2時間50分の舞台。一流の劇団による劇を見ているという気持ちがずっと続いていた。宮本研、なかなか重層的な内容をもつ台本を書いたな、という感じ。あらすじはよくわかる。その奥に何が隠されているのか容易に姿を現さない。
ずっと前に出版された森崎和江の『からゆきさん』は読んだことがある。この劇の舞台となったシンガポールはじめ、東アジア、東南アジアには、肉体を売ってカネを稼ぐ日本人女性がたくさんいた。同じような内容の本に、山崎朋子『サンダカン八番娼館』がある。いずれも、同じような題材を扱う。
そうした女性を送り出した近代日本は貧しく、そして公娼制度があった。貧困家庭に生まれた女性たちは、カネを稼ぐために、女工になったり、娼婦になったりした。
この「からゆきさん」も、そうした風景を描いている。しかしそれだけではない。描かれているのは、シンガポールに住む娼婦も、もちろん娼館の経営者(主人公・巻多賀次郎)も、ナショナリズムに覆われている。日露戦争が始まると軍事献金に励む。それだけではない。彼らは儲けたカネを故郷に送金する。それが故に巻は、出身地では名士となっている。海外に於ける彼らの存在は、外貨獲得の尖兵となっていたといってもよいだろう。
日露戦争までは、とにかく彼らにカネを稼がせ、送金させた。そして戦争に勝利する。日本は「一等国」に近づく。すると、近代日本国家は、「醜業」といわれていた娼館の仕事を棄て始めた。「醜業」に就いている者たちは国家的保護を受けられなくなった。ある意味での棄民である。
国家は必要なときには利用するが、利用価値がなくなったらさっさと棄て去るのだ。そういう事例はたくさんある。
そしてその構造は、男女間にも存在する。不要になった女を棄てる男。
国家と個人、男と女、それぞれの関係がパラレルに描かれる。国家が個人を棄て、男が女を棄てる。
しかし棄てられっぱなしの人々はそれでは生きていけない。
そこにこの台詞が生きてくる。
すきもきらいも、ひろうも棄てるも男の勝手。女はせつない。でも、棄てられたら、棄てられたふりして、棄てかえせ。
女が男を「棄てられたふりして、棄てかえ」すことは可能だ。しかし個人が国家を「棄てられたふりして、棄てかえ」すことはなかなかできない。
いかなる状態になろうとも、人間は生ある限り生きていかなければならない。この劇の「からゆきさん」たちは、国家を棄てて自分たちの力で生きぬこうと決意したようなのだ(言うまでもなく、男も棄てる。独善的な男と国家は信用できない!)。
国家を「棄てかえ」すーそれは最後の場面で示唆される。国家が棄てるなら、私たちだって日本を棄てるのよ、という場面である。彼女たちはもちろん、「日の丸」を背負っていない。
だが、主人公の娼館の経営者・巻多賀次郎は、国家に棄てられてもなお、最後の最後まで「日の丸」と「御真影」をまとっていた。「棄てる」ことはできても、「棄てかえ」すことのできない男は、国家を背負い続ける。女を「棄てる」ことができても、男は国家を棄てられない。これは喜劇でもあり、また悲劇でもある。
ずっと前に出版された森崎和江の『からゆきさん』は読んだことがある。この劇の舞台となったシンガポールはじめ、東アジア、東南アジアには、肉体を売ってカネを稼ぐ日本人女性がたくさんいた。同じような内容の本に、山崎朋子『サンダカン八番娼館』がある。いずれも、同じような題材を扱う。
そうした女性を送り出した近代日本は貧しく、そして公娼制度があった。貧困家庭に生まれた女性たちは、カネを稼ぐために、女工になったり、娼婦になったりした。
この「からゆきさん」も、そうした風景を描いている。しかしそれだけではない。描かれているのは、シンガポールに住む娼婦も、もちろん娼館の経営者(主人公・巻多賀次郎)も、ナショナリズムに覆われている。日露戦争が始まると軍事献金に励む。それだけではない。彼らは儲けたカネを故郷に送金する。それが故に巻は、出身地では名士となっている。海外に於ける彼らの存在は、外貨獲得の尖兵となっていたといってもよいだろう。
日露戦争までは、とにかく彼らにカネを稼がせ、送金させた。そして戦争に勝利する。日本は「一等国」に近づく。すると、近代日本国家は、「醜業」といわれていた娼館の仕事を棄て始めた。「醜業」に就いている者たちは国家的保護を受けられなくなった。ある意味での棄民である。
国家は必要なときには利用するが、利用価値がなくなったらさっさと棄て去るのだ。そういう事例はたくさんある。
