Re::れんだいこのカンテラ時評607 れんだいこ 2009/09/20 11:00
【鳩山政権の第一関門、記者クラブ制考】
2009.9.16日の鳩山民主連合政権の登場と共に、記者クラブ制問題が浮上してきた。民主党は、政権奪取前の公約で、「記者クラブ制を開放し、他のメディアにも参加させる」方針を打ち出していた。ところが、平野官房長官が就任直後、記者クラブ開放について消極的姿勢を見せ始めたという。政権奪取後、いきなり「記者クラブ開放公約」を反古(ほご)するようでは、他の公約も同じ運命を辿ることが予見されるという意味で、この問題の持つ意味は大きい。
他方、岡田克也外相は9.18日の記者会見で、概要「閣議後の首相官邸や国会でのぶらさがり取材は、記者クラブ所属以外のメディアが参加できておらず、これでは十分な情報発信はできない。今後は定例会見を原則週2回とし、同省記者クラブ所属の報道機関に限らず全メディアに開放する。但し、会見への参加は、危機管理上の配慮から、事前登録を前提とする」と発表し、記者クラブに所属する報道機関以外にも参列の道を開く方針を明らかにした。これにより、日本新聞協会、日本民間放送連盟、日本雑誌協会、日本インターネット報道協会、日本外国特派員協会の会員のほか、外国記者登録証保持者やフリーランスの記者が対象となり、従来の記者クラブ以外にも スポーツ紙、週刊誌、月刊誌、外国人向けメディアなどが参加できるようになる。
鳩山政権は、記者クラブ開放を廻って早くも平野官房長官と岡田外相との間に齟齬を見せ始めていることになる。この問題を愚考する。れんだいこの解析するところ、この問題は、記者クラブ制そのものの在り方と、著作権問題の二面が絡んでいる。
記者クラブ制とは、政府の記者会見の際、閉鎖的に選別された有力マスコミ各社の会員に絞って参席が許されている取材体制を云う。この特権的な地位をpreferred access(優先的アクセス)とかprivileged access(特権的アクセス)と呼ぶ。これにより、「政治の第一次情報が、記者クラブというフィルターを通してからでないと、国民へ到達しない」ことになっている。この制度の由来には歴史的経緯があり、それを無視しては是非判断できないにせよ、記者クラブ制が情報公開という時代の流れに反していることは間違いない。
物事には是非があるとして、この観点から記者クラブ制を評すると、この制度には、参席する記者の身元素性が知れており、要人の警備上安全という利点がある。デメリットは、質疑が慣れ合いに流れ易く、ジャーナル的に急所を突く質問が排除される傾向を生む。時には格好の政府広報や単なるセレモニーの場に変質したりする。この両面の功罪を踏まえて政治的にどう打開すべきか、これが問われていることになる。
しかしながら、れんだいこには、こうしたレベルでの評論にとどまるならば表層的であり、真の問題に踏み込んでいないように思われる。記者クラブ制問題がクローズアップされつつある裏事情には、次のような問題が宿されているのではなかろうか。即ち、現下の有力報道機関、総じてマスコミは、現代世界を牛耳る国際金融資本(以下、ネエシオニズムと仮称する)の支配下にあり、厳しく情報統制されている。彼らのメディアリテラシーに監視され、スルーした情報のみが伝達されている。逆は逆である。それは同時に長期的な愚民化政策に基づいており、世界一識字率の高い日本人民大衆の軽薄化、野番衝動化を画策している。このことを踏まえなければ事の真相の深層に迫れないのではなかろうか。
これについて詳しく知りたければ、「シオン長老の議定書の言論機関、マスコミに関する記述一覧」で考察しているので参照されたい。れんだいこは、あらゆる兆候から、この問題を真実とみなしている。
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/neozionismco/zionnogiteisyoco/theemabetuco/theemabetuco10.htm)
このクビキの下で、日本マスコミ界は本来のジャーナル精神を歪められ、ネオシオニズムのエージェントとして彼らを利するプロパガンダを一方的に垂れ流したり、その意を汲む政府の御用聞きに勤め、その意を汲まない政府、政治家に対する当てこすり、針少棒大批判に耽っている。しかも、近年、こういう姿勢をますます強め次第に顕在化させつつある。かのロッキード事件における稀代の有能政治家・田中角栄失脚訴追キャンペーンなど最たる例であった。ここ十年で見れば、自公政権、これを背後で操る国際金融資本のメディア戦略は、マスコミを駆使して世論誘導し、新自由主義政策という名のハゲタカ利権擁護のペンを思う存分ふるってきた。小泉政治を称揚し、狂人小泉を名宰相としてもてはやした。これに一定の距離を保とうとした安倍、福田、麻生の各政権に対しては批判の舌鋒を鋭くしてきた。ペンの正義を云うには恥ずかしい政治主義ぶりを発揮してきた。
