浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

江馬修『羊が怒る時』を読む(2)

2023-09-17 21:53:14 | 近現代史

 ところで浅草の観音堂が焼けずに残ったが、その時の状況を語った観音堂関係者と大尉、そして兄の会話が記されている。朝鮮人への恐怖感を喚起することにより、日本人は殺気立つのである。

・・・観音堂がもう大丈夫となると、それまで緊張しきっていた群衆一時に気がゆるんできました。見ると、あっちでもこっちでも一時に疲れが出て、正体もなくごろごろ眠っているという始末です。これには私、随分心配しましたね。

(中略)

その時ーそれはもう二日の晩の事ですから、ー私はフト朝鮮人の事を思い出しました。そしてこれを利用するに限ると思いましたので、いきなり大きな声で、(今朝鮮人が四、五十人観音堂を包囲して、爆弾や石油を持って焼き払おうとしているから皆さん気をつけてください、)と呼ばわって歩きました。」

「なる程、それはうまい所へ気がついたもんだ、」と大尉は感心したように言った。然し、もしこの場に刑事がいたら、流言飛語を放った犯罪人として捕えるだろうに。

「ところが、この宣伝が実によく利きましてね。気のゆるんでいた群集が一斉に生気づいて、殺気だってきましたよ、そして朝鮮人狩りが始まりました。」

「で、実際に朝鮮人がいましたか、」と兄がきいた。

「ええ、いましたとも。何十人となく罹災者の中に隠れていましたよ。あいつらときたらとてもずうずうしいんで、石油缶を前に置いてぼんやり火事を見てやがるんですからね。」

「ふむ、良い度胸だね、」と大尉が言った。

(中略)

「ふむ、」と自分はうしろの方にいて、心の中で呟やいた。「自分がもし神さまだったら、幾たりかの朝鮮人を犠牲にしてまでこんな建物を残させやしない。それよりもまずこの男から、罰してやるのに。(二四五~六)

 

 著者は、「朝鮮人狩り」を扇動した男が罰せられるべきだと考える。だがそうした認識を持つ者は、少なかった。そして、朝鮮半島から勉強に来ていた学生たちは、この蛮行の後、帰国していった。彼等は普通の日本人が行った蛮行を見、同時に無残に殺されるかも知れないという恐怖のなかを生きた。日本に住むことを峻拒せざるを得なくなったのである。

彼の同宿の友達は順々に本国へ帰ってしまった。彼等はそれぞれ専門の学校に籍を置いて、飴を売ったり労働したりして勉強を続けていたのであるが、今度の騒擾は彼等を奥底から恐怖させた。そして東京と勉強に見限って帰国させるようにしたのである。外の多くの朝鮮人がそうであったように。(二五〇)

 

 こうした事件の積み重ねが、朝鮮半島の人々の日本(人)観をつくってきたのである。著者は、ドイツから帰国した友人に話す。

・・今度の震災は歴史上稀なるものであるに違いない、」と自分は言った。「然しそれはそうであるにしても、それは不可抗な自然力の作用によって起ったことで、もとより如何とも仕方がない。運命とでも呼ぶなら呼ぶがいい。しかし朝鮮人に関する問題は全然我々の無智と偏見とから生じたことで、人道の上から言ったら、震災なぞよりもこの方が遙かに大事件であり、大問題であると言わなければならないと思う。(二五三)

「それにしても、」と自分は言葉を続けた、「今度の事件で自分が何よりも痛切に感じたのは、人間にとって、教養がいかに大切なものであるかという事だった。だって、あの騒ぎがいかに日本人一般が日常の教養に於いて浅薄であるかを暴露したようなものだからね。まったく、あの騒ぎの中で、僕は多少なりと理性を失わなかったものを周囲に一人だって見出さなかった。何の事はない、ひと度あの流言が毒風のように人々の頭の上を吹いて過ぎると、皆はもう正気を失ってしまったのだからね。(二五四)

