今年前期は、夏目漱石全集を読むことにした。全35巻、1978年に出版された(とはいっても第5刷)新書版の全集である。それはずっと実家の書棚に鎮座していた。とにかく、購入した全集はすべて読もうということから、石川啄木、中江兆民、大杉栄、伊藤野枝、福沢諭吉、田中正造、小林多喜二を読み通し、歴史講座で「・・・とその時代」として話してきた。それ以外に竹下夢二もとりあげたことがある。今年は、漱石に挑戦しようと決意した。
まず『吾輩は猫である』を読み終えた。
家人に見せたところ、読めないという。旧字・旧仮名遣いだからだ。わたしが若い頃、文庫本で何かを読もうとすると、それらはすべて旧字・旧仮名遣いであった。しかしそれらにはルビがきちんとふられていたから、読むことができた。そういう本を読んできたから、旧字・旧仮名遣いの本でも、そしてルビがすべてにふられていなくても、わたしたちの世代は読むことができる。ありがたいことだ。台湾では今でも旧字(繁体字)である。台湾に行くと、漢字を見れば理解できる。大陸の中国は簡体字なので、すなおに理解することはできない。東アジアでは、漢字を統一すれば良いと、ずっと前から思っていたが、無理だろうな。
さて『我が輩・・』であるが、ずっと昔に読んだ記憶はあるが、細かいところはまったく記憶にない。読んでいるとなかなか面白い。漱石は、つまり「猫」殿は、なかなかの批評家である。また内外、古今の古典に造詣があり、ふんだんにそれらが引用されている。近代の知識人は、内外、古今の古典を十二分に吸収していることがわかる。凄い人たちだ。近年は教養が軽んじられているが、とりわけ古典に関する教養は必要だ。欧米の知識人も、ギリシャローマの古典をきちんとふまえて論じているから、古典に接する機会を学校でなくしてもらっては困る。
さて標題の「豚的幸福」について書かれているところを引用しよう。
強情さへ張り通せば勝つた気でいるうちに、当人の人物としての相場は遙かに下落して仕舞ふ。不思議な事に頑固の本人は死ぬ迄自分は面目を施したつもりかなにかで、其時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名付けるのだそうだ。(下巻、111)
この強情を張る人物は、「猫」殿の飼い主、「苦沙彌先生」である。
最近、顔色一つ変えずに、無理筋の「強情」を張り続ける政治家をネットでみかける。記者たちが粘り強く質問をしても、問いに正対せずに、はぐらかし、ごまかし続ける。まさに「強情」一徹の人物である。漱石の時代は、こうした強情を張り続ける人間に対しては、「軽蔑して相手にしてくれない」ということになっていたようだが、現在はこうした姿を見て、それに熱狂する輩が出現している。人間も変わってきた、と思わざるを得ない。別に、この人物だけではなく、国会での質疑応答をみていても、同じような光景を見ることができる。
「豚的幸福」に浸る輩が、現代社会では、とりわけ政治の世界では多数をしめるようだ。ということは、そういう「強情」をはり続ける輩は、「豚」なのであろうか。いや、そんなことをいわれれば、「豚」も怒るだろう。
「幸福」とはいかなることなのかを考究していかなければならない時代に、現在はあるようだ。