しかしサラは多感な年頃になってきて、自分の父親、出生に関して疑問を持つようになってしまった。サラがエスマに向かって「私は父さんに似ている?」と問うシーンがあります。なんと残酷な質問でしょう…

エスマが受けた陵辱は、しかも突発的な犯罪ではない。
「毎日何人にもレイプされた。おなかが大きくなってからも奴等は毎日レイプした。」
そうしてエスマは妊娠に絶望して
「おなかを思い切り拳で叩いた」のだけれども、流産しなかったのです。
ところが、生まれ出てきた我が子を見て
「こんな美しいものが世の中にあるか」と感動して、育てることにしたのでした…

民族浄化という恐ろしい言葉は昔からあったのだろうかと見てみたら
Wikiによると
”民族浄化(ethnic cleansing)は、複数の民族集団が共存する地域において、
ある民族集団が別の民族集団を強制移住、大量虐殺、迫害による難民化などの手段によってその地域から排除しようとする政策。
特に強姦や強制妊娠などを伴う民族抑圧を指して言う場合もある。
1990年代に内戦中の旧ユーゴスラビアのメディアに頻繁に使用されたセルビア語を翻訳したもので、1992年頃から世界の主要メディアでも広く使用されるようになった。”のだそうです。

以前、プロテスタントのアメリカ人と話していて驚いたことがあります。
彼らは基本的に人工妊娠中絶に反対なのだそうですが、レイプされた場合でも原則は変わらないというのです。
生まれてくる子供には罪はないのだから、と。

私にはとてもそこまで思えない。
この映画でも、出生の秘密を知ってしまった少女サラは、この先どんなに苦しむでしょう。サラを心から愛するエスマも、かつて受けた傷は一生忘れることができない。
それでもラストシーンのサラの微笑みは、何よりもの救いでした。

ちなみに、現在サラエボオリンピックのメインスタジアムは、
ボスニア紛争で破壊され、紛争で亡くなった人々の墓地になっているのだそうです。

「サラエボの花」
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イエニチェリ軍団の悲哀

2008年09月21日 | トルコ旅行2008
アヤソフィアとブルー・モスクにはさまれた場所に、アトメイダンという広場があります。
そこに「イエニチェリの木」という大木があり、かつてイエニチェリが最強の勢力を誇った頃、その木の枝という枝に、自分達に歯向かう宰相や財務官や高官たちの惨殺死体を吊るしたといいます。

イェニチェリとは、14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団のことです。
ムラト一世が創設したとされるこの軍団は、キリスト教圏から身体強健で優秀な十代初めの少年達を奴隷として徴収し、イスラム教に改宗させた上で、徹底的に軍隊教育を施したのだそうです。
彼らは成長しても妻帯は許されず、厳しい軍隊規律の中で皇帝への生涯の忠誠を誓い、勇猛果敢な親衛隊として、その名を広く世界に知られたようです。

”行軍のしんがりは、スルタン親衛隊のイエニチェリ軍団が勤める。(中略)
白いフェルト帽に緑色の上着、それに白のトルコ式のズボンをしるベルトには半月刀がさされ、それと手に持つ弓が彼らの主な武器だった。”(塩野七生)

彼らが最後列にいたのは、ちゃんと意味があったのです。
恐怖に駆られて引き返そうとする味方兵を脅し、それでも逃げようとする兵は容赦なく切り殺したのだそうです。
最前線の兵士達は、後ろに控えるイエニチェリ軍団の方がむしろ恐ろしく、ひたすら敵陣に向かって前進していったという説もあるほどです。

しかし…
敵であるキリスト教徒の子どもを捕まえて改宗し、強力な自軍戦力に仕立て上げるって… なんという恐ろしい洗脳なのでしょうか。
年端のいかない少年達の中には、親を、故郷を思って泣いた子もいたでしょうに。
そんな軍団が5百年近くも続いたという事実(後には自国民の兵も加わったそうですが)に只々驚愕してしまいます。

そんな勇猛な軍団も、次第に規律が乱れ、奢り高ぶるようになり、
イエニチェリを廃止しようとした皇帝を惨殺したり、反乱を起こしたりした挙句、
19世紀初めに廃止されたのでした。

彼らは又、士気向上や敵軍威嚇のために軍楽隊「メフテル」というものを持っていました。ヨーロッパの軍楽隊は、このメフテルが起源となっており、またモーツァルトやベートーヴェンは、メフテルの音楽に影響されて「トルコ行進曲」を作ったと言われています。
こちらで「メフテル」の音楽の勇ましい動画が見られます。

Ceddin Deden(動画) 