そしてその構造は、男女間にも存在する。不要になった女を棄てる男。
国家と個人、男と女、それぞれの関係がパラレルに描かれる。国家が個人を棄て、男が女を棄てる。
しかし棄てられっぱなしの人々はそれでは生きていけない。
そこにこの台詞が生きてくる。
すきもきらいも、ひろうも棄てるも男の勝手。女はせつない。でも、棄てられたら、棄てられたふりして、棄てかえせ。
女が男を「棄てられたふりして、棄てかえ」すことは可能だ。しかし個人が国家を「棄てられたふりして、棄てかえ」すことはなかなかできない。
いかなる状態になろうとも、人間は生ある限り生きていかなければならない。この劇の「からゆきさん」たちは、国家を棄てて自分たちの力で生きぬこうと決意したようなのだ(言うまでもなく、男も棄てる。独善的な男と国家は信用できない!)。
国家を「棄てかえ」すーそれは最後の場面で示唆される。国家が棄てるなら、私たちだって日本を棄てるのよ、という場面である。彼女たちはもちろん、「日の丸」を背負っていない。
だが、主人公の娼館の経営者・巻多賀次郎は、国家に棄てられてもなお、最後の最後まで「日の丸」と「御真影」をまとっていた。「棄てる」ことはできても、「棄てかえ」すことのできない男は、国家を背負い続ける。女を「棄てる」ことができても、男は国家を棄てられない。これは喜劇でもあり、また悲劇でもある。
香港が中国に返還されたのは1997年であった。その返還は当然のことである。アヘン戦争でイギリスが不法・不当に割譲させたところであるから返還するのは当たり前。
しかしそれまでに中国共産党支配下の中国に支配されるのは真っ平御免だと考える人々、それは富裕層であったが、彼らはカナダその他に移住していった。1989年の天安門事件をみてしまったら、その権力の支配下に入ることを避けたく思うのは、これも当然である。
そうはいっても、私は中国の権力者に同情的な一面もある。国土が広大で、人口があまりに多い国を支配するのはとてもたいへんであろうと思う。中国の歴史を振り返ると、強権を持った専制的な権力が支配する時代でなければ、群雄割拠の内乱の時代か、である。広大な国土、たくさんの人口を抱えている国家は、専制的でなければ存続しえないのではないかと、ロシアをみてもそう感じてしまう。
だからといって、中国の専制的な共産党権力の支配方式を認めるわけではない。
さて、今闘っている若者たちは、香港返還以後に生まれたり、あるいは返還時には幼児であった人々である。
香港は、中国本土と異なり、まだまだ自由がある。その自由が徐々に奪われていく、それが実感として感じられているのだろう。このままいくと、窒息しかねない不自由の社会に生きなければならないという切迫した恐怖があるのだ。
若者たちは、背水の陣を敷いて、その流れを押しとどめようとしている。私は、それを支持する。
人権は闘いとるものである、その通りに彼らは生きている。
https://twitter.com/chowtingagnes
しかしそれまでに中国共産党支配下の中国に支配されるのは真っ平御免だと考える人々、それは富裕層であったが、彼らはカナダその他に移住していった。1989年の天安門事件をみてしまったら、その権力の支配下に入ることを避けたく思うのは、これも当然である。
そうはいっても、私は中国の権力者に同情的な一面もある。国土が広大で、人口があまりに多い国を支配するのはとてもたいへんであろうと思う。中国の歴史を振り返ると、強権を持った専制的な権力が支配する時代でなければ、群雄割拠の内乱の時代か、である。広大な国土、たくさんの人口を抱えている国家は、専制的でなければ存続しえないのではないかと、ロシアをみてもそう感じてしまう。
だからといって、中国の専制的な共産党権力の支配方式を認めるわけではない。
さて、今闘っている若者たちは、香港返還以後に生まれたり、あるいは返還時には幼児であった人々である。
香港は、中国本土と異なり、まだまだ自由がある。その自由が徐々に奪われていく、それが実感として感じられているのだろう。このままいくと、窒息しかねない不自由の社会に生きなければならないという切迫した恐怖があるのだ。
若者たちは、背水の陣を敷いて、その流れを押しとどめようとしている。私は、それを支持する。
人権は闘いとるものである、その通りに彼らは生きている。
https://twitter.com/chowtingagnes