極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

山吹に赤壁とカプリの風

2009年04月12日 | 近江歴史回廊


夕暮れの霞の山吹恋をする 乙女の髪にガルフ・ナポリは海の風




御輿の担ぎ手捜しで一日忙殺。どの町でもそうだろうが、時
代とともに屈強な若者が少なくなり平均年齢が上昇加速する。
上限年齢の50歳を取っ払い、定員数に1.5~2倍に増や
し短い距離で頻繁に交代するか、巡行距離を短くするしかな
いが、御輿ひとつも上がらぬでは末が心配とは「この俺も歳
を食ったかなぁ」。男性平均年齢約76(女性は83)歳。


山振の立ちよそひたる山清水 くみに行かめど道の知らなく  高市皇子


sakura_0000.jpg コブクロ(桜)

そんな中、元の職場の仲間とひととき花見を楽しむ。話の内
容それは、ひ・み・つ。少し気になることがある。それは自
分が去った職場に‘面白しろさ’がなくなったのではという
思いを伝えた。要するに‘梁山泊’のような人物がいなくな
ったという老婆心に尽きるが、そのことと企業の衰退とイコ
ールに必ずしも繋がるわけではないが大いにありうることだ
としみじみと満開の桜に重ね合わせていた。‘♪〽 人生は
短い’(ビートルズ“恋を抱きしめて”)。なんとかせんと
いかん(東国原英夫)か。

 ‘洪太尉、妖魔を走らす’/『水滸伝』


レッドクリフ Part II ―未来への最終決戦― Red Clif Ⅱ 

映画『レッド・クリフ パート2』は最高傑作だ。それ以上
書くことも、屋上屋を重ねる様で、出来ればジョン・ウー監
督には『五丈原の戦い』までも撮ってもらいたいものだと付
け加えておこう。

 五丈原の戦い

映画では登場のなかった龐統。連環の計で火攻めの成功を契
すため拝風台で東南の風を起こそうとする諸葛孔明もなかっ
た。こういった常道をはずし、主体的に舟を連結する慢心曹
操。風向きの反転を待つ諸葛孔明。周瑜の策謀による蔡瑁、
張允の処刑。総攻撃を引き留める小喬。スリルとサスペンス
溢れる展開。『借東風。風見鶏とは日和見主義と蔑まれる
が、人智の限りを尽くした研ぎ澄まされた機動力でもある。


  Ke
rria japonica

山吹の名は、山で風に揺れている姿を表現した「山振(やまぶ
り)」に由来するといわれるバラ科ヤマブキ属の落葉低木。黄
色の花をつけ、春の季語。低山の明るい林の木陰などに群生
し樹木ではあるが、茎は細く柔らかい。背丈は1~2m。先
端はやや傾き、往々にして山腹では麓側に垂れる。地下に茎
を横に伸ばし、群生する。葉は鋸歯がはっきりしていて薄い。
晩春に明るい黄色の花を多数つけ、多数の雄蕊と5~8個の離
生心皮がある。心皮は熟して分果になる。北海道から九州ま
で分布し、国外では中国に産する。古くから親しまれた花で、
庭に栽培される。花は一重のものと八重のものがあり、特に
八重咲きが好まれよく栽培される。一重のものは花弁は5枚。
金貨の代名詞「ヤマブキ」。花言葉は「待ちかねる」。


かくしあらば何か植ゑけむ山吹のやむ時もなく恋ふらく思へば 読人不知





『借東風』とは臨機応変でもある。南仏プロバンス旅行は空
中分解。保険で掛けていたオプショナルの南伊カプリ島旅行。
介護者を抱えて長期旅行は難しい。まして、先延ばしても良
い条件はこない。ならば思い立ったら吉日と定める。行き先
も見えぬ息詰まるかのような日常から愛する者とともに離れ
たい。朝鮮半島の真西に位置するナポリ湾。東風に髪をなび
かせる少女時代の魂。そんな幻想的で難解な歌を詠った。


カプリ島
 Isola di Capri

ポンペイ
ポンペイの屋敷 Pompei

ソレント
ソレントの風景 Sorrento 

ナポリ
 Galerii

ローマ
 Piazza esedra

パレルモ
パレルモの風景 Palermo



 Hermann Emil Fischer

食糧問題は解決している。それが出来るのは人的資源に恵ま
れた日本だと、ここだけの話だけれどそう思っている。その
鍵語は『酵素』或いは『微生物生理機能学』。酵素とは、生
体でおこる化学反応を自身は反応の前後で変化せず、特定の
化学反応の反応速度を速める分子のこと。その役割は、生命
を構成する有機、無機化合物を取り込み、必要な化学反応を
引き起こすことにある。

 基質に結合する酵素

食糧用植物の安定生産は、先ず、その種の固有安定生育条件
⇒①大気条件、②地下(土壌)条件、③日照条件、④養分供
給条件を循環時系列制御で確定。ここで②の条件で、共生育
成する酵素(及び微生物)の制御技術が重要となる。例えば
、大腸菌は人間と同じく70%が水分で、残りの16.5%がタンパ
ク質6%がRNA(リボ核酸)、0.9%がDNA(デオキシリボ核酸)、
3%の脂質、0.3%の金属イオンで構成されているが、これらの
育成条件(温度、水素イオン濃度)、酸素、栄養源、糖、ア
ンモンアなどの二次最適化技術が重要となる。

