浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

冤罪がつくられるところ

2025-03-11 18:46:01 | 社会

 冤罪がつくられるところ、それは警察署の留置場である。

 静岡県は、「冤罪のデパート」といわれるほど冤罪事件が多い。無実の人をつかまえてきて、大勢の警察官が脅迫し、拷問し、厳しく問い詰める。その中心にいたのが、紅林麻雄であった。

 わたしは、冤罪事件としてあった小島事件、幸浦事件については書いたことがあるが、そこにも紅林の名があった。容疑者とされた人が逮捕され、警察署の留置場に監禁される。留置場は、署内にあるから、取り調べはいつでもできる。長時間でも可能である。長時間の取り調べで、容疑者に苦痛を与え、とにかく自白させようとする。あまりの暴力に耐えかねて、やってもしない犯行を自白する。自白したら、あとは取調官の言うとおりに、「ハイ、ハイ」と応え、取調官の筋書きとおりの「事件」がつくられる。

 そして裁判。裁判官と検察官、いずれも国家公務員である。多くの裁判官は、警察官、検察官がつくりあげた事件の概要を認め、有罪としていく。裁判では、有罪とする証拠しか提出されないから、有罪にするしかないということもある。

 そして再審。しかし再審にもっていくためには、新たな証拠が必要となる。証拠のほとんどは、無実を証明する証拠ですらも、検察官が持っている。残念ながら、現行の法では、検察は、みずからが持っている証拠を開示させる義務はない。

 袴田事件は、完膚なきまでに、静岡県警察、静岡地検の誤謬が明らかにされたが、しかし一度犯人扱いされた人が無罪となっても、それを疑問視する人はいる。

 わたしは幸浦事件を調べ、いろいろな資料を求め、それをもとに記述した。有罪とする根拠がない、だから冤罪であることをしっかりと書いた。

 にもかかわらず、地域の良識ある人から、冤罪被害者を犯人ではないかとみていることを聞いて驚いたことがある。

 冤罪事件は、無実であることが証明されても、冤罪事件被害者は被害を受け続ける。

 

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絶望的・・ブッダはどこに

2025-03-11 09:21:11 | 社会

 『東京新聞』に、草薙龍瞬さんが「ブッダを探して」を連載している。毎週、楽しみに読んでいるが、最近のそれは「義憤」である。彼は、ミャンマーでの体験を記しているのだが、比丘(出家して,定められた戒を受け,正式な僧となった男子。)は、安定した生活(軍政府から二週間に一度500円程度の金が配られる。労働者の日給10日分)をし、庶民に尊敬もされている。しかし他方、庶民は極貧の生活をしている。

 ミャンマーは、小乗仏教(自己の悟りを偏重する仏教。大乗仏教徒が,特に利他主義の立場から,従来の伝統仏教に対して与えた称。)の国だから、そこでは、自分自身の解脱だけが目的、したがって庶民が苦しんでいようと、比丘たちは顧みる必要はない。

 しかし、彼は、ミャンマーの現実に「義憤」を抱くのである。

 大学の周辺を歩いてみれば、そこは軍政府の直営地、豪壮な邸宅やマンションが並んでいる。他方、庶民が住む地域は、夜になれば暗黒となる。極貧の生活を生きている。

 だから彼は思う。

これほどの格差を前にして、なぜ平然としていられるのだろう。人間に見えるのは、己の欲望だけか。ほんの少し胸を痛め、改善への工夫をするだけでも、世界は大きく変わっていくであろうのに。その可能性は目に入らない。ちっぽけな自分にしがみつき、欲望の蜜を吸いながら、あっという間に死んでいくのだ。後には何も残らない。

絶望的なまでの自分本位。これこそが人間の原罪だ。おのれの愚かさに目を向けぬ、無明という名の最大の罪だ。

 

 新自由主義が蔓延する日本も、同じような状況がある。子ども食堂が増えているということは、生活を維持できない家庭が増えているということだ。しかし政府は、格差がよりひどくなっているのに、消費税を廃止したり、下げたりしようともせず、さらに国民への負担を増加させようとしている。富裕な企業のための施策ばかり、税金をつかって展開し、庶民には一顧だにしない。絶望的と言わざるをえない。

 また、利他主義の大乗仏教の下にある日本の寺院も、「絶望的なまでの自分本位」である。檀家からカネを巻き上げることしか考えない。こちらも絶望的である。

 

 

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