浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「豚的幸福」

2025-01-11 17:41:20 | 社会

 今年前期は、夏目漱石全集を読むことにした。全35巻、1978年に出版された(とはいっても第5刷)新書版の全集である。それはずっと実家の書棚に鎮座していた。とにかく、購入した全集はすべて読もうということから、石川啄木、中江兆民、大杉栄、伊藤野枝、福沢諭吉、田中正造、小林多喜二を読み通し、歴史講座で「・・・とその時代」として話してきた。それ以外に竹下夢二もとりあげたことがある。今年は、漱石に挑戦しようと決意した。

 まず『吾輩は猫である』を読み終えた。

 家人に見せたところ、読めないという。旧字・旧仮名遣いだからだ。わたしが若い頃、文庫本で何かを読もうとすると、それらはすべて旧字・旧仮名遣いであった。しかしそれらにはルビがきちんとふられていたから、読むことができた。そういう本を読んできたから、旧字・旧仮名遣いの本でも、そしてルビがすべてにふられていなくても、わたしたちの世代は読むことができる。ありがたいことだ。台湾では今でも旧字(繁体字)である。台湾に行くと、漢字を見れば理解できる。大陸の中国は簡体字なので、すなおに理解することはできない。東アジアでは、漢字を統一すれば良いと、ずっと前から思っていたが、無理だろうな。

 さて『我が輩・・』であるが、ずっと昔に読んだ記憶はあるが、細かいところはまったく記憶にない。読んでいるとなかなか面白い。漱石は、つまり「猫」殿は、なかなかの批評家である。また内外、古今の古典に造詣があり、ふんだんにそれらが引用されている。近代の知識人は、内外、古今の古典を十二分に吸収していることがわかる。凄い人たちだ。近年は教養が軽んじられているが、とりわけ古典に関する教養は必要だ。欧米の知識人も、ギリシャローマの古典をきちんとふまえて論じているから、古典に接する機会を学校でなくしてもらっては困る。

 さて標題の「豚的幸福」について書かれているところを引用しよう。

強情さへ張り通せば勝つた気でいるうちに、当人の人物としての相場は遙かに下落して仕舞ふ。不思議な事に頑固の本人は死ぬ迄自分は面目を施したつもりかなにかで、其時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名付けるのだそうだ。(下巻、111)

 この強情を張る人物は、「猫」殿の飼い主、「苦沙彌先生」である。

 最近、顔色一つ変えずに、無理筋の「強情」を張り続ける政治家をネットでみかける。記者たちが粘り強く質問をしても、問いに正対せずに、はぐらかし、ごまかし続ける。まさに「強情」一徹の人物である。漱石の時代は、こうした強情を張り続ける人間に対しては、「軽蔑して相手にしてくれない」ということになっていたようだが、現在はこうした姿を見て、それに熱狂する輩が出現している。人間も変わってきた、と思わざるを得ない。別に、この人物だけではなく、国会での質疑応答をみていても、同じような光景を見ることができる。

 「豚的幸福」に浸る輩が、現代社会では、とりわけ政治の世界では多数をしめるようだ。ということは、そういう「強情」をはり続ける輩は、「豚」なのであろうか。いや、そんなことをいわれれば、「豚」も怒るだろう。

 「幸福」とはいかなることなのかを考究していかなければならない時代に、現在はあるようだ。

 

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静かな日常

2025-01-08 20:04:09 | メディア

 テレビを観なくなってもう何年になるだろう。基本的に情報の入手先は、『東京新聞』、『週刊金曜日』、『世界』、『地平』の新聞、雑誌。そしてデモクラシータイムズなどのネットメディアである。

 yahoo NEWSも見るが、「主要」に芸能ニュースが多くあるのには閉口する。わたしは芸能ニュースにはほとんど関心はなく、タレントも俳優もほとんど知らない。テレビを見ないから、NEWSに名前がでてきても、像を結ばない。

 しかし中居某は知っている。ネットでも、中居関連のニュースが飛び交っている。関心がないので表面的なことしか知らないが、兵庫県知事の問題については、テレビは熱心に報じていたのに、中居某については、まったく報じられていないという。ジャニーズ問題も、テレビは報じなかったようだ。