アデノシン三リン酸/ATP


ところで微生物は、真核生物原核細胞(真正細胞+古細胞)
からなり、その種類は百万から千万種に及ぶといわれている
が、これらの機能を解析・抽出できれば解決するが、例えば
酪酸の生成には酸素供給を止め、乳酸を生成するには、酸素
を供給するといった具合に。また非水耕栽培植物で土壌栽培
に、水循環と同様に土壌粉体を連続乃至は間欠循環できれば、
根菜類のコンパクトで省力で、高生産性の栽培が可能となり、
もう米国、豪州、中国に頼らなくても学園都市ならぬ田園都
市で、他の田園都市と地産地消の高度分業連携システムの構
築が可能となる。そういった意味では彦根-長浜は絶好の条
件を備えていると思う。

 相馬暁教授『2020年農業時代が来る』




第21回宮城県産直交流会記念講演


そういうわけで、今年も諦めず、稲作のミニマム試験栽培を
行うことにした。




鴬の来鳴く山吹 うたがたも君が手触れず 花散らめやも   大伴池主


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辛夷と漣

2009年03月22日 | 近江歴史回廊


辛夷咲く美まし淡海(うみ)の漣に一挺のカヤック夫婦漕ぎ


カヤック K-8 

昼過ぎ、母のショート・ステイの間にドライブを誘う彼女。
早速、水ヶ浜に走る。途中、水郷の川端で一挺のカヤックと
並進するシーンが。初老の夫婦とおぼしきふたりがさざ波に
揉まれ漕いでいる。ライフジャケットなしで大丈夫かなと呟
くでもなく彼女に問う。田打ち桜咲き綻ぶなか走る。断念な
がら千昌夫の『
北国の春』のストレージがないことを思い出
す。

アキレスゴムボート船外機セット品 


さざなみの志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな 千載和歌集


ポアン・ドゥ・ヴュ ポアン ドゥ ヴュ

目的地の水ヶ浜に着く。『ポアン ドゥ ヴュ』と『水ヶ浜シ
ャーレ』には沢山のひとたちが寛いでいる。ここは程よい距
離になり彼女とよく来る。『シャーレ』で休んでいるとプレ
ジャーボートが接岸し子ども連れの家族が階段を駆け上がっ
てくる。カヤックもプレジャーボート等のレジャー製品が徐
々に増えている。しかし、係留権を支払い管理も面倒な大型
ヨットやボートは余裕がないと持てないし<その必要もない
なぁと問えば、彼女もそうだと肯く。帰って来てネット検索
で二人用カヤックが良いように思えた。


 シャーレ



楽浪の国つ御神のうらさびて 荒れたる京見れば悲しも    高市黒人               

ファイル:W kobusi5041.jpg

コブシ(辛夷、学名:Magnolia kobus)はモクレン科モクレ
ン属の落葉広葉樹の高木。早春に他の木々に先駆けて白い花
を梢一杯に咲かせる。果実は集合果であり、にぎりこぶし状
のデコボコがある。これがコブシの名前の由来である。北海
道のコブシは「キタコブシ」と呼ばれることもある。別名「
田打ち桜」。日本特産の花木である「コブシ」。花言葉は「
友情」「歓迎」。


 スピッツ『トビウオ』


さざ波繋がりで、スピッツの『さざなみCD』の『
』はス
トレージしてあった。このCDの曲で気にいったのは、息子
もすきな『
トビウオ』。

さざなみCD スピッツ『漣』



楽波の滋賀の唐崎 幸くあれど大宮人の舟まちかねつ     柿本人麻呂





佐和山に登ってから、石田三成を取り扱った書物に目を通し、
関ヶ原での挙兵背景や歴史的な位置付けを自分なり考えてい
た。結論からいえば、『
天下布武』を継承する徳川家康に対
し、石田流‘グランド・デザイン’がそれを上回るものでな
かったという、いささか誰しも考える結論を腑に落とした。


  石田三成が、この「挑戦の構想L、つまり「関ケ原」
 の決戦に至るビッグ・プロジェクトの基本構想をいつ固
 めたかは知る由もない。恐らく、前例のない大仕事をす
 るについては、彼もいろいろと考え何度か試行錯誤を繰
 り返したに違いない。今日伝えられている歴史に記され
 た事実から推測しても、彼の基本構想は二度変っている
 ことが分る。
  しかし、三蔵が、徳川家康とその率いる大勢力に挑戦
 しようとはっきり決意したのは多分慶長三年(一五九八
 年)の初秋、つまり豊臣秀吉が死の床に臥してからであ
 る。そして、彼がこの危険きわまりない決意に向う過程
 は恐らく次のようなものではなかっただろうか。

