格差階級社会をなくそう

平和な人権が尊重される社会を目指し、マスゴミに替わって不正、腐敗した社会を追求したい。

督促は熱心なくせに

2007-06-04 21:32:01 | 階級闘争

「督促は熱心なくせに」  くせになってます。
http://www.asyura2.com/07/senkyo35/msg/784.html
投稿者 いわんこっちゃん <st1:OLKEVENT w:st="on" AllDayEvent="0" End="2007/06/04/21/19" Start="2007/06/04/20/19">日時 2007 6 04 20:19</st1:OLKEVENT>:47: 413lEnvjfcH4E <o:p></o:p>

(回答先: 「督促は熱心なくせに」 政府や社保庁に不満の声渦巻く(東京新聞) 投稿者天木ファン <st1:OLKEVENT w:st="on" AllDayEvent="0" End="2007/06/04/20/25" Start="2007/06/04/19/25">日時 2007 6 04 19:25</st1:OLKEVENT>:31)<o:p></o:p>

振り込め詐欺発祥、天下り天国、高級不要保養施設乱立、お手盛り職員慰安所、駐車場、悪の枢軸。以下に尽きる。 <o:p></o:p>

1 :自民党政治は国民の財布からお金を巻き上げるだけの「泥棒政治」:2006/07/12() 03:57:28 ID:uEIAEdb2
「泥棒国家(クレプトクラシー)の完成」(米経済誌「フォーブス」元記者B・フルフォード著)より抜粋

(1)
現在の日本は、人類史上類をみない「泥棒国家」(クレプトクラシー)である。

民主主義国家ではありえないとされる一部の特権階級によるオリガーキー(寡頭政治)が行われている国であり、

本当の意味での国民の代表者が政治を行っていない。

彼ら、すなわち、政治屋、官僚、ゾンビ企業、ヤクザらが、

あなたが毎日一生懸命働いてつくりだした富を、手を替え品を替えて奪っているのである。

これは、まさに国家による収奪である。(中略
)
そればかりか、200311月の総選挙で小泉インチキ改革政権の続投が決まったことによって、

このシステムはさらに強化されているのだ。(後略
)
(2)
なぜ、多くの日本国民が、いまだに自民党政治が、国民の財布からお金を巻き上げるだけの

「泥棒政治」(クレプトクラシー)であることに気がつかないのだろうか?(中略
)
この国では、国民一般の勤勉さ、真面目さに比べ、政治家や官僚など支配層の人々の卑しさは、あまりにも異常だ。

彼らが一部の業界やヤクザと組んでこれまでやってきたのは、国民の税金を勝手に使って、

「車が通らない高速道路」「ただ水を貯めるだけに存在するダム」

「野菜を運ぶためだけの地方空港」「誰も利用しない市町村ホール」

「ただ官僚が天下るためだけに存在する豪華保養施設」などをつくることだけではなかったか?(中略
)
そして、これらの公共工事と称する利権ビジネスで票とリベートをもらい、

それで私腹を肥やし、この国を民主主義国家から特権階級が支配する国家に変えてしまったのである。

その結果は途方もない借金の山である。

公的債務は約800兆円と言われるが、これに年金や公団・公社などの準政府部門の隠れ債務を加えれば、

その額はじつは2000兆円という説もある。(中略
)
その結果、日本の国債の格付けは、アフリカの小国ボツワナ以下になってしまった。(中略
)
それなのに、泥棒たちは、いまだに借金をやめようとしない。

国債を発行しまくり、道路もダムもまだつくるといって、年金カットや増税策を推し進めている。(中略
)
それなのになぜ、あなたは怒らないのか?

なぜ、このような犯罪集団を選挙のたびに選んでしまうのか?(後略)<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

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飯島氏を国会証人喚問せよ

2007-06-04 10:26:23 | 謀略と真相
【飯島を国会証人喚問せよ】

 「現役大臣松岡農相の議員会館宿舎内自殺?事件」に言及しておく。その第一点は、事件が種々不可解な点を残しているにも拘らず、司直の捜査の手は萎縮しているのではなかろうか。現場検証、関係者事情聴取、リード、脚立、遺言書等々の証拠物の吟味や入手経路等々の捜査は進んでいるのだろうか。

 現役の閣僚の「自殺?」は、格別の捜査でもって、それがどういう事由により引き起こされ、どういう風に死亡したのか徹底的に解明されてしかるべきではなかろうか。参院選に対する影響を論うのは興味本位であり、そういう風に茶化してはいけないそれ以前の次元の違う為すべき肝要事として認識し徹底捜査すべきではなかろうか。

 その第二点は、飯島元小泉首相秘書官が登場していることに鑑み、彼が何をしたのか、その挙動の一部始終を明るみにさせねばならない。彼は自ら、「松岡氏が死亡した日の午前中に、松岡氏の携帯電話をコールしたが応答がなかった」と証言している。この話が実際かどうか、つまり電話したのか、繋がらなかったのかどうか裏づけを取るべきであろう。誰から飯島に連絡が入ったのか、慶応病院へいち早く駆けつけ何をしたのか、しなかったのか解明せねばならない。

