ところで浅草の観音堂が焼けずに残ったが、その時の状況を語った観音堂関係者と大尉、そして兄の会話が記されている。朝鮮人への恐怖感を喚起することにより、日本人は殺気立つのである。
・・・観音堂がもう大丈夫となると、それまで緊張しきっていた群衆一時に気がゆるんできました。見ると、あっちでもこっちでも一時に疲れが出て、正体もなくごろごろ眠っているという始末です。これには私、随分心配しましたね。
(中略)
その時ーそれはもう二日の晩の事ですから、ー私はフト朝鮮人の事を思い出しました。そしてこれを利用するに限ると思いましたので、いきなり大きな声で、(今朝鮮人が四、五十人観音堂を包囲して、爆弾や石油を持って焼き払おうとしているから皆さん気をつけてください、)と呼ばわって歩きました。」
「なる程、それはうまい所へ気がついたもんだ、」と大尉は感心したように言った。然し、もしこの場に刑事がいたら、流言飛語を放った犯罪人として捕えるだろうに。
「ところが、この宣伝が実によく利きましてね。気のゆるんでいた群集が一斉に生気づいて、殺気だってきましたよ、そして朝鮮人狩りが始まりました。」
「で、実際に朝鮮人がいましたか、」と兄がきいた。
「ええ、いましたとも。何十人となく罹災者の中に隠れていましたよ。あいつらときたらとてもずうずうしいんで、石油缶を前に置いてぼんやり火事を見てやがるんですからね。」
「ふむ、良い度胸だね、」と大尉が言った。
(中略)
「ふむ、」と自分はうしろの方にいて、心の中で呟やいた。「自分がもし神さまだったら、幾たりかの朝鮮人を犠牲にしてまでこんな建物を残させやしない。それよりもまずこの男から、罰してやるのに。(二四五~六)
著者は、「朝鮮人狩り」を扇動した男が罰せられるべきだと考える。だがそうした認識を持つ者は、少なかった。そして、朝鮮半島から勉強に来ていた学生たちは、この蛮行の後、帰国していった。彼等は普通の日本人が行った蛮行を見、同時に無残に殺されるかも知れないという恐怖のなかを生きた。日本に住むことを峻拒せざるを得なくなったのである。
彼の同宿の友達は順々に本国へ帰ってしまった。彼等はそれぞれ専門の学校に籍を置いて、飴を売ったり労働したりして勉強を続けていたのであるが、今度の騒擾は彼等を奥底から恐怖させた。そして東京と勉強に見限って帰国させるようにしたのである。外の多くの朝鮮人がそうであったように。(二五〇)
こうした事件の積み重ねが、朝鮮半島の人々の日本(人)観をつくってきたのである。著者は、ドイツから帰国した友人に話す。
・・今度の震災は歴史上稀なるものであるに違いない、」と自分は言った。「然しそれはそうであるにしても、それは不可抗な自然力の作用によって起ったことで、もとより如何とも仕方がない。運命とでも呼ぶなら呼ぶがいい。しかし朝鮮人に関する問題は全然我々の無智と偏見とから生じたことで、人道の上から言ったら、震災なぞよりもこの方が遙かに大事件であり、大問題であると言わなければならないと思う。(二五三)
「それにしても、」と自分は言葉を続けた、「今度の事件で自分が何よりも痛切に感じたのは、人間にとって、教養がいかに大切なものであるかという事だった。だって、あの騒ぎがいかに日本人一般が日常の教養に於いて浅薄であるかを暴露したようなものだからね。まったく、あの騒ぎの中で、僕は多少なりと理性を失わなかったものを周囲に一人だって見出さなかった。何の事はない、ひと度あの流言が毒風のように人々の頭の上を吹いて過ぎると、皆はもう正気を失ってしまったのだからね。(二五四)
なぜ正気を失ってしまったのか。正気を失う日本人が、なぜ、どのようにして生み出されたのか、それが解明されなければならない。
「羊の怒る時」という書名の由来は、文末のこのことばに発する。
柔和なる羊を怒らすこと勿れ。羊の怒る時が来たら、その時は天もまた一緒に怒るであろう。その時を思って恐れるがよい。(二五六)
さてこの「羊の怒る時」は、最初『台湾日々新報』夕刊に、一九二四年十二月から翌年の三月にかけて、一〇四回にわたって連載され、その後聚芳閣から出版された。大震災を経て、江馬は社会主義へと近づいていくのだが、関東大震災の体験は、書かなければならないものとしてあったのだろう。文中に、こういう記述がある。
・・実際に下町では朝鮮人を弁護したために殺された日本人が幾人かあったのだ。幸い自分は十年も代々木に住んでいて、大概の人々に顔を見知られていたのでそうした危険は殆ど無かった。それだけに自分は例え一般の反感を冒しても猶信ずる所を言わねばならなかったし、事実及ぶ限りはやったつもりでいる。後になって証明されたとおり、自分達の初台ではついに血を見ずに終った。その主なる理由の一つは、ここいらは概して教養ある人々 、所謂知識階級が多かった事である。正直な所、自分は社会主義者と同じように、この震災にあたって、所謂民衆なるものに失望した。民衆とは愚衆であるとの感を強くした。そしてまだしも知識階級を頼もしく思った。少なくも彼らは残虐から顔を背けることができた。(一六八~九)
差別や偏見は、無理解から生ずる。誤った考えが広まり、それを民衆が受容するとき、事件は起こる。正確な知識が求められる所以である。知識人は、正確な知識を一定程度持っていた。だから「残虐から顔を背ける」ことが出来たのである。民衆が、正確な知識を獲得することは、いつの時代でも要請されるのである。