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このように健全な歴史観に基づく高い精神に比べると、「価値観外交を推進する議員の会」(古屋会長、中山顧問、http://www.furuya-keiji.jp/images/19_05_17%BC%F1%B0%D5%BD%F1.pdf/比喩的に言えば、この会のメンバーの多くも寄生虫のような二・三・四世の世襲政治家!/当会の古屋会長は、皇室典範改正・靖国参拝・民法772条などを列挙しつつ同じ方向をめざす同志を糾合し、青藍の天空を貫く行動ができる集団機能の役割を果たしたいと述べており、それはまるで『エイリアンのように寄生的で特異な意志』(=外見的立憲君主制の復活への意志)を“新しく美しい日本の国のかたち”にするなどということが、いかに<恐るべき権的な時代錯誤>(=暴政・悪政の標本のような化石的アナクロニズム)であるかが分かるはずです。 <o:p></o:p>
死者に鞭打つ意志は毛頭ありませんが、先進民主主義国家の一員たることを少しでも意識する国々のなかでは<前代未聞の現役閣僚の自殺>という出来事を「一政治家個人の内心の問題」と片付けることは無理なことであり、むしろ、それは<暴力的・カルト的で異常な政治のあり方ゆえの悲劇的な矛盾の現れ>であったと見做すべきです。 <o:p></o:p>
今からでも未だ遅くはありません。“美しい国”なるものの実像が、実はこのようにおぞましくも非倫理的、非人道的、非人間的、非平和的な、そして暴力的な<暴政>であることに我われは一刻も早く気づくべきです。 <o:p></o:p>
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●当記事と関連するものとして、以下に[kaisetsuさま → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070531]のTB(追加部分)の内容を転載しておきます。 <o:p></o:p>
KJさんへ 追伸 2007.06.01 Friday
『toxandoria の日記、アートと社会』より、暴力的本性を直視する『平和主義』の意義 <o:p></o:p>
(2007.05.31 Thursday『toxandoria の日記、アートと社会』 暴力的本性を直視する『平和主義』の意義を読んで感じたこと。) <o:p></o:p>
上記の記事を書いて、KJさんのことを思い出しました。と言うか、ずっと心に残っていました。 <o:p></o:p>
前に、一度書いたと思いますが、もう少し、具体的に書いてみたいと思います。 <o:p></o:p>
KJさんは政府系機関に勤めておられました。若くて優秀な方でした。でした、と言うのは、結論から先に言ってしまいますが、「決別」という強い表現で、その政府系機関を自主的に退職されました。内心を詮索することは不可能です。 <o:p></o:p>
しかし、海舌宛の手紙に、その政府系機関への「決別」という表現とともに、司馬 遼太郎氏への思いと海舌への感謝の言葉が在りました。確かに、KJさんは、或時、とても眼を輝かせて、「坂の上の雲」を全部読破したと語っておられまし た。本当に、何かとても澄んだ眼で、何かを掴んだような様子でした。そのことと「決別」に直接の関係があるのか、海舌は判断出来ませんし、しません。 <o:p></o:p>
また、海舌は、決して「決別」と言う行為が正しいとか、間違っているとかの判断をするものでは在りません。問題が在れば、内部で変革することも重要なことだと思っています。 <o:p></o:p>
海舌が、ここで言いたかったのは、日本の若者の中には、特に官僚や政府系機関の人々の中にも、司馬遼太郎氏が描いた明治の精神、或いは、他の時代であっても、しかし、決して昭和では無い、張り詰めた透明感を確かに、司馬遼太郎氏は「凛とした」という表現をされていたように思いますが、それを心に抱いた方 も居られるということを申したかったのです。 <o:p></o:p>
但し、執拗ですが、司馬遼太郎氏は明治時代の精神を「凛」と言っているのであって、決して昭和の精神を、そのような言葉で現していないということです。 <o:p></o:p>
安倍晋三首相が、もしも万が一、昭和の戦前・戦中・戦後の精神を「凛」という言葉で表したことが在るなら、それは完全にアナクロニズムであり、大きな誤解であり、司馬遼太郎氏を冒涜することだと思います。 <o:p></o:p>