 こういうことから明らかなことは、テレビは報道機関ではなく、カネ儲け機関であるということだ。人気のあるタレントを出演させて視聴率を稼ぎ、広告をだしてもらいカネを稼ぐ。キー局の社員の給与はかなり高いという。そのカネを稼ぐために、テレビ局の組織はそれに対応する組織となっている。だから何を報じるかについて、報じることによってカネ儲けにマイナスとなる場合は取り上げないのだ。こんなに明確な姿勢を示しているのだから、テレビに公正さや正義を求めても最初から無理なのだ。

 もうテレビは報道機関を自称すべきではない。私たちは、カネ儲けのためにエンターテインメントに生きるのだと宣言すればいい。

 テレビに疑問を持つ人びとは、テレビを捨てれば良い。ドラマを見たければ、TVerがある。

 テレビがないと、日常生活はとても静かである。静かな日常を生きようではないか。

 

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浜松にドーム型野球場新設?

2025-01-07 18:49:34 | 政治

 何度も書いてきたが、最近亡くなった鈴木修の野望を実現させようと、浜松市や浜松の財界が、熱心に行っているのが、陸上競技場と新野球場の新設。

 今、浜松市の四ツ池には野球場と陸上競技場が隣接して存在している。鈴木修は、野球場をなくして国際大会が開催できる陸上競技場をつくれと言ってきた。SUZUKIには陸上競技部があり、SUZUKIは、陸上競技を発展させたい、そのためには交通アクセスの良い四ツ池から野球場を放逐し、野球場は海岸部に静岡県に建設させれば良い、というのが鈴木修の考えであった。

 2025年になってその具体化に動き始めた。建設費、維持費は巨額である。

 このように、浜松市は、鈴木修のための行政を行ってきた。いずれ、SUZUKIのテストコースが山間部にできるはずだが、そこへ至る道路は、新しいごみ焼却場建設のために浜松市が整備したものを使用することになるだろう。

 なぜか、浜松市の新しいごみ焼却場とSUZUKIのテストコースが、ほぼ同じ時期に計画され、場所も近接している。これは果たして偶然なのだろうか。なお、SUZUKIのテストコースはまだできていない。

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学校教育の危機

2025-01-06 13:52:49 | 学校・教育

 このブログを立ち上げるに、いまだ時間がかかる。しかし修復にこれほど時間がかかったことを思うと、goo の技術力にも疑問符がつく。ブログの移転を検討しようと思う。こういう事態が二度と起こらないように、である。

 さて「教職離れにジェンダー格差 採用倍率「過去最低」、精神疾患で休職「過去最多」の新たな異変に迫る」という記事をみつけた。

 この報告には、さもありなんというしかない。学校教育の担い手が、たいへんな状況になっているということだ。その徴候がすでに現れていたのに、文科省はまったく手を打ってこなかった。この責任は、文科省が負うべきものだ。

 文科省が今まで行ってきたのは、ただ教育統制、統制の強化であった。ネトウヨに牛耳られた自由民主党の文教族、それは安倍派であるが、文科省は、彼らの要求に唯々諾々と従い、教育の国家統制を強化し、教職員への管理統制をすすめてきたからだ。

 教職員の統制について記すと、まず教職員に差別と分断を持ち込んだことだ。わたしが教員になった頃は、校長ー教頭ー一般教職員(各分掌、教科の主任はいたが、それは教職員による互選であった)で、きわめて平面的な組織構造であったが、文科省は、まず校長ー副校長ー教頭ー一般教職員(主任は管理職の任命となった)という階統制を導入した。そして教職員に「主幹教諭」を設け、さらに管理職による勤務評価により給与に差を付けるようになった。

 学校現場は、教職員同士の信頼関係と協力とによって成りたつ。いろいろな問題が起きれば、教職員が一丸となって取り組むなかで、問題は解決される。階統制を導入し、そこに勤務評定による給与の差を導入すれば、相互の信頼と協力関係にヒビが入ることは、教職員組合が主張してきたことだ。

 自民党右派と文科省は、教員の組合を敵視し、その破壊を目論見、その姿勢は一貫している。

 また子どもたちの成績評価についても、「観点別評価」というわけのわからない制度を導入し、教職員の仕事を増やした。

 わたしの在職中、歳を重ねるごとに、教科教育以外の雑用が年々増えてきたことを思い出す。わたしは定年前にやめたが、「もうやってられないよ」という気持ちでやめたのである。健康的な生活を送るためには、やめた方がよいという結論であった。