          堺屋太一『巨いなる企て』文春文庫

また、堺屋太一の文言を引用したものに、『
石田三成のペー
』に次のようなものがある。


 私は、もし豊臣秀吉が長生きしていれば、三成は治世の
 名臣になったのではないかと思う。(中略)関ヶ原でも
 三成の天下分け目の決戦へのビックプロジェクトの筋書
 きはさすがである。たかだか十九万石で五奉行の一人が
 日本を二分できたというのは、たいへんな辣腕ぶりだと
 いわねばならない。しかも、後世の辣腕家は様々な形で
 三成の筋書きを踏襲している。(中略)その意味で三成
 はビックプロジェクトにおける比類ない名作者であった
 ということができよう。



彼はいたくプロジェクト・メーキングにご執心で『
ほぼ日刊
イトイ新聞-堺屋太一さん、どうしましょう?
』で、糸井重
里の「万国博覧会」の企画の経緯の質問に答えて次のように
語っている。なお、彼はプロジェクトの‘三位一体’として、
①シンボル、②コンセプト、③ストーリを挙げている。


 私、28歳のときに一身発起しましてね、日本で万国博覧
 会をやろうと思いついたんです。当時まだ東京でもボー
 リング場は珍しかったんですが、そこでふと日本で万国
 博覧会をやろうと決心した。もちろん、誰も本気にしな
 かった。そこで、万国博覧会は1851年の第1回からはじ
 まって・・・というのを、まる5年間、ひとりひとりに
 口説いてまわったんです。そのときにどう説明していっ
 たらいいのかというのを考えましてね。その時、参考に
 したのが関が原の合戦です。そもそもこの戦いは、石田
 三成という豊臣政権の、今で言えば平取締役くらいの武
 将が、大実力者の副社長(家康)と対等に戦争をする、
 そういうプロジェクト・メーキングなんですね。その時
 の石田三成の口説く方法を調べてまとめたのが『巨いな
 る企て』という小説なんですけれど。('87 毎日新聞社
 刊。関が原の合戦を豊臣家存亡を賭けた石田三成による
 プロジェクトとして、現代ビジネスとの対比で描く)そ
 のときにもね、やっぱり、下のひとから口説かないとい
 けなかったんです。上のひとに、大臣とか社長とかから
 口説きおとしてゆくということは、日本の社会ではでき
 ない。だからまず1年間は、通産省などの運転手を主に
 口説いたんです。毎晩毎晩、運転手口説いてて。


石田三成の子孫である白川 亨らの著書も斜め読みして(眼
精疲労がきつく、『巨いなる企て』などの文庫本などろくな
読み方しかしていない)、司馬遼太郎、小和田哲男などの三
成評のごとく聡明、鋭利で徳の高い人物であるといことが伝
わってくる。

                                        

石田三成の一族は、北面武士の下毛野氏の一族、あるいは京
極氏に属する荘園の代官であった土豪など、出自には諸説あ
る。石田正継の子の三成は、秀吉に才能を見出されて家臣と
なり、秀吉の天下統一後は、近江佐和山に19万石の所領を与
えられる。三成は経理や事務の才に優れ、豊臣政権では五奉
行の1人に昇るが、加藤清正ら武断派と対立。秀吉没後のに、
三成は五大老の徳川家康に対して挙兵し、毛利輝元らを擁立
し西軍を率いて戦うが敗北し、処刑される。この時、父の正
継や兄の正澄
は佐和山城を守備するが、東軍の追討を受けて
落城し、正継、正澄らが自害する。

 ┃
清心
 ┃
正継
 ┣━━━┓
正澄  三成
 ┃   ┣━━━┳━━━┓
朝成  重家  重成  辰姫津軽信枚弘前藩代藩主)

      
三成には三男三女あるいは二男五女の子がいたとされ、関ヶ
原の戦い後長男の重家は助命され出家、次男の重成は津軽氏
に仕官し、子孫は杉山氏を名乗って津軽家臣として存続する。
娘の辰姫は弘前藩二代藩主津軽信枚に嫁ぎ、子の信義は三代
藩主。津軽本家と分家間の婿養子・養嗣子を踏まえると本家
十代藩主まで、津軽分家黒石領四代当主から七代当主が辰姫
の血を引く。



さてここまで書き綴り、仮に豊臣政権防衛に成功していたら
どうだろうかと想像するには時間が足りない。しかし、勝敗
に関わりなく、肥大した軍事及び軍人を如何に縮小し、次の
時代にもっていくは、三成も家康も同じだったと思うが、子
孫を残せなかった豊臣政権の方が不安定であったことは疑い
ない。従って、徳川と異なった‘政権ビジョン’や‘新しい
大義’がいったのではないかと憶測する(三成が『三国志』
の諸葛孔明に匹敵するようなストーリもまた楽しい)。


おくれいて恋いつつあらば追いしかむ道の隅みに標結へ我が背 但馬皇女


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富貴桜と狼煙台

2009年02月24日 | 近江歴史回廊

突風は 焦りに似たり歌を吹き 思わず縋る富貴桜



                にいがたのろしPJ シンボルデザイン 

滋賀県下の城址遺跡を狼煙リレー構想を書いたのでネット上で調
べてみたら、新潟、長野で既に実施済みということが分かった(
書く前に調べろっていわれそうだ)。新潟県では震災復興祈願で
行われていた。新潟県民の心意気に敬服(『
にいがた狼煙プロジ
ェクト
』)。

