年の瀬と言えば忠臣蔵、この赤穂浪士の物語は、大石内蔵助が忠義に燃える家来を率いて主君の遺恨を晴らすというものですが、忠臣として山鹿流の兵法に通じ、武士道を重んじてきた人物として人間味を感じることで人気を博してきました。
赤穂藩には、大石以外に3人の家老がいました。
無能として描かれた江戸家老の藤井、安井と国許の城代家老の大野九郎兵衛です。
この大野は、討入りに反対で恭順開城を主張して奔走してしまう悪役になっています。
山梨県甲府市 能成寺 群馬県安中市 松岸寺
以上の寺に大野の墓?があります。山形県 板谷峠に石碑があるそうです。
城明け渡しには、藩財政の整理に奔走し、藩札交換をして領民への不安を払拭し、当座の暮らし向きに困らぬようにした手腕は、あまり語り繋がれていません。
大石は、世襲で筆頭家老になったのに対して大野は一代限りの家老で、自分の才覚と努力で這い上がってきました。
そして、大野は城代家老になってから、赤字だった赤穂藩の財政を立て直し、3000石足らずの塩田を倍近くに増やし、製法や販売拡張を計り、借金の返済に努めました。
今で言うブランドの普及に努め、新田の開発や治水事業、植林などにも手を広げて、借金の返済をしたからこそ、藩札の交換も出来、年金を無駄使いしたどこかの国の役人とは大違いです。
大野は大石と意見が合わず、私財を持って夜逃げしたという説が有力ですが、それもまた足並みが揃わない藩士をまとめるために、敢えて汚名を着たのではないかとも言われています。
大野の墓や足跡が山梨県や群馬県にありますが、それも大石が討入りに失敗した後の計画があったものとも言い伝えられています。
いかなる行動をも責任をもって取れるかで、本当の器量が分かるのではないでしょうか?
この意味からも、大野は本当の武士(もののふ)だったのではないでしょうか?
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