 わたしが退職してから10年以上経つが、おそらく教員への統制、教育統制はさらに強化されてきていることだろう。また教職員を増やさず、できうるかぎり安上がりで自民党右派・文科省の教育を押しつけようとしてきた結果、子どもの登校拒否は増え、病む教職員も増えてきたのだ。

 教職員が、精神的に追い込まれたり、休職したりするのは予想できたことだ。また当然、教職という仕事につこうという人も減るだろう。

 それは自民党、文科省が望むところでもあった。学校教育は利権とならないために、支配層は、カネを投下したくないのである。そして富裕層は私学に子弟を入れ、公教育には関心をもたない。

 庶民が公教育について考え、教育統制に抵抗しない限り、学校教育はよくならないだろう。

 

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ブログが不調のまま

2025-01-06 07:26:00 | 社会
一月2日朝から、我が家のWi-Fiからgoo blogにアクセス出来ないまま今日に至っている。Wi-Fiを切ってiPhoneの電波を使って、これを書いている。日本の代表的なNT Tが長期間修復できないというのが、我が国の現状である。
わたしはブログを移転させるつもりだ。移転先は近日中にここに記す。
なお2日からしばらくは、全くアクセスできなかった。パソコンからは今もアクセスできない。NT Tの技術は脆弱なのだろう。
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「悲しみの総量」

2025-01-01 15:47:39 | 国際

 なぜか『世界』が大晦日に届いた。『世界』の発売日は、通常、7日か8日だったのではと思った。『世界』とほぼ同じ体裁をもつ『地平』が、毎月1日に届けられるので、競争意識が働いたのか。ちなみに『地平』は届いていない。

 今月号の内容はなかなか読ませるものが多い。おいおい紹介していくとして、韓国文学の翻訳者、斎藤真理子さんが、ハン・ガンの小説について、「大勢の人が無言のままで抱えてきた、一人の人生では支えきれない無念さや悲しみの質量。私的領域にとどめておけるはずがなく、公の領域で共有されることが許されない、だからこそとめどなく湧いてくる悲しみの総量。」と書いている。

 済州島4・3事件で、「大勢の人」が韓国という国家と米軍により虐殺され、「大勢の人が」はかることができないほどの「悲しみ」を抱えてきた。しかし、その後に続く、長い長い独裁政権の下で、「公の領域で共有されることが許されない」時代が続いた。「悲しみ」の総量は、減るどころか、増える一方であった。「悲しみ」は、忘れられるのではなく、それが表出できないとき、さらにさらに増していくのだ。

 その「悲しみ」が、ハン・ガンの『別れを告げない』や、『少年が来る』に、これでもか、これでもかと描かれる。読む者は、その押し寄せる「悲しみ」の波間をみつけながら読み進むのだ。

 戦争をはじめとした暴虐が、庶民の生活を襲う。その暴虐は、国家権力が主体である。ロシア・ウクライナ戦争、イスラエルによるガザでのジェノサイド・・・・・・世界各地で新しい、それもはかりしれない「悲しみ」を生みだしている。

 2025年、どうか、もう新たな「悲しみ」をつくらないでほしい、と願わざるを得ない。

 ところで、こういう映画があることを知った。

From Ground Zero

 イスラエルによるジェノサイドが行われているガザで、「大勢の人が」生きている、生活している。踊り、凧を揚げ、足に名前を書き、とにかく生きている。その姿が、ここに描かれる。もちろん「大勢の人」の「悲しみ」は、日々、いや一瞬一瞬、つぎつぎとつくられ、それらは蓄積されている。わたしたちは、その蓄積される「悲しみ」を知る。

 「悲しみ」は、ウクライナでも、その戦場でも、つくられ、蓄積されている。しかし、わたしは戦争をはじめたロシアで、「新春コンサート」がおこなわれ、着飾った者たちが集い、音楽を楽しんでいる姿をみる。

 同時的に、人殺しと演奏会がある。この落差に、わたしは、さらに心を痛めるのだ。

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