 

 なぜ正気を失ってしまったのか。正気を失う日本人が、なぜ、どのようにして生み出されたのか、それが解明されなければならない。

 「羊の怒る時」という書名の由来は、文末のこのことばに発する。

 柔和なる羊を怒らすこと勿れ。羊の怒る時が来たら、その時は天もまた一緒に怒るであろう。その時を思って恐れるがよい。(二五六)

 さてこの「羊の怒る時」は、最初『台湾日々新報』夕刊に、一九二四年十二月から翌年の三月にかけて、一〇四回にわたって連載され、その後聚芳閣から出版された。大震災を経て、江馬は社会主義へと近づいていくのだが、関東大震災の体験は、書かなければならないものとしてあったのだろう。文中に、こういう記述がある。

 

・・実際に下町では朝鮮人を弁護したために殺された日本人が幾人かあったのだ。幸い自分は十年も代々木に住んでいて、大概の人々に顔を見知られていたのでそうした危険は殆ど無かった。それだけに自分は例え一般の反感を冒しても猶信ずる所を言わねばならなかったし、事実及ぶ限りはやったつもりでいる。後になって証明されたとおり、自分達の初台ではついに血を見ずに終った。その主なる理由の一つは、ここいらは概して教養ある人々 、所謂知識階級が多かった事である。正直な所、自分は社会主義者と同じように、この震災にあたって、所謂民衆なるものに失望した。民衆とは愚衆であるとの感を強くした。そしてまだしも知識階級を頼もしく思った。少なくも彼らは残虐から顔を背けることができた。(一六八~九)

 

 差別や偏見は、無理解から生ずる。誤った考えが広まり、それを民衆が受容するとき、事件は起こる。正確な知識が求められる所以である。知識人は、正確な知識を一定程度持っていた。だから「残虐から顔を背ける」ことが出来たのである。民衆が、正確な知識を獲得することは、いつの時代でも要請されるのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江馬修『羊の怒る時』を読む(1)

2023-09-17 21:33:06 | 近現代史
 江馬修は、小説家である、『日本大百科全書』には、「小説家。岐阜県生まれ。一九一六年、青春の愛と苦悩を描いた長編小説『受難者』を発表、ベストセラーとなった。関東大震災後社会主義へ接近、ナップ系の一員として活躍。プロレタリア運動崩壊後故郷高山へ帰り、明治維新期飛騨に起こった農民一揆を描いた著者のライフワーク『山の民』(一九三八~四〇)を完成した。第二次世界大戦後は藤森成吉(せいきち)らと『人民文学』を創刊、自伝『一作家の歩み』(一九五七)などを書いた。ほかに『暗礁』(一九一七)『追放 』(一九二六)などの長編小説がある。」と書かれている。

 江馬は一九二三年の関東大震災を体験した。その体験を記したのが『羊の怒る時』である。舞台は関東大震災時の東京山の手である。構成は次のようになって
いる。

第一日
第二日
第三日
その後
という章立てで、関東大震災時の人々の「群集心理」がダイナミックに描かれている。第一日は激しい揺れ、屋外での生活、近隣住民との交わりなどが記されている。
 第二日から、朝鮮人の「暴動」という流言飛語が、著者を含めた地域住民のこころをつかみ取っていく様が描かれる。江馬には親しい朝鮮人がいるし、また一定の知識教養もあり、朝鮮人の「暴動」に関する流言飛語に一定の疑問を抱きながらも、地域住民と共に朝鮮人の「襲来」という恐怖の中に過ごす姿が描かれる。その姿はきわめて迫真的で、どういう心理的な変化が生じたかを克明に記していく。読んでいる者も、その場にいるような雰囲気を感じさせる筆力である。
 