写真 ハーレムの中の「フルーツの間」
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「落下の王国」

2008年09月19日 | 映画
この映画、予告編やテレビのCMを観た時から、非常に気になっていたのでした。
トルコの、メヴレヴィーの旋回舞踏のシーンが入っていたのです(写真)。
(この映画のHPのトップページにも載っている)
アメリカの映画に何故、イスラム神秘主義の旋回舞踏が入るのか?
私は、どうしてもそれが気になって観に行ったようなものです。
"ザ・セル" のターセム 監督が、構想26年、撮影4年をかけて作り出したという作品。
どこまでも「落ちる」物語です。
映画撮影で陸橋から「落ち」、歩けなくなったスタントマンの青年ロイが、病院で、木から「落ち」て骨折した幼い女の子アンドレアに出会う。
ロイは失恋して絶望の底に「落ち」ており、少女に面白い話を聞かせて、自殺する為の薬を取りに行かせようとする。
ぷくぷくと太った可愛い女の子アンドレアもまた、深く傷ついて「落ち」ていた。
その現実の「落ちた」痛みが、ロイの語る物語に深く反映しているのです。

ロイの創作話、それは、子供の好奇心をくすぐる復讐劇であり、荒唐無稽なお伽話であり、壮大な叙事詩でもあります。
その背景に、世界24ヶ国以上、13ヶ所の世界遺産が使われているのです。
CGを使わないで撮影したという 世界中の絶景が、息を呑むほどに美しい。

少女の好奇心と生きる力が、いつしかロイの絶望を打ち破り、ロイが傷を乗り越えて再生していく姿を、彼が語る物語を通して描いています。
少女の傷というのは、作品中でははっきり語られないのですが
人種差別を受け、家を焼かれ、父親を殺されたのでしょうか。
そう解釈すると、この話はぐっと深みを増すのです。

難を言うなら、ロイの語る物語が、あまりに荒唐無稽すぎ、冗長すぎ。
そのせいか、期待したほどには感動しませんでした。
旋回舞踏のシーンも、美しいだけで、殆ど意味はない。
ただ、これを観たら、間違いなく世界旅行に行きたくなります。
原題は"the fall"というのです。
この邦題は、珍しくよくできていると思いました。

☆3

「落下の王国」
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トプカプ宮殿、ハーレムの悲劇

2008年09月17日 | トルコ旅行2008
トプカプとは、「大砲の門」という意味なのだそうです。
宮殿の面積は、70万㎡にも及ぶという広大なものです。
1453年にコンスタンティノープルを征服したマホメッド二世が、やはり数年のうちに造らせたといいます。



歴史の本によると、ここは単なる宮殿ではなく、行政府でもあり、帝国議会の場所でもあったのだそうです。
宮殿内には、公務員養成の訓練校、病院、兵器庫、貨幣鋳所からハーレムまであって、常時4~5千人の人々が暮らしていたのですと。

ここは何しろ広く、貴重な展示品の数も多く、目もくらむような宝石もごろごろあり、本気で見学しようと思ったら、一週間通っても足りないくらいだと思います。
宝物館のエメラルドの短剣、86カラットのダイヤモンドなど本当に素晴らしかった。
が、ここで私が心惹かれたのは、なんといってもハーレムでした。

ハーレムの建物は六層からなり、三百の部屋、通路、中庭、階段が入り組んで迷路をなしているが、私達が見学できるのは、そのうちわずか20室なのだそうです。
ハーレムというと、酒池肉林の桃源郷のようなイメージを抱きがちかと思いますが、少しばかりそれについての本を読むと、そこにいかに阿鼻叫喚の歴史があったかということに感じ入ります。
例えば、ハーレムの女達が、世界中から略奪されたり売られてきたということはよく知られていると思うのですが、そこには宦官という者たちもいた。
スルタン以外、普通の男たちの出入りは厳禁であったハーレムを取り仕切っていたのは、皇太后、そして黒人宦官長(クズラール・アーシ)であったのです。

オスマントルコのハーレムでは、最初、コーカサスなどから連れてこられた白人奴隷による宦官が中心だったのが、次第に、エチオピア辺りからの黒人奴隷による宦官が勢力を持ち出したらしい。
一説によると、それは、去勢手術の成功率が黒人のほうが高かったからだというのです。ちゃんとした外科手術なんてある筈もない当時、一体どうやって去勢したのか、私は興味を持って色々読んでみたのですが…
そのことにはっきり言及している書物は少ないようで、どうやら分かったことは(信憑性は定かではありませんが)、当時、イスラム社会では、去勢そのものは違法であった。なので奴隷商人たちは、アフリカで黒人を捕まえ、その場で性器を切り落とした。そして熱い砂漠の中に、その犠牲者を首まで埋めたというのです。 出血多量や破傷風などで亡くなる黒人も少なくはなかった。
そこで生き残った頑健な者だけをトルコまで連れて来て、ハーレムに売り飛ばしたと。
エチオピアで毎日自由に駆け回っていたのに、ある日奴隷商人に捕まり、チョン切られ、熱い砂漠に埋められ、鎖につながれて遠いトルコで売り飛ばされるなんて…
私だったら死んだ方がマシだと思ってしまいます。
人間は何処まで残酷になれるのでしょう?



