『東京新聞』に、草薙龍瞬さんが「ブッダを探して」を連載している。毎週、楽しみに読んでいるが、最近のそれは「義憤」である。彼は、ミャンマーでの体験を記しているのだが、比丘(出家して,定められた戒を受け,正式な僧となった男子。)は、安定した生活(軍政府から二週間に一度500円程度の金が配られる。労働者の日給10日分)をし、庶民に尊敬もされている。しかし他方、庶民は極貧の生活をしている。
ミャンマーは、小乗仏教(自己の悟りを偏重する仏教。大乗仏教徒が,特に利他主義の立場から,従来の伝統仏教に対して与えた称。)の国だから、そこでは、自分自身の解脱だけが目的、したがって庶民が苦しんでいようと、比丘たちは顧みる必要はない。
しかし、彼は、ミャンマーの現実に「義憤」を抱くのである。
大学の周辺を歩いてみれば、そこは軍政府の直営地、豪壮な邸宅やマンションが並んでいる。他方、庶民が住む地域は、夜になれば暗黒となる。極貧の生活を生きている。
だから彼は思う。
これほどの格差を前にして、なぜ平然としていられるのだろう。人間に見えるのは、己の欲望だけか。ほんの少し胸を痛め、改善への工夫をするだけでも、世界は大きく変わっていくであろうのに。その可能性は目に入らない。ちっぽけな自分にしがみつき、欲望の蜜を吸いながら、あっという間に死んでいくのだ。後には何も残らない。
絶望的なまでの自分本位。これこそが人間の原罪だ。おのれの愚かさに目を向けぬ、無明という名の最大の罪だ。
新自由主義が蔓延する日本も、同じような状況がある。子ども食堂が増えているということは、生活を維持できない家庭が増えているということだ。しかし政府は、格差がよりひどくなっているのに、消費税を廃止したり、下げたりしようともせず、さらに国民への負担を増加させようとしている。富裕な企業のための施策ばかり、税金をつかって展開し、庶民には一顧だにしない。絶望的と言わざるをえない。
また、利他主義の大乗仏教の下にある日本の寺院も、「絶望的なまでの自分本位」である。檀家からカネを巻き上げることしか考えない。こちらも絶望的である。