第三日
 著者は、兄がいる本郷や浅草方面に行く。そしてその道中、自警団が朝鮮人取り締まりをしている現場にさしかかる。その場面。
 
・・・少なくとも自分と話し合った限りの人々は、前夜来の朝鮮人の騒動を少しも疑っていなかった。
(中略)
この時、武器や兇器を持つことは警察から堅く禁ぜられていたのであるが、誰もそんな布令に耳を貸さなかった。見るがよい、どこかの職人らしい若い男は刺子の火事装束をきて、大刀を抜身にして無暗に振まわしながらこうどなっていた。
「主義者でも朝鮮人でも出てくるがよい、片っぱしから切って斬って捨ててやるから。
「本当だよ。もし大杉栄なんかがいたら、頭を叩き割ってくれるがなぁ。
そう答える男は、金太郎のようにまさかりを肩に担いでいた。この外投槍を手にしているもの、野球用のバットや棍棒を持っているもの、ピストルを握っているもの、いわゆる百鬼夜行とはこの事かと思われた。まったく抜身の刀や刃物が夜闇の中でぎらりぎらりと閃くさまはあまり気持の良いものでは無かった。まして血に飢えかわくもののように、敵のあらわれるのをもどがしがって大言壮語もしているのを聞くことは。(一六五~六)

 朝鮮人の「暴動」を固く信じている群衆が、「敵」としているのは、朝鮮人、主義者、そして大杉栄なのである。そして江馬も、社会主義的な思想傾向をもつ。群集は、なぜ朝鮮人だけではなく、大杉や主義者らを「敵」として認識しているのだろうか。
そして「第二日」から「第三日」にかけて、著者が住む地域に朝鮮人が「襲来」してくるという流言飛語に恐怖を抱きつつ、地域住民が逃げ、隠れ、応戦しようとする姿が描かれるが、この個所を読みながら、あたかも大陸で日本軍が侵攻してくる際の中国や朝鮮の住民の動きであるかのように思えた。まさに戦場の様相である。

・・自分たちの初台ではついに血を見ずに終わった。その主なる理由の一つは、ここいらは概して教養ある人々 、所謂知識階級が多かった事である。正直な所、自分は社会主義者と同じように、この震災にあたって、所謂民衆なるものに失望した。民衆とは愚衆であるとの感を強くした。そしてまだしも知識階級を頼もしく思った。少なくも彼等は残虐から顔を背ける事ができた。(一六八~九)

 この本を読んでいると、庶民は流言飛語を何の疑問もなく受け容れてしまっているようだ。しかし一定の教養を持つ人々は、「・・・待てよ」というような懐疑をもつ。だからといって、その流言飛語を否定するまでには至らない。だが庶民の中にも、日頃朝鮮人との付き合いがある人は、流言飛語に巻き込まれない。差別は、「朝鮮人」とか「主義者」というような、属性(カテゴリー)で他者を見ることにより発生する。「属性」ではなく、固有名で他者を見、また交流することにより、固有名をもつ個人としての認識が生まれる。そこでは差別や偏見は消えるのである。
 ある女性の発言である。
 
「私は、日本の女ですけど、やっぱしこんな分らない事は無いと思いますわ、」と奥さんはやはり一生懸命に、「だって日本人だって朝鮮人だって同じ人間ですものね。それだのに、一昨晩の騒ぎの時なぞ、在郷軍人なぞ三十分おき位に私共へやってきましたね、ここいらに朝鮮人が住んでいるから気をつけろの、出してよこせのと脅かして行くんですよ。実は私危ないと思ったので、鄭さんと外の友達方を私の家に隠してしまいましたの。そしてあなた方にしろ私達にしろ国は変っても同じ人間ですもの、どんなにしてでも隠まってあげます、もし殺されるなら一緒に死にましょう、と言って慰めていましたの。だって
本当にお気の毒でしてね。」そう言って彼女は眼に涙を湛えていた。(一七七~八)
 
 朝鮮人虐殺が実際行われ、日本人の多くが虐殺する側にいたときに、そうでない人々がいたということは、一服の清涼剤である。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする