静岡県には各地に演劇鑑賞会がある。しかし、どこも会員が減っている。しかし劇団四季は大入り満員である。あるいは有名タレントが出演する劇も、多くの人が見に来る。
ミーハー主義。今の日本はそれに毒されている。
テレビに出演している人が来ると、たくさんの人が彼・彼女を取り巻く。私にはなぜそうなるのかがわからない。
劇団に所属している俳優さんたちは、テレビに出演したとしてもほとんどは脇役である。だからあまり目立つことはない。彼らは、テレビではなく、舞台の上で活躍していたいのである。確かにテレビは俳優として勝負する場所ではないと思う。映画やテレビは、細切れを撮影しそれを編集してひとつのものにする。俳優は何度でも撮り直しが出来る。しかし演劇はそうではない。俳優たちは、観客の前で、一期一会の芝居をする。間違いは許されない。舞台の上は、真剣勝負の場である。
そして、いわゆる新劇は、それに加えて、ただ演技するのではなく、舞台で展開される演技の集合のその奥に、何らかの主張をもつ。観客は、だから新劇をみるときには、ただ見るだけではなく、その奥を見つめなければならない。新劇は深いのである。俳優さんたちの個性はもちろん重要ではあるが、彼らのそれぞれの演技が創造する劇は全体として観客の前に提示される、そして観客はそれを全体として受けとめる。受けとめるというのは、提示されたものそのものを受容するのではなく、みずからの思考をそこに絡ませていくのである。
観客の側の思考の絡まりを求めない劇を、私は好まない。
2020年の演劇鑑賞会の例会を紹介するチラシをもらった。私は、そのなかで加藤健一事務所のものだけはみようという意欲が湧かない。加藤が静岡県出身ということからかも知れないが、毎年加藤事務所の劇が入る。正直言って、加藤事務所の演劇は、深みがない。ということは、観客の思考の絡みを求めていないということでもある。
新劇という演劇を見続けてきた私としては、それが時代遅れで人気がないのかもしれないが、新劇を見続けていきたい。
ミーハー主義。今の日本はそれに毒されている。
テレビに出演している人が来ると、たくさんの人が彼・彼女を取り巻く。私にはなぜそうなるのかがわからない。
劇団に所属している俳優さんたちは、テレビに出演したとしてもほとんどは脇役である。だからあまり目立つことはない。彼らは、テレビではなく、舞台の上で活躍していたいのである。確かにテレビは俳優として勝負する場所ではないと思う。映画やテレビは、細切れを撮影しそれを編集してひとつのものにする。俳優は何度でも撮り直しが出来る。しかし演劇はそうではない。俳優たちは、観客の前で、一期一会の芝居をする。間違いは許されない。舞台の上は、真剣勝負の場である。
そして、いわゆる新劇は、それに加えて、ただ演技するのではなく、舞台で展開される演技の集合のその奥に、何らかの主張をもつ。観客は、だから新劇をみるときには、ただ見るだけではなく、その奥を見つめなければならない。新劇は深いのである。俳優さんたちの個性はもちろん重要ではあるが、彼らのそれぞれの演技が創造する劇は全体として観客の前に提示される、そして観客はそれを全体として受けとめる。受けとめるというのは、提示されたものそのものを受容するのではなく、みずからの思考をそこに絡ませていくのである。
観客の側の思考の絡まりを求めない劇を、私は好まない。
2020年の演劇鑑賞会の例会を紹介するチラシをもらった。私は、そのなかで加藤健一事務所のものだけはみようという意欲が湧かない。加藤が静岡県出身ということからかも知れないが、毎年加藤事務所の劇が入る。正直言って、加藤事務所の演劇は、深みがない。ということは、観客の思考の絡みを求めていないということでもある。
新劇という演劇を見続けてきた私としては、それが時代遅れで人気がないのかもしれないが、新劇を見続けていきたい。