   
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ブルー・モスク

2008年09月15日 | トルコ旅行2008
ブルー・モスクは、1616年にアフメット一世によって建てられたものです。
本当の名前は「スルタン・アフメット・ジャミィ」というのですが、モスクの内部を彩る青いイズニック・タイルがあまりにも美しいので、ブルー・モスクという通称で知られているようです。ミナレット(尖塔)を6本も持ち、ドームが山の重なりのように見える巨大なモスクです。

アフメット一世がこの建造を命じたのは20歳のとき。
そして驚くべきは、この巨大なモスクが7年でできてしまったことです。
ミラノのドゥオモは、500年かかってできたというのに…
当時のオスマントルコ帝国の権力・経済力の強さを思い知らされます。
そしてアフメット一世は、このモスクの完成を待ったかのように、27歳の若さで夭折してしまいます。

彼の死後、新たにスルタン(皇帝)になったのは、弟のムスタファ。
しかし、彼は「鳥籠」(カフエス)に12年間幽閉されていて廃人のようになっており、帝位は長くは続きませんでした。
この「鳥籠」というのは、スルタンが死に、その長男が皇位を継ぐとその弟たちが幽閉されるという部屋です。
「鳥籠」の皇子たちに仕えるのは、鼓膜を破られ、舌を切られた宦官と妾たち。聾唖にされるのは、謀反の陰謀を企てるのを防ぐ為。妾たちは、妊娠するとただちにボスフォラス海峡に沈められる運命にあったといいます。

一人ずつ閉じ込められた皇子たちは、外の世界から一切遮断されていたのです。
その為、精神のバランスを崩し、発狂する皇子も少なくなかったとか。
なんて残酷な、と思いますが、それ以前は、新しいスルタンが即位すると、その弟たちは直ちに殺害されるのが、オスマンの掟だったのです。
しかも、彼らスルタンには何人もの妻がいたので、殺される弟の数も半端ではなかった。
メフメット三世が即位した時には、11歳を頭とするいたいけな少年達が19人、父の死の直後に絞殺されたのです。
バヤジット一世以降、鳥籠制度ができるまで、スルタンの長男以外の皇子達は、父が死ぬや否や直ちに殺されていたのでした。

殺されるのと、人生の殆どを幽閉されて過ごすのと
どっちがマシか?
どちらにしても、トルコ史をほんの少し囓ると、その残虐性に目を見張ります…。
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そしてイスタンブール

2008年09月14日 | トルコ旅行2008
アジアとヨーロッパの狭間にあり、
東洋であって東洋でなく、西洋であって西洋でないという不思議な都市。
ビザンティウム、コンスタンティノープル、イスタンブールという三つの名前を持つ都市。今回の旅行で私は、ここを一番楽しみにしていたのでした。

旅行に際して、トルコの関連本をamazonで探し求めたのです。
本当は旅行記や生活体験記を読みたかったのですが
トルコに関してのそういった本はあまり数がなく、その中でも面白かったのは数冊ほど。仕方なく、歴史物を読み漁ったのでした。(が、これが面白かった!)
そして、その歴史物の舞台となるのは、なんといってもこの古都だったのです。

紀元330年から実に1123年の間、ビザンティン帝国の首都であり続けたコンスタンティノープルが、オスマン・トルコによって陥落したのは、1453年5月29日。
それを成し遂げたのは弱冠21歳の若きトルコの王、マホメッド二世。
彼は、白い緞子の大マントの下、白い服に緑の帯をしめ、頭上のターバンには緑のエメラルドが大き輝いていたといいます。
帯にさした半月刀は、眼もまばゆいばかりの黄金で作られていた、と。
そして”聖ソフィア大聖堂の前で白馬から降りた若き王は、一握りの土をとり、自らのターバンの上からそれをふりかけた。
トルサン(注・小姓)にも、いつもは高慢な主人が、アラーの神に謙遜の意を表したことがわかった。”(「コンスタンティノープルの陥落」塩野七生より)

この聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア)というのも、数奇な運命を辿っているのです。
537年に完成されたこの建物は、キリスト教会堂として作られ、ビザンチン建築の最高傑作といわれているのだそうです。
ローマのサン・ピエトロ、ミラノのドゥーオモ、ロンドンのセント・ポールについで、世界で4番目の大きさを誇るのだとか。
ところが、マホメッド二世によってここはただちにモスクに改められ、エザーン(礼拝の呼びかけ)を促す4本のミナレット(尖塔)もその時に建てられたのだそうです。
美しいモザイクは漆喰で塗り固められ、イスラム装飾が施され、漆喰が取り除かれたのは、トルコ共和国になった1934年以降のことだといいます。

アヤソフィアという名前は、ギリシア語で「神の知恵」を意味するのだそうです。
”1453年5月のコンスタン地ノープル陥落の前夜、人々は日没後からこの教会に集まり、決して怒ることのない奇跡を求めて祈り続けた。夜が明けて、トルコ軍の先兵がこの教会に殺到し、閉ざされた扉は打ち破られた”(「イスタンブールの歴史」澁澤幸子)
”逃げ切れなかったほとんどすべての住民は捕虜となった。(中略)
何しろトルコ人は、実の親を殺した者さえ、奴隷に売って金をもうける方を選ぶ、といわれている。捕えられた人々は、身分も男女の区別もなく、いちように二列に並ばされて…(中略) 悲鳴が起るのは、姿の美しい若者や女を奪おうとするトルコ兵が、列から引き離そうとする時だけだった。”(塩野七生)

他民族の戦争というのは、こういうことを意味するのですねえ…

写真 ボスフォラス海峡から撮ったもの 左がブルーモスク、右がアヤソフィア
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「イントゥ・ザ・ワイルド」(ネタバレあり)

2008年09月13日 | 映画
またしてもやられました…
日経新聞の映画批評「シネマ万華鏡」。
そこで星5つ取った「イントゥ・ザ・ワイルド」。

こんなマイナーな映画を観に行く人は少ないだろうし、観に行くような人は、多分話の筋も知っているだろうと思うのです。
なので、ネタバレしてもいいかと思います。

「青年が荒野に行き、のたれ死ぬ」 それだけの話です。

1992年アラスカの荒野で衰弱死した青年の遺体が発見される。
彼は裕福な家庭で育った成績優秀な青年だったが
お金もIDカードも名前も全て捨て、アラスカの荒野へと旅立つ。
実話を元にした原作をショーン・ペンが映画化。

「この映画によって彼は世界の一流監督の仲間入りを果たした」
と、日経の記事は始まっています。
「絶望を絶望として肯定せよ、とでもいうような、ほとんど東洋的ニヒリズムにさえ達している。その冷徹で、静謐な、澄みきったまなざしに打たれる。本年度屈指の一本。」と。

絶望を絶望として肯定するとは、どういうことか?
彼、クリスは、ニヒリズムに酔いしれるような哲学的な青年ではない。
明るく、知的で、純粋で、無謀で、傲慢な若者です。
確かに、両親の不仲や欺瞞は彼をどんなに傷つけたか分からない。
しかしだからといってそれは、全てを捨て、社会や文明を拒絶するほどの理由になるのか?
なろうがなるまいが、事実クリスという若者はそういう道を選び、ショーン・ペンはそれを忠実に映像化したのでしょうが。
それをニヒリズムと言えば、確かに言えるでしょう。

クリスが大自然を愛したことは事実です。
狂おしいまでに。
アメリカの大自然を切り取った映像は、荘厳なまでに美しい。
しかし、美しい大自然は彼を愛してはくれなかった。
大自然は都会育ちの人間を受容してくれるほど、甘くはなかった…
旅の途中、様々な人に彼は出会うのですが、誰も、彼を引き止めるほどの力は持っていなかった。
というより、様々に差し出された善意を、彼は優しい笑顔で、無慈悲なまでに切り捨てていくのです。

クリスは結局、飢えと絶望の中で最後の時を迎えるのです。
それは、彼の傲慢さへの答えであったのかもしれない。
だけど彼は、最後にこう書き残すのです。
「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時
 僕の一生は幸せだった みんなに神のご加護を!」
ここに来て、彼はようやく両親を許すことができたのでしょうか。

若い頃、五木寛之の「青年は荒野をめざす」を読んだ覚えがあります。
荒野を、孤独をめざすのは、若者の特権であるのかもしれない。
けれども、代償はあまりにも大きすぎました。
その傲慢さを、少しは控え目にしなさい!と二人の息子の親である私は思ってしまいます。

という訳で「本年度屈指の1本」とまで私には思えなかったし、クリスに共感できなかったので☆2。

イントゥ・ザ・ワイルド 
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トルコ式朝食

2008年09月11日 | トルコ旅行2008
主婦である私としては、色々な国の人々が毎朝どんな朝食を食べているのか?というのは、とても興味あるところです。
去年のイタリアではいささかガッカリしたのですが…
トルコの朝食は、とてもリッチでした!