 

狼煙は、情報を伝達する手段である。夜間など煙が見えない場合
は火そのものも使われる。烽火、狼火、狼燧ともいう。欠点は、
天候に影響され基本的に煙の有無だけなので伝えられる情報量が
少ないなどである。古くから敵の攻撃を知らせることなど戦絡み
の合図用に使われた。狼煙を上げる狼煙台は、中国の万里の長城
などに遺構が残っている。言葉の由来は煙が多くでる狼の糞を燃
料にしたとされる。石川県の能登半島突端には狼煙という町があ
り、海上交通用に狼煙が上げられたことに由来するといわれる。

 信玄の狼煙台ネットワーク

モンゴルのチンギス・ハーンの帝国で狼煙の連携による情報通信
が行われていた。その伝達速度は時速 140kmに及んだという。煙
の元としては、羊の糞や地上に染み出した石油(ネフトザグと呼
ばれる)などが使われ、モンゴルの遊牧民の視力は、はるか彼方
のものを見ることができ狼煙を使った通信手段の実現の上で有利
だったとされる。


万里の長城(明代)

琵琶湖の小高い山には砦や城跡が多い。春を告げる季節に淡海を
核に狼煙台からのカラフルな狼煙リレーはロケーションやビジュ
アルで格好だろうと考えたことだ(期間は1週間として、天候の
良い日に実行する。この期間を『戦国浪漫春絵巻』週間として)。
ところで、県下の砦、城址の遺跡を調べてみたところ、37ヵ所
程度あるなかで、25ヵ所が良いだろうと思っている(膳所、勝
楽寺、西宿、鯰江、北津田、佐生、小森、茎岡、田中江、小田、
古城山、夕日ヶ丘を除く、)。さらに、三上山や沖の島、竹生島
及び西近江の神社仏閣も入れてバランスを取るのも良いと思う。



本木雅弘さん おめでとうオスカー受賞


石榑峠道路の写真 

八風街道進化論


観音寺城は過去数回登っている。滋賀県蒲生郡安土町にあった山
城である。支城に和田山城、佐生城、箕作城等があり国の史跡に
指定されている。近江源氏の佐々木氏、後に近江国守護六角氏の
居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。標高 433
メートル、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南
腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣
で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年
間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶
湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢
へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。
因みに、
観音寺城は日本百名城のひとつであるが、安土-能登川
の起伏に富む一帯は独特の不可思議な‘物語’或いは‘神話’を
醸し出すかのような空気を持ったところである。

 



こころよく陽は回りきてサイネリア 精いっぱいに花盛り上げる  鳥海昭子


観音寺の舞台は、戦国の幕開けの応仁の乱であり、元は畠山家の
跡目相続をめぐる極々内輪の争いだったものが、室町幕府の将軍
足利義政が優柔不断で処理を誤ったため、周辺の大名を巻き込み
急速に拡大したといわれる(
NHKの『その時歴史は動いた』)。
これは2つのことを考えさせる。その1つは、「天下は破れば破
れよ。世間は滅びば滅びよ。人はともあれ我が身さえ富貴ならば」
(軍記「応仁記」)。2つめは「預言なき民は滅ぶ」(旧約聖書
「箴言」29-18)で
ある。この2つは今日の『米国産金融危機』
『戦後最大の経済危機』への裁き方が焦眉に問われるリーダーシ
ップの有り様で、舵取りを間違えれば一気に世界中が混沌の海に
放り出されてしまうものである。


photo



月日が経つのもはやく予定通りに行かぬ焦りと縋りを求めること
を拒絶をしつつも、心の奥底にはその誘惑に負けそうな怠惰さの
蠢きに‘きみ’にすがろうとする自分がいる。この間、エルサレ
ム賞を受賞した村上春樹の小説『風の歌を聴け』を思い返し、風
とはリアルな現実の移ろいであり、風が去った址にしか気づくこ
とのない儚さを思い浮かべている。

キク科の「シネラリア」。花言葉は「望みある悩み」「快活、常
に輝かしく」、学名:Senecio cruentus 和名:フウキギク(富貴菊)、
フキザクラ(富貴桜)。シネラリア (Cineraria) とは、キク科の
植物の一種で原産地は北アフリカ、カナリヤ諸島。開花期は冬か
ら早春。多くの品種があり、花色も白、青、桃色など多様である。
園芸店などではサイネリアと表示していることが多い。  
                            

清水焼皿富貴桜ふうきざくら 清水焼 皿 富貴桜

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ヘリオトロープと天の原

2009年02月19日 | 近江歴史回廊


吾に向きヘリオトロープ いそいそと狭き書斎で  行き来見え隠れ




家のなかをこの間から手直し工事に入り、今日はいよいよ書斎
と居間の間仕切り。午後10時過ぎ居間と遮断。これで夜更か
ししても、この部屋で寝ることができる。この結果どうなるの
か、その効果は?乞うご期待だ。ヘリオトロープは香水草。花
言葉は「献身」。夏目漱石の「三四郎」に登場。バニラに似た
芳香があり気温が低いと香りが気温支配されるという。ペルー
原産、ヨーロッパに伝わり「恋草の草」「神様の草」の薬草と
される。花の名は、ギリシャ語で「太陽に向かう」との意。胸
が詰まるような悲哀のギリシャ神話では、向日葵と混同されて
語られている。一連の工事は家内が差配している。そんな部屋
の周りで彼女が出入りする姿はユーモラスで愛らしい。



日本五大山城の一つに数えられる小谷城は滋賀県東浅井郡湖北
町にある。標高約495m小谷山から南の尾根筋の築かれ浅井長政
とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城である。
因みに、
残りの山城は、春日山城(上杉謙信)、月山富田城(
尼子経久)、観音寺城(六角義賢)、そして七尾城(畠山義綱
)。戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られた
が、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城。
その後、北近江の拠点は長浜城に移され廃城となる。現在は土
塁・曲輪、石垣など遺構として残っている。

 彦根城に移築された三の丸


琵琶湖から少し離れた小高い山城ではあるが、山頂からは天気
が良ければ北湖が美しい。佐和山城と同様に、山頂の森林を打
ち払い狼煙台を構築し、山崎城、観音時城、安土城などの山城
址にも同様に設置し、年に1度はカラフルな狼煙の伝達競演し、
『近江戦国街道』イベントとして企画しても面白そうだ。


 


小谷城を‘おだに’と呼ぶように浅井を‘あざい’と呼ぶのか
‘あさい’とするかの論争は‘あさい’に落ち着いたという。
浅井長政の名をならしめたのは、野良田の戦い。永禄3年(156
0年)に浅井長政軍と六角義賢軍との合戦で、浅井軍は1万1千、
六角軍は2万5千と六角軍が圧倒的に優位にあったが、勇猛な長
政率いる浅井軍に油断し六角軍は大敗する。長政の精神はその
重臣達にも引き継がれ、姉川の合戦では、伊香郡にある磯野山
城から佐和山城に移った
磯野員昌(かずまさ)の織田本陣に迫
る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残って
いるほどだ。「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及
ぶべく候」-この織田信長包囲網は、武田信玄の死去と朝倉義
景の日和見で水泡と化す。小谷城に追い詰められた長政は七百
名ともいわれる家臣と共に自刃したが、蒲生氏郷らとともに近
江の武将はかくあるべしと感得した。

 小谷城址航空写真





昨日、空足を食った図書館で『浅井長政のすべて』(小和田哲
夫)、『もう一つの高天原』(原田実)、『弥生のなりわいと
琵琶湖』(守山市教育委員会)の本を借りた帰り、里根町の

マダ電機
でデジカメの上位機種を求め立ち寄った。デジカメの
技術進歩も目を見張るものがあるが、10年間の技術開発部門
で仕事をしていた関係もあり驚愕に至るといほどのものではな
い(老兵の強がりと思われるのも癪にさわるが)。特に目を引
いたものは、
ニコンD700(D300)のイメージセンサークリーニン
グ機能だ。採用した効果的なダストイメージ対策。イメージセ
ンサークリーニング機能は、OLPF(光学ローパスフィルター)
を4種の共振周波数で振動させて、ローパスフィルターに付着し
たゴミやほこりをふるい落とす。カメラの電源ON/OFFに連動し
て作動するほか、メニューからの操作で任意の作動できるとい
う優れもの。 



レンズや干渉フィルタはそのまま放置していると、空気中の水
分や塵が固着し光学系の‘汚れ’となる。ガラス材料は特に、
「白化現象」といわれ、レンズ材料に含まれる不純物(カルシ
ウム)などが表面に析出し反応生成物として固着する。まして
心臓部の再電荷結合素子表面に付着すると致命的な汚れとなっ
て画質を劣化させる。それ以外にはワイヤレストランスミッタ
ーの画像転送システムなどに興味がいったが、買うのはもう少
し先にしよう思う。

有効画素数12.3メガピクセル、ニコンDXフォーマットCMOSセンサー。<NEW> cmosセンサ






話は、本の話題と先日の東国原宮崎県知事の高千穂の高天原
に移る。この伝説は作為、天上、地上説にわかれることも、そ
の所在地も、葛城・金剛山高天台、高千穂、阿蘇・蘇陽、蒜山
高原(ひるぜんこうげん)、生犬穴(群馬県上野村)、茨城県
多賀郡 の6説が有力であることも知らずに来た。そして、古代
近江王朝=「天ノ朝」説復権の試み(原田実)は1981年の
伊勢遺跡の発掘と繋がる(そのことは、『邪馬台国発見日記
に掲載もされている)。



