亡くなった母の遺品整理を行っているが、なかなか終わらない。一人の人間が生きてきた軌跡を消していく作業は時間がかかる。
さて、母は最期の13年間を埼玉県の姉(母にとっては娘)のところで過ごした。住民票も移していたので、そこで葬儀を行った。
父の墓は、私の祖先が土地を寄進して建立した小さな寺院(以下寺院)に葬られている。しかし小さく檀家も少ないために、私が子どもの頃に住職は磐田市のほかの寺院に移っていった。そのため、その寺院は近在の坊主に住職をお願いすることとなり、某寺院の住職が兼務住職となった。
ところがその住職がカネ、カネ・・・の人だったので、寺院が一度はその住職を追い出すことを試みたのだが失敗し、その後もその寺院には兼務住職として代々受け継がれてきた。
父の年忌にその坊主が来るのだが、法話を話したことは一度もなく、カネの話(袈裟が古くなったので買ってくれとか・・)だけであった。
寺院には毎年維持費を納めていた。父は寺院を建立した一族であったので、戒名は居士であった。居士となると、維持費なども高額になる。
さて埼玉県で母が亡くなったとき、葬儀はそこでおこなった。「家族葬」であった。坊さんは「坊主ドットコム」に依頼し、葬儀の読経と戒名をお願いした(好感の持てる坊さんを紹介していただいたし、その際の布施も多額ではなかった)。母の葬儀に、カネ、カネ・・・の坊主に来てもらいたくなかったことと、その坊主に母の戒名をつけてもらいたくなかったからだ。
そして、父の墓がある寺院に母が入るためには、浜松でもう一度葬儀をしなければならないと言われたことから、私は父の墓を撤去する決意をした。
最近市の関係部署に行き、「改葬許可申請書」、父の遺骨を自宅で保管するために「焼骨の自宅保管証明申請書」、「焼骨の自宅保管について」を得て、「改葬許可申請書」と「焼骨の自宅保管について」には、住職の署名・印鑑をもらった。墓撤去前の読経を含めて3万円ということだった。
墓の撤去ということは、檀家をやめるということだ。その際、世間では「離壇料」の支払いが求められるということだった。しかしその「離壇料」の支払いには法的根拠がないことから、私は当初から払うつもりはなく、もし請求されたら訴訟に持ち込むことを決意していた(すでに弁護士にも話して準備しておいた)。私の従姉が父の兄の墓じまいをしたとき、高額のカネをふっかけられたと聞いていたし、ネットで検索するとその「離壇料」で苦しまれた方々の話がアップされていたからだ。
だがその坊主から「離壇料」の話はなかった。坊主と闘うことはなくなった。あとは、墓を撤去するために、石材店と交渉することであったが、これも昨日終わった。石材店から、父の墓は良い石を使っていること、三つの墓石は上段を除き、中段、下段に上の石を乗せるために彫り込んであるということなど、本式の墓石であることを知り、母の賢明さをあらためて知った次第である。
とにかく寺院に墓を持つということは、子孫にとって重荷を背負わせることになる。近在の日蓮宗の寺では寺の周囲に立派な塀をつくった。これについて、檀家にそれぞれ50万円が課されたという。またほかの臨済宗の寺では何らかの工事で、その半額を檀家に負担させた。一軒30万円である。また近在の曹洞宗の寺では、通夜と葬儀の読経にそれぞれ30万円が要求されたという。その家庭は生活保護家庭であったのに。
とにかく寺と関わりを持つということは、多額のカネが寺に吸い取られるということだ。それらの金額、私は何とか出そうと思えばだせるが、しかし同じことが子孫、つまり若者に求められたら、彼らの経済状態ではとうてい払えないであろう。
つまり寺に墓を持つということは、つまり子孫に重荷を負わせることになるのである。
少子化のなかで、後継者のいない家庭が増えている。後継者がいなければ墓は撤去しなければならない。寺だけでなく、公営墓地も同じである。墓がある場合、寺には維持費、公営墓地には管理費を払い続けなければならない。管理費は高くはないが、後継者がいなくなれば撤去するしかない。
もう墓を持つ時代ではなくなっていると思う。
母と父の遺骨の行き先は未定である。
曹洞宗の死に関わるシステムは、遺族から如何にカネをとり続けるか、そのためのものでしかないという結論を有するに至った。とにかく曹洞宗から離れる、そしてほかの宗派に改宗しよう、今はそう考えている。
今、亡くなる人が多く、葬儀社や寺、墓園経営者はカネ儲けの大チャンスととらえているように思う。寺を除き、新聞折り込みには、その関係のものが多く入ってくる。人の死をカネ儲けの手段にするというのは如何なものかと思う。とりわけ、寺はそうであってはならないのではないか。
仏教の本来の教えはそういうものではない。日本の仏教界は、寺のあり方について検討すべき時にきている。そうでなければ仏教界は廃れるばかりだ。葬儀を神式でおこなう事例が増えていることを、仏教界は真摯に見つめるべきである。
寺院がお墓の代わりのような感じで、信心深いタイの人は、行った先々の寺院で手を合わせています。・・・これでいいじゃん!私は、周りには、「骨は拾うな、戒名もいらない」「それがだめなら、海に撒くか、樹木葬にしてくれ」と言っています。このご時世、どこに住むかも分かりませんから。
江戸時代、水戸藩で金儲けのために、寺院が乱立したとき、水戸光圀が、「金儲けの為の寺院なんか、廃寺にしろ」と潰しましたとね。コンビニよりも多いと言う寺院。かなり減ると思いますよ。