トルコという国は、食糧自給率が殆ど100%なのだそうです。
そのせいか、全体的に食品は安くて美味しいという感じでした。
朝食は毎朝ホテルのバイキングでしたが
みずみずしい果物(スイカ、メロン、オレンジ、サクランボ、モモなど)、新鮮な野菜、美味しいパン(トルコのパンは本当に美味しかった!焼きたてのフランスパンのようなのあり、クルミ入りやゴマ入りやレーズン入りあり、甘いペストりーあり)、10種類以上のチーズ(見た目は豆腐のような、白いヤギのチーズがよく出ていた)、数種類のハム、サラミ、オリーブの実、卵料理、スープ(ポタージュやトマト・スープ)、数種類の果物ジュースに、チャイ、トルコ・コーヒー、ネスカフェ、 そしてヨーグルト!

今回初めて知ったのですが、ヨーグルトというのは、トルコが発祥の地なのだそうです。ヨーグルトという単語もトルコ語なのだとか。
確かにトルコでは、ヨーグルトがいたる所で食べられていました。
そして朝食では、ヨーグルトに入れる具が10種類以上。
果物の角切りのシロップ煮、様々なジャム、シリアル、干しイチジクや干しアンズ、そして新鮮なハチミツ。

このヨーグルトというのが、私が家で培養している「カスピ海ヨーグルト」と、味といい、粘り具合といい、非常によく似ているのです。
この豊かで美味しい朝のヨーグルト・バラエティ、私はとても気に入って、我家でもやろう!と決心したのです。
元々ヨーグルトが好きで、ブルーベリーやラズベリーなどのジャムを入れて食べていたのですが、もう少しバージョン・アップして、果物のシロップ煮なども用意してみました。
しかし我家の頑固な男ども、市販のヨーグルトは食べるくせに「培養ヨーグルト」は気持ち悪いといってどんなにも食べようとしない…
無添加で牛乳100%、市販の製品よりどんなに健康的か分からないのに。
ヤツラの嗜好を変えるのは、政権交代よりも難しそうです(泣

トルコではまた、朝食だけでなく、日中いつでもヨーグルトを飲んでいるようです。
「アイラン」というヨーグルトの飲み物があるのですが、これがなんと塩味なのです。
甘くないというだけで、あとは日本の飲むヨーグルトと同じです。
最初はギョッとしましたが、慣れればさっぱりとした飲み物でした。

写真 ヨーグルトの具
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トルコの飲み物

2008年09月10日 | トルコ旅行2008
トルコでは「チャイ」といって、紅茶をよく飲むようです。
ごく小さなグラス(ヤクルト位の大きさ)に入れた紅茶を何杯も飲むようなのですが、この100ml程しか入らないようなグラスに、小さなお皿がついて、角砂糖がきっちり2個ずつ付いてくる。
勿論入れるかどうかは自由なので私は入れませんでしたが、トルコでは入れる人が多いようです。
紅茶の味自体は日本で飲むのとそんなに変わりませんが、二段式のティー・ポットで、上段に入れた茶葉を下段のお湯で、蒸し出すようにして淹れるのだそうです。
椎名誠の「イスタンブールでなまず釣り」(トルコ関連の本が少なくてこんなものまで読む羽目に…)に「チャイチャイチャイチャイチャイ」と、やたら紅茶をすすめる「必殺シツコイ茶男」が出てくるのですが、実にそれが納得できるほど、あちこちでチャイを飲んでいる姿を見かけました。

食後にはトルコ・コーヒーもよく飲むようです。
コーヒーの粉と砂糖を直接煮出すようで、苦くて甘くてドロドロしている。
これも、デミタス・コーヒー・カップのようなごく小さなカップで飲むのですが、これにも角砂糖が2個付いてくる。
只でさえお菓子が甘いのに、甘すぎますって…
ついでにコーヒーは2種類あって、もう一つは「Nescafe」といってインスタント・コーヒーなのです。
カフェでも、五つ星ホテルのレストランでも、メニューに堂々と「Nescafe」と
出ていました。
いわゆるレギュラー・コーヒーにはついぞ出会えませんでした。

ちなみに水は何処でも有料でした。

写真はお土産に買ってきたチャイ・グラスセット。
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