古代文字や神代文字ホンマツタエなども合わせて知ることに
なるのだが、科学的な検証方法などの考古学の進歩で焦点が絞
られてきているという。その中でも年輪年代学(dendrochrono-
logy
)とは、樹木の年輪パターンの分析で年代を科学的に決定
する方法(アリゾナ大学のA・E・ダグラスにより、20世紀に発
明・発展された)。本法を適用することで樹木の年代は正確に
暦年単位で決定することができる(樹木の幹を円筒状にくりぬ
き、年輪の幅を測定。例えば、年輪幅では通常 0.01mm 程度の
精度で測定する。

  

※ 1996年4月、奈良文化財研究所の光谷拓実が大阪府池上曽根遺跡の大型
   建物1の柱材(ヒノキ)の年輪年代を調べて紀元前52年であることこと
   がわかり、大型建物1は考古学的相対年代では、弥生時代中期後半に当
   たる蓋然性が高いと公表した。弥生時代中期後半が、紀元前1世紀に相
   当することとなった。それまでの弥生時代中期後半は、紀元後1世紀末
   と考えられていたので、約1世紀間遡ったこととなり、学界に大きな衝
   撃を与えた。



邪馬台国は存在したのかどうか。存在したとすればその実証は?
国の正史『日本書紀』がそれを裏付けるという説である。「神
武紀」には、九州を発った神武天皇率いる天孫族は、同じ天孫
族の子孫であるニギハヤヒの協力によって大和を支配する長髄
彦(ナガスネヒコ)を倒したのち、畝傍橿原宮で皇位に即いた、
と記されて、神武天皇が征服した畿内の土着勢力があったので
ある。この土着勢力こそが「邪馬台国」の中心であり、纏向遺
跡とは、邪馬台国の支配者だったナガスネヒコを倒したのち、
神武天皇が開いた国だとする。卑弥呼と台与の二人の女王時代、
邪馬台国の首都は、守山市の伊勢遺跡群だったとする説だ。そ
れも遺跡の主要年代からみて、卑弥呼の時代の王宮は伊勢遺跡
にあり台与の時代には下長遺跡に移ったとする。



邪馬台国との名称は、中国との関係(魏志倭人伝)で新統治国
の長の証として神武天皇率いる天孫族が伝承せざるをえなかっ
たという。まあ、今夜はこんなとこで終わるしかない。いずれ
整理・整頓してブログに表せればと思う。
                          

                            

      



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三角草と大一大万大吉

2009年01月27日 | 近江歴史回廊


体調の翳りを押して買い物に 雪割りの草よ三角の花よ


琵琶湖大藪付近・多景島夕景


 
@多景島

今年も四番町スクエアの割烹『楽座』で、彦根市民の飲み水を守る
会の新年会を行った。約30年続いてきたのだが、合併浄化槽の放
流口の下水接続の可否に関する質疑が国会で成された程度で、倶体
的な活動はなく、会員の近況報告程度だ(※滋賀県では昭和45年
に建設省が作成した「琵琶湖周辺下水道基本計画策定のための調査
報告書」を基にして、昭和46年度に「琵琶湖周辺流域下水道基本
計画」を策定し、閉鎖性水域の水質保全、富栄養化防止の観点から、
「湖南中部」、「湖西」、「
東北部」、「高島」の4処理区からなる
琵琶湖流域下水道および流域関連公共下水道と、大津市単独公共下
水道を主体とした下水道整備を推進。



この計画には①過剰推定人口等の事業規模の最適化、②生活排水と
非家庭系産業廃水の合同処理、③最終処理水の集中放流リスクの3
点から反対してきたが、このうち①に関して2条管方式の採用、つ
まり負荷量に合わせて2段階に幹線配水管の敷設へと計画変更した。
生活を抱え地域住民の生命と安全を守る戦いは、個人の努力だけで
は如何ともしがたく、県内の尊い住民(=戦友)の犠牲により勝ち
取るものであることを身をもって知った。いま、それを知る者たち
も高齢化が進み、例えば歴代の岡本巌、鈴木紀夫滋賀大学々長のよ
うにひとり、またひとりと去っていく現実に立ち会っている昨今で
ある。残された者には、またこの運動体をやめるわけにもいかず(
終末処理水の緩慢な影響が心配される)、会の運営や名称を変えて
いこうと思い相談したが結局のところ先送りとなった。


出典:写真集「湖辺-生命の水系」より

※今森光彦ワールド


@佐和山城址

筑摩江や芦間に灯すかがり火とともに消えゆく我が身なりけり  石田三成



近くのジムで泳ぎながら会の運営に迷ったが、「水辺」と「彦根」
「住人」の三位一体(
Trinuty)
として(?)、「彦根の水辺を守る
会」(仮称)に決めたのでこれで了承してもらおうと思う。これを
英語で
‘Hikone Citizen's  Credence Clearwater Revival’と呼んでやろう。
アメリカのロック・バンド
‘Creedence Clearwater Revival’をもじった
ことなどバレバレですね。 序でに
『三位一体モデル』(宗教学者
中沢新一
の良き解説者(桃知敏夫)
?によればキリスト教のトポロ
ジーとして父-子-聖霊の関係を示すだけなら問題はないだろうが
『三つの円を書くと、何でもわかる!「三位一体」の思考モデルは、
理解のためのメガネ。』(糸井重里による前書きの標題)というで
あるなら、これだけでは誤解を招くだろうと疑問を呈している。
中沢新一についてはまた別の機会で論考してみたい。

