歴史小説をたくさん書いている吉村昭の対談集である。吉村昭の本は、どれもすべて面白く、歴史を学ぶ者にとって興味深い内容がたくさん盛り込まれていて、一気に読んでしまう。
この本も昨日午後借りてきて、読み始めたら終わらずに一気に読んでしまった。
吉村の歴史小説は、歴史「小説」にあらず。というのも、徹底的に史料などを読み、現地を踏査し、そして書いている。いい加減なことは一切書かない。だから歴史を学ぶ者にとっても、信用できる内容である。
歴史を研究する場合、おのずからその領域というものがあり、一定の領域まで調べ上げると、歴史研究者はそこまでで調査を終えて書いてしまう。ところが、吉村はそれでは小説は書けないという。高野長英が脱獄する、どういうルートを通って逃げたか。そしてどのように江戸に舞い戻るか・・・など、資料はもとよりであるが、実際判明したルートをたどり、山はどちらがわにあったかなど、しっかり調べ、その上で書く。歴史研究者もたどりつけないディテールを調べ上げ、そして一定の歴史像を描くのだ。
その方法もすばらしいが、吉村の小説は基本的な筋が通っている。リベラリズムというか、実証性に裏打ちされているが故にファナティックなところがなく安心して読める。
私は吉村のすべての作品を読みたいと思った。
さて、この対談、すべて面白いが、たとえば江戸時代の道には大八車を通させなかったとか・・・、その中でもこの言葉が印象に残った。城山三郎との対談の中で、吉村は「あの戦争は軍部がやったのであって国民は騙されたのだという説。・・・嘘ですよ。責任転嫁です。庶民が一所懸命やったんです。それを認めないと戦争の怖さはわからない」(214頁)という。
庶民が一斉に時代の流れ(これを私は「時流」と表現する)に乗る、それはあの小泉選挙や、今回の大阪市長選でも吹き荒れた。庶民は、難しいことを調べたり、考えたりしない、あるいはじっくりと遅々たる歩みではあるが少しずつの改善など待っていられない。ある種直感的なレベルで走り出す、するとそれをメディアも追い、増幅させ、さらに庶民に浸透していく。
そういう動きが、大きな力を発揮するという時代になってきている。ある種怖い時代だ。吉村の「戦争の怖さ」とは、庶民の怖さでもあるのだ。
一昨日で歴史講座の講師は終わり、次に二つの論文、一つの報告案をつくらなければならない。なかなかたいへんだ。
この本も昨日午後借りてきて、読み始めたら終わらずに一気に読んでしまった。
吉村の歴史小説は、歴史「小説」にあらず。というのも、徹底的に史料などを読み、現地を踏査し、そして書いている。いい加減なことは一切書かない。だから歴史を学ぶ者にとっても、信用できる内容である。
歴史を研究する場合、おのずからその領域というものがあり、一定の領域まで調べ上げると、歴史研究者はそこまでで調査を終えて書いてしまう。ところが、吉村はそれでは小説は書けないという。高野長英が脱獄する、どういうルートを通って逃げたか。そしてどのように江戸に舞い戻るか・・・など、資料はもとよりであるが、実際判明したルートをたどり、山はどちらがわにあったかなど、しっかり調べ、その上で書く。歴史研究者もたどりつけないディテールを調べ上げ、そして一定の歴史像を描くのだ。
その方法もすばらしいが、吉村の小説は基本的な筋が通っている。リベラリズムというか、実証性に裏打ちされているが故にファナティックなところがなく安心して読める。
私は吉村のすべての作品を読みたいと思った。
さて、この対談、すべて面白いが、たとえば江戸時代の道には大八車を通させなかったとか・・・、その中でもこの言葉が印象に残った。城山三郎との対談の中で、吉村は「あの戦争は軍部がやったのであって国民は騙されたのだという説。・・・嘘ですよ。責任転嫁です。庶民が一所懸命やったんです。それを認めないと戦争の怖さはわからない」(214頁)という。
庶民が一斉に時代の流れ(これを私は「時流」と表現する)に乗る、それはあの小泉選挙や、今回の大阪市長選でも吹き荒れた。庶民は、難しいことを調べたり、考えたりしない、あるいはじっくりと遅々たる歩みではあるが少しずつの改善など待っていられない。ある種直感的なレベルで走り出す、するとそれをメディアも追い、増幅させ、さらに庶民に浸透していく。
そういう動きが、大きな力を発揮するという時代になってきている。ある種怖い時代だ。吉村の「戦争の怖さ」とは、庶民の怖さでもあるのだ。
一昨日で歴史講座の講師は終わり、次に二つの論文、一つの報告案をつくらなければならない。なかなかたいへんだ。