 飯島宛の手紙は今どうなっているのだろうか。司直は直筆かどうかも含め、いつごろ書かれたものか、その内容についても厳正捜査しているのだろうか。私信ゆえに公開せずは通るまい。

 れんだいこは思うに、与野党はこぞってキーパーソンの飯島元小泉首相秘書官秘書を国会へ証人喚問せよ。「飯島工作」の全貌を明らかにさせよ。彼が、死因特定、司法解剖せずの判断に関与している可能性が強い。これが事実かどうか、事実としたら法に抵触していないかどうか判断せねばならない。

 その第三点は、れんだいこの情報不足かも知れないが、こたびの事件を担当した医師団の所見が見当たらない不自然さを感じる。誰が担当したのかさえ分からない。担当医師は今からでも司法解剖せずの判断の根拠を示さねばなるまい。

 以上の三点は普通に湧く疑問である。この疑問に誠実に対応しない与野党よ、汝らは揃いもそろってなぜ、事件の徹底捜査と飯島証人喚問の声を上げないのか。松岡農相自殺説に何の疑問も湧かさず当初から受け入れているのはなぜか。

 週刊誌がどのように事件を採り上げているのかにも興味がある。本来なら、不審男飯島をターゲットとした記事が出てもよさそうだが、これまでのところ何やら避けている風がある。この裏には何があるのか。決して偶然では有るまい。日頃、言論の自由を説教しているからには、ここで男ぶりを見せてみぃ。

 れんだいこは、様々のブログに目を通してみたが、飯島に疑惑の眼を向けるそれは案外少ない。むしろ目を向けさせないようあらぬ方向へ引っ張ろうとするそれが多い。れんだいこは、公然登場し傍若無人に振舞った飯島の挙動不審を見過ごすべきではないと考える。徹底追及せねばならないと考える。

 2007.6.2日 れんだいこ拝
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2007-06-04 09:51:23 | 人権

 <o:p></o:p>

日本を批判する者を反日呼ばわりしてきた者は、「ちょっと日本、ここがおかしいんじゃないか」と思うことがあっても、それを口にしたら自分も反日視されるのではないかと怖くて、言えない。
つまり、人を排除することにより安心感を得てきた者は、自分が排除されることを極端に不安視するのです。したがって彼らは、自分の考えを無視してでも、周りに付和雷同するしかなくなります。自分の感覚を無視することで安心感を得る。まさしく精神の死です。そこにあるのは、他者に追随するという選択肢のみ。自分の意思が入る余地はないのです。
精神の自由とは自分の意思に従って物事を考え、場合によってはそれを行動でも表す自由ですから、付和雷同しか選択肢のない人には精神の自由はないということになります。
そして、なぜ付和雷同しか選択肢にないと思い込んでしまうかと言えば、それは、排除により安心感を得るという心のもちように問題があります。
排除でなく、相手を受け容れる心、すなわち寛容の精神を持ち、そこに安心感を見出せるようになれば、皆精神の自由を得ることができる。
私はそう考えます。 <o:p></o:p>

しかし、政府は国民に精神の自由を享受させるつもりはさらさらない。
精神の自由などを下手に国民が学ぶ前に、取り上げてしまおう、という魂胆です。 <o:p></o:p>

共謀罪という名の密告・監視社会化、精神の抹殺を目的とした法案に対し与党がずっと執着してきているという事実も、このことを証明しています。 <o:p></o:p>


精神の自由を殺したら権力者にとって、財界の経営陣にとって、軍需産業にとって一体何が好都合か。 <o:p></o:p>

集団意思、主人の命令には絶対従う奴隷を作り出すことができる。ロボットを作り出すことができます。権力者のために何も言わずに命を投げ出す兵士が作り出せます。 <o:p></o:p>

小泉、安倍の靖国への執着も、権力者のために命を投げ出すことは政府要人の参拝に値するほど素晴らしく名誉なことなのであると、国民に、とりわけ、将来の兵士予備軍の若者に対し、印象付けることに狙いがあります。 <o:p></o:p>

こうした裏の意図を知らずして、「行き過ぎた自由」だの、「靖国参拝は当然だ、中国や韓国は四の五の言うな」といった議論に引きずられてしまうと、国民は最終的には精神のみならず命をも捨てることになります。 <o:p></o:p>

===================================
どこへ行く、日本。(安倍の「戦後体制からの脱却(=戦前・戦争体制への回帰)」を日本国民は許してしまうのか)
http://ameblo.jp/warm-heart/ <o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

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「行き過ぎた自由」の名のもと、永遠に奪われようとしている自由;その代償は命にまで。

2007-06-04 09:49:56 | Weblog

「行き過ぎた自由」の名のもと、永遠に奪われようとしている自由;その代償は命にまで。
http://www.asyura2.com/07/senkyo35/msg/743.html
投稿者 heart <st1:OLKEVENT w:st="on" AllDayEvent="0" End="2007/06/04/02/14" Start="2007/06/04/01/14">日時 2007 6 04 01:14</st1:OLKEVENT>:02: QS3iy8SiOaheU <o:p></o:p>

自由が根付かないうちに、また、真の自由とは何かということを考えることもしないまま来てしまったがゆえに、巷では、自由とわがままが混同されています。国民の努力不足です。 <o:p></o:p>

結果、「行き過ぎた自由」などということが自民系の政治家やその御用弁舌家の口から平然と語られるようになり、国民も、この「自由」には確かに歯止めが必要かもしれない、などと思い込んでしまう。国民を思うように操りたい政治家の思うツボです。 <o:p></o:p>

集団の中で個を殺すことで生き延びてきた日本国民のサガかもしれませんが、集団の中で自分の意思を殺すということがすなわち自由の死だと私は思います。もちろん、集団の中では他人の意見に従うことが必要なことも多々あります。しかし、自分の意見を言い、皆で議論し、納得した上で集団意思に従うのと、自分の意見を抹殺された中で集団意思に無理やり従わされるのとでは、精神の自由度、精神の生き具合は全然違います。
「行き過ぎた自由」論は、究極のところ、精神の自由を殺すことを目的としたものだと思います。 <o:p></o:p>

今の教育改悪もその一翼を担うものです。
子供に、「国を愛する態度」表明を力づくでもさせる。君が代を歌うか否かだけでなく、声量までチェックするということが、一部の学校だけでなくすべての学校でまかり通るようになるでしょう。
また、型にはめた、おそらくは奴隷根性レベルの忠誠心だけを強調した道徳教育を推し進める。 <o:p></o:p>

最近、とある書店で、
「道徳の教科書善く生きるための七十の話 」
という本がずらりと表向きにして三段ほど うずたかく積まれているのを見ました。
著者は、「愛国心の教科書誇り高く生きるための五十の話 」を書いたのと同じ、渡邊 毅という人です。 <o:p></o:p>

内容は、一見、納得してしまいそうな「いい話」も含まれているようでした。
しかし、文面、言葉の端々からは、ナショナリズムを煽り、日本を批判する者を「反日」呼ばわりする者たちと同じにおいがしてきます。 <o:p></o:p>

「日本は素晴らしい<自分が日本人であることに対する誇り>
その日本を批判するなどもってのほかだ<自尊心を傷つける言動に対する拒否反応>
日本を批判する奴は日本人ではなく、「朝鮮人」か「支那人」に違いない<相手を排除し、(彼らの基準の中での)蔑視対象と同一視する、また、思い込むことによって、安心を得、自分を守ろうとする>」 <o:p></o:p>

こういう思考回路を持ち、間違った安心感に満足してしまった人たちが、今の安倍・ネオナチ政権を支えていると言っていいでしょう。 <o:p></o:p>

本当の安心感は、人を排除することからでなく、人を受け容れることから生まれてくると思います。 <o:p></o:p>

また、本当の精神の自由も、お互いがお互いを受け容れることから生まれてきます。 <o:p></o:p>

日本を批判する者を反日呼ばわりしてきた者は、「ちょっと日本、ここがおかしいんじゃないか」と思うことがあっても、それを口にしたら自分も反日視されるのではないかと怖くて、言えない。
つまり、人を排除することにより安心感を得てきた者は、自分が排除されることを極端に不安視するのです。したがって彼らは、自分の考えを無視してでも、周りに付和雷同するしかなくなります。自分の感覚を無視することで安心感を得る。まさしく精神の死です。そこにあるのは、他者に追随するという選択肢のみ。自分の意思が入る余地はないのです。
精神の自由とは自分の意思に従って物事を考え、場合によってはそれを行動でも表す自由ですから、付和雷同しか選択肢のない人には精神の自由はないということになります。
そして、なぜ付和雷同しか選択肢にないと思い込んでしまうかと言えば、それは、排除により安心感を得るという心のもちように問題があります。
排除でなく、相手を受け容れる心、すなわち寛容の精神を持ち、そこに安心感を見出せるようになれば、皆精神の自由を得ることができる。
私はそう考えます。 <o:p></o:p>

しかし、政府は国民に精神の自由を享受させるつもりはさらさらない。
精神の自由などを下手に国民が学ぶ前に、取り上げてしまおう、という魂胆です。 <o:p></o:p>

共謀罪という名の密告・監視社会化、精神の抹殺を目的とした法案に対し与党がずっと執着してきているという事実も、このことを証明しています。 <o:p></o:p>


<o:p> </o:p>

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