Creedence Clearwater Revival: Lodi Creedence Clearwater Revival

※「象徴の貧困」(ベルナール・スティグレール)ISBN-10-4794806914



‘三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城’

ところで、江戸時代には石田三成は悪人と見なされたが、明治に
入ってもなお奸臣説が強く、秀次を讒訴したとか、秀吉自身は秀
頼を家康に託すよう遺言したのに三成がそれに背き、天下を狙っ
て家康と戦ったと説かれていた。三成の再評価を志した三井の朝
吹英二は三成の墳墓発掘などを行ったほか、歴史家・渡辺世祐に
依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』
を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行
われ、正確な三成像を描く模索が続いている。

そして、佐和山城の築城は鎌倉時代の豪族・佐保氏とされ、戦国
時代には浅井氏の支城となり、元亀年間には浅井氏の家来である
城主磯野員昌が織田信長らと激戦を繰り広げた。しかし1571年
(元亀2年)2月に磯野は降伏し、代わって織田氏配下の丹羽長
秀が入城し犬上郡支配の拠点とした。1582年(天正10年)6月の
本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智討伐に功があった
堀秀政に与えられ、その後、堀家の転封にともない堀尾吉晴が入
城した。さらに、1590年(天正18年、ただし入府時期には異説あ
り)には五奉行の一人の石田三成が入城した。三成は大規模な改
修工事を行い、山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえた
つほどの城を築く。但し、奉行の任を全うするために伏見に滞在
することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。
信長自身の近江の本拠地としても使用されたことからも佐和山城
が重要視されていたかわかる。

その佐和山城址の西側面した東海道本線との間に東北部流域下水
道の終末処理場があり今も拡張工事が進められている。淡海の自
然環境保護の最前線で亡くなられ方々のご冥福を改めてお祈りし
たい(合掌)。

 

ところで家紋の『大一大万大吉』の意味は「一人が万民の為に、
万民が一人の為に、さすれば世に幸福が訪れる」であり、‘One for all,
All for one.’
と同義とされる。このように彦根周辺は自然及び歴史
環境に優れた土地柄であり、小谷-長浜-佐和山-彦根-観音寺-
安土と鎌倉-戦国-江戸の時空を包括し、琵琶湖岸の水辺の自然環
境と中沢新一著の『古代から来た未来人 折口信夫』に内包された
宗教観或いは文化歴史環境の媒体(メディア)をパッケージにして
世界文化遺産として提案してみてはいかがなものかと思える(前述
した会合の出席者からは、もう少し大きくした‘マザー・レイク-
ファザー・フォレスト’を包括する案もあるが)。


京都大徳寺三玄院の墓



ミスミソウ(三角草)・スハマソウ(州浜草)・ユキワリソウ(雪
割草)はキンポゲ科ミスミソウ属。早春の花として、よく知られて
いる。「ミスミソウ」という名前より、「雪割り草」の名前のほう
が馴染みがある。「雪を割って出てくる」、名実ともに「春のこと
ぶれ」のような花。自然界にあっても、花色は豊富であるが、江戸
時代から愛好され、園芸種も多い。葉の形から「ミスミソウ」と「
スハマソウ」と区別されるが、同種である。三角草と洲花草がよく
知られる。 英語で 「Liver leaf(肝臓の葉)」とも呼ばれる。花言
葉は「信頼」。急な風邪で体調が悪いのに買い物にでかける小さく
とも、美しくも強い花である。

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金盞花と天守の三島由紀夫

2009年01月24日 | 近江歴史回廊


世の中も母の世話も大変よ 金盞花乗せきみの声消ゆ


  奥嵯峨夕暮れ 井堂雅夫画
 

  先日は遠いところまで、それ又、寒い中をわざわざお越し下さっ
  て、有り難う御座いました。雄琴温泉は如何でしたか。子供の頃、
  それはまだ戦時中でしたが、体がスベスベして気持ちの良いお
  風呂だったことを思い起こしております。金閣寺は京都に戻った
  中学校2年生。衣笠学校裏に在りました。焼けた後で池の鯉だ
  けでしたが、これ又、懐かしい風景です。お元気に。

先日お邪魔した礼状に対する恩師の九窪晴彦の返状が届いた。金閣
寺に触れたのは葉書の印刷された井堂雅夫の画による。金閣寺放火
事件とは、1950年7月2日未明に、京都市北区金閣寺町にある鹿苑寺
(通称・金閣寺)において発生した放火事件である。幸い人的被害はな
かったが、国宝の舎利殿(金閣)が全焼し、創建者である室町幕府3代
将軍、足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏
教経巻などの文化財6点も灰燼に帰した。この事件を題材にした小説
家は三島由起夫と水上勉がいる。