この間、新聞紙面が活力を失い、新聞各社が系列支配しているテレビメディアは、日常的にこれでもかというほどバカ番組を粗製乱造し、1億総白痴化を画策している。そういう事情によって、多少なりともまともな者のテレビ離れを促しつつある。他にも、中近東に於けるイスラエルの蛮行が国際的批判に遭っている時には決まって北朝鮮のテポドン、拉致問題を採り上げ、関心をそらせるという新たな機能をも露骨化させつつある。直近の例でいえば、2009総選挙、これに引き続く鳩山政権誕生前後に合わせて報道され続けた酒井法子大麻事件の執拗さは、その好例である。同事件が総選挙過程で発生し、逮捕、釈放が政局の重要な節目に合わせて演出されたのは決して偶然ではなかろう。かく共認したい。
日本マスコミ界がネオシオニズムにコントロールされる度合いに応じて、記者クラブ制の弊害が目立ち始めた。これには以上のような相当の根拠があるとみなすべきであろう。既存メディアは役に立たないばかりか今や腐り抜いている。この認識が元になって、記者クラブ制という大手メディアのプレス特権からの開放が迫られつつあると認識すべきではなかろうか。もはや大手メディアは当てにならないのであり、彼らに代わるあるべきメディアの創出こそが真に望まれている。記者クラブ制問題をこの座標で位置づけて解く必要があろう。
鳩山民主連合政権が、かく腐敗堕落しきっているマスコミ、その表出権力体としての五大新聞による報道管制システムと闘わず、逆にその圧力に迎合するようなことでは先行きが暗かろう。世間では、鳩山政権に於ける小沢幹事長との二重権力問題に講釈を垂れる手合いが多い。しかしながら、れんだいこの見るところ、それを咎めるならメディア権力問題の方が本ボシであり、これを切開することこそが真の政治評論であるように思われる。誰か、かく共認せんか。
ところで、記者クラブ制には、もう一つ著作権問題が絡んでいる。現代マスコミは業界上げて著作権狂いしている。その酷さは、著作権法が開放しているところの時事報道ニュース、死亡記事に対しても、利用規制網を仕掛けているところにある。「要事前通知、要事前承諾、要対価制」という檻を設け、著作権利権に囲い込み、その圧力をますます強めつつある。「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」がその申し合わせであり、以来猛威をふるいつつある。
これの音頭取りしたのがナベツネ派である。ナベツネ派の生息する読売新聞が記事と云う記事の末尾に「無断転載禁止」を但し書きし顰蹙を買っているのは偶然ではない。読売系は、見出しにおいても著作権を主張し、いくつかの訴訟に持ち込んで得意然としている。バカさ加減も極まれりというべきではなかろうか。いずれにせよ、ナベツネ派が画策し読売系が水先案内した結果、この風潮が全マスコミ界を汚染し、今や自縄自縛に陥っているという滑稽さを見せつつある。にも拘わらず、更に著作権狂いせんとしつつある。こうなると不治の病に陥っていると見立てるべきであろう。
この問題は、著作権棒を振り回しながら、その実狙いは報道管制にある。この報道管制は、愚民化政策と一体となって推進されつつある。ここを見てとらねば、著作権問題の深刻さに至らない。著作権棒をもっとも強引に振り回す読売-日テレ系が殊のほかバカ番組に執心し垂れ流し続けているのは偶然ではないということになる。
かく判ずれば、我々は、その対抗策として、既存メディアとは違う別系の政治情報に於ける人民大衆的利用を良しとするメディアを創出せねばならないことになろう。記者クラブ制は、この問題を見据えて議論していかなければ十全な解決にはならない。つまり、プレス特権による優待つきの著作権棒を振り回すような輩に特権は与えられないとする立場から、どちらかを選択させねば解決しない。特権まみれにしがみつくのか、特権を離すのか、はっきりさせねばならない。手前が特権まみれに居りながら官僚特権の舌鋒を振り回すのを茶番劇という。
鳩山政権は、記者クラブ制にとどまらず現代メディアが陥っている奇形化、著作権狂いに対して踏み込む力があるだろうか。否逆に、これを更に推し進める恐れはないのだろうか。こういうところが関心にならざるをえない。れんだいこ的には、著作権、プレス特権からの楽市楽座的開放政策こそが望まれており、この方向に針路を執らなければ、初手から危ういと見立てる。旧政権のウミをださせるとは、こういう問題にも及ぶべきだと考える。
2009.9.20日 れんだいこ拝