つぶや句

夢追いおっさんの近況および思うことを気まぐれに。

流浪の旅

2006-09-16 18:03:51 | 俳句
私は俳句を始めてからもう14年目になる。
日本で一番短い文芸といわれるが、五・七・五の
中に季語が入るので、ますます短くなってしまう。

この形式の中で、のた打ち回っているのだが、この形式
をも打ち破り、さらに短く表現できるのが、自由律の俳句である。

五・七・五の形式をとっていないので、俳壇では、俳句と認めない
人達もたくさんいるが、私は俳句の一様式だと思っている。

私など、根が自由人なので、本当は形式にこだわるのは
好きではないのだが、自由律を宣言して作るほどの度胸は今のところない。

さて、その自由律の代表格といえば、種田山頭火と尾崎放裁である。
山頭火の

分け入っても分け入っても青い山
歩けばかっこう急げばかっこう
うしろ姿のしぐれてゆくか
まっすぐな道でさみしい
鉄鉢にも霰
陽を吸う

放裁の

咳をしてもひとり
入れ物がない両手でうける

など、さりげなく短いのに、深い感銘がある。
それは、彼らが流浪の果てに心身で体感したものを、
搾り出すように、あるいは、身を削るようにして、生み出して
いるからに違いない。
この流浪の旅こそが、深い感銘の元と言っても過言ではないと思う。

私とて、そんな深い感銘を得るような句を作りたいと、
いつも思っているのだが、いかにせん我が流浪の旅は大したことが
ないということである。

彼らの、家を捨て、家族を捨てて、身ひとつで味わった漂泊の
旅をすることができないのだから、仕方ないのかもしれない。

若い頃「のたれ死に」こそ我が美学と、ほざいていた時期もあったのだが、
今は、のたれ死にをすまいともがいて有様である。
これでは人の心に染み入るような句は、なかなか難しい。

しかしめげず臆せず俳句を続けているのは、
「さすらいの俳漫彩師」を目差してしているからなのかもしれない。

私がふらりと立ち寄り、去った後に一枚の「はいまん彩」が
残されている…。なーんていうのが夢だったりするから困ったもんだ。
私にできるのは、せいぜい流浪の心の旅というところだろうか。
はるかなる夢の果てに心の旅路を刻もうと思ふ、この頃の
秋の夜長なのだ…。
コメント
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