 現在の金閣寺

 焼失する前の金閣



 濃緑の空に踊れし銀鱗の糸に手繰られ吾も釣り人

犬上川の青柳大橋を車で渡っていると、思わず小鮎釣を見入ってしまった。
事故にならなかったのは平日は交通量が少ないから。県立大学と荒神山
周辺はヨーロッパの田園都市を思わせる風情がある。終の棲家にするには
絶好の場所と思うが、そのためには沢山城址周辺の古沢町の東部地区の
開発は最優先課題だと思う。


   房江は目を閉じて、若い荒々しい力があの古い工場を片端から
   叩き壊してゆく新鮮な響きをきいた。それはもしかすると、彼女
   が望んできたお祭りだった。                                    
                        『絹と明察』/三島由紀夫

ところで、三島由紀夫はこの彦根にも取材に訪れている。昭和29年の近
江絹絲の人権争議を材題にした小説『絹と明察』だ。近江絹糸の従業員ら
は労働組合を結成。5700人がストに賛同、ワンマン社長として知られた夏
川嘉久次がアメリカ外遊中の出来事だった。近江絹糸は資本金10億円、
設備台数50万錘、従業員1万3000人という大会社。自社で経営している近
江高校の学生を工員のようにこき使ったり、深夜専門の“ふくろう労働者”
を使ったりなど労働基準法破りの常習者。解決までに自殺者3人、自殺未
遂者4人、発狂者8人、負傷者400人以上を出す大争議。夏川社長は昭和
30年6月に会長に退いている。

  彦根城空中撮影

モデルとなった元県会議員の朝倉克巳も面識があるが、『絹と明察』は、日
本的経営の崩壊を暗示しておわる記念碑的な作品。ハイデッガーの「実存」
は、「つまり、実存は、自己から外へと漂い出して、世界へひらかれて現実化
され、そこの根源的時間性と一体化するのである」。「行動はただの行動で、
それを強かに味わい直してたのしむには思想が要った」、その「思想」が、ヘ
ルダーリンの「憧憬」で、『絹と明察』は近江絹絲で起こった一大争議を描き、
そこに三島の思いを同化させ展開させたとされる。




『絹と明察』は昭和39年10月に完結し、その翌年から三島が「新潮」で連
載にとりくんだのが『豊饒の海』。三島が總決算に立ち向かうため、作家の
決着として自決するのは昭和45年の45歳。一方では自衛隊に体験入隊
して「楯の会」を結成し、随筆スタイルでは『英霊の声』『太陽と鉄』『文化
防衛論』などを書いたが。三島の「日本及び日本人」と「父と子の問題」の
探求は、この小説で完成し自決の起点となった。彦根は、琵琶湖に接して
いる。小説の駒沢にとっての琵琶湖は「日本的風雅」の本拠地として設定し、
駒沢の破滅を画策する岡野にとっての琵琶湖は、ヘルダーリンの「帰郷」と
いう詩に歌われているような、「西欧的澄明」の象徴に設定した。

    遠くひろがる湖面には
                             帆影に起る喜悦の波
                             払暁の町はかなたに
                             今花ひらき明るみかける
            
                           ヘルダーリン『帰郷』

昭和45年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯所内で総監室を森田必勝ら
楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り
籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説
をした後、割腹自殺。 

 Check here


何故割腹までに至るのかという疑問-‘乾いたニヒリズム’と日本浪漫主
義(甘美な「いっしょに死のう」という囁き)の絡みの一部は、寺山修司や飯
島愛などの生死と共通し、芹沢俊介の『子殺し』で解けるように思える。



百年に一度の大不況だ。首切り、工場閉鎖、倒産の暗いニュースが続く中、
‘英米被れ’の軽薄な知力(横文字の縦変換)が招いた結果であるといって
もしかたがない、前に向かって歩み出すしかないと、仏花の金盞花を車に乗
せ家内が親父の墓のある
宗安寺へ走り出す-女性は強しだ。

キンセンカ(金盞花、学名:Calendula officinalis)は、キク科の園芸植物。別
名、カレンデュラ、ポットマリーゴールド。原産地は地中海沿岸。北アメリカ、
中央アメリカ、南ヨーロッパなどで栽培されている。春咲き一年草として扱う
が宿根草タイプは冬を越すので「冬知らず」の名で市場に出回る。花径
10cm
ほどでオレンジ色や黄色の花を咲かせる。花容は一重、八重、また中心に
黒のスポットのあるものと多彩。日本では観賞用として花壇などに植えられ
るが、ヨーロッパでは原種はハーブの一つに数えられ、「エディブルフラワー」
(食用花)である。キンセンカの軟膏は火傷からにきびまで幅広い皮膚のトラ
ブルの治療薬になると考えられている。チョウ目の幼虫(ヨトウガ、キシタバ、
ヤガのような)の餌として用いられる。キンセンカが作られたことを示すといわ
れる神話は、、
水の妖精クリュティエとアポロの物語であるが、通常この物
語はヒマワリかヘリオトロープを指すとも言われる冬知らず(カレンデュラ:
Calendula) はラテン語で「一年中」という意味でカレンダー(calendar)の語源
だそうだ。花言葉は「悲嘆」(Deep sorrow)。

芹沢俊介著『子殺し』/ISDN4-7571-4192-0




 



 

 

 

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