この本も読んでしまった。しかしこちらは一定の評価が難しい。彼はどのくらい本気でこのような文を書いているのか、疑問に思うところも多々あった。たとえば「格差社会って何だろう」という項目は、社会経済的な分析をまったくせずに書いている。こういう文を書くのは、わざと挑発的な議論をしているのだろうか。
まあそれでも賛同出来る部分もあった。
たとえば「論理性を身につけるためには、論理の運びが美しい文章を浴びるように読む以外に手だてはない。「力のある言葉」を繰り返し読み、暗誦し、筆写する」は、おそらくその通りだろう。
「本来の教育の目的は勉強すること自体が快楽であること、知識や技能を身に付けること自体が快楽であること、心身の潜在能力が開花すること自体が快楽であることを子どもたちに実感させることである」であるから、「教師が知的な向上心を持っていて、それを持っているせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちにはそれが感染する。教師たちが専門的な知識や技能を備えていて、そのせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちは自分もそのような知識や技能を欲望するようになる。」「教師の仕事はだから「機嫌良く仕事をすること」に尽くされる」(152~3)
その通りである。しかし最後の学校で、私は授業や補習、生徒との関係以外は、「機嫌良く仕事をすること」ができなかった。職員集団が、私にはあわなかったからである。それだけではなく、最近の学校は教員評価など、教員の「機嫌」が悪くなるような制度をこれでもかこれでもかと導入してくる。その背後にあるのは、教員に対する不信感である。政府・教育委員会はその不信感に基づいて管理を強めてきている。
静岡県ではセクハラ事件が頻発しているが、その背景には教員のプライドを押しつぶすような施策と多忙化があるからだ。教員を増加させ、教員にもっとゆとりを保障しないと、このような事件はなくならないだろう。
また「愛国心」についての指摘についても、賛同出来る。
「人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。私はそのことの危険性についてなぜ人々がこれほど無警戒なのか、そのことを怪しみ、恐れるのである。歴史が教えるように、愛国心がもっとも高揚する時期は「非国民」に対する不寛容が絶頂に達する時期と重なる。」(259ページ)
「愛国心」の強要は、強要する側の人間性が問われるのである。
まあそれでも賛同出来る部分もあった。
たとえば「論理性を身につけるためには、論理の運びが美しい文章を浴びるように読む以外に手だてはない。「力のある言葉」を繰り返し読み、暗誦し、筆写する」は、おそらくその通りだろう。
「本来の教育の目的は勉強すること自体が快楽であること、知識や技能を身に付けること自体が快楽であること、心身の潜在能力が開花すること自体が快楽であることを子どもたちに実感させることである」であるから、「教師が知的な向上心を持っていて、それを持っているせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちにはそれが感染する。教師たちが専門的な知識や技能を備えていて、そのせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちは自分もそのような知識や技能を欲望するようになる。」「教師の仕事はだから「機嫌良く仕事をすること」に尽くされる」(152~3)
その通りである。しかし最後の学校で、私は授業や補習、生徒との関係以外は、「機嫌良く仕事をすること」ができなかった。職員集団が、私にはあわなかったからである。それだけではなく、最近の学校は教員評価など、教員の「機嫌」が悪くなるような制度をこれでもかこれでもかと導入してくる。その背後にあるのは、教員に対する不信感である。政府・教育委員会はその不信感に基づいて管理を強めてきている。
静岡県ではセクハラ事件が頻発しているが、その背景には教員のプライドを押しつぶすような施策と多忙化があるからだ。教員を増加させ、教員にもっとゆとりを保障しないと、このような事件はなくならないだろう。
また「愛国心」についての指摘についても、賛同出来る。
「人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。私はそのことの危険性についてなぜ人々がこれほど無警戒なのか、そのことを怪しみ、恐れるのである。歴史が教えるように、愛国心がもっとも高揚する時期は「非国民」に対する不寛容が絶頂に達する時期と重なる。」(259ページ)
「愛国心」の強要は、強要する側の人間性が問われるのである。