2002年に刊行された本である。
漱石を考究しようとして借りてきたものだが、これを読んで、漱石について考えていくことは、半年では無理だと判断した。それは以下の記述による。
各時代はそれぞれの「漱石」を思い描き、そして「漱石」は各時代の要求に対してみごとに適合するように表情を変えてきた。どの「漱石」もたしかに漱石であるにちがいなく、それがこの作家の偉大さだというならば、そのとうりである。(65)
ということは、捉えどころがなく、あるいは捉えることが難しく、または捉えようとしてもその輪郭が定かではない、ということにもなるだろう。
となると、漱石を捉えるというとき、もちろん作品を読むことは当然ではあるが、漱石についての様々な文献を参考として読むとき、これだという本はないということになる。
歴史について書くということは、今までの研究史をきちんとたどり、自分自身はその研究の軌跡に、どのような新しい視点を加えたか、ということになる。半年では、おそらく難しいという判断である。
漱石はじっくりと読むしかないと思った。
しかしそれでも、佐藤泉はよい視点を提供してくれている。
西洋人が驚嘆の眼で日本の近代を見つめている。そのまなざしを受け止めた漱石は、日本の近代がいかに普通でないかを意識しはじめ、そして西洋の近代とは違う日本近代の特殊性を問題化し、それについて思考しはじめるのである。自己のアイデンティティ(存在証明)は他者のまなざしを受け止めて、反発したり受け入れたりすることによって確立するというが、この場合の「日本近代」という自己意識も、まさにそのように成立したものだった。逆説的なことに、日本という自意識の成立事情は、決して「内発的」なものではなかった。(61)
ここには、漱石が日本の近代をどのように見つめたのか、それが課題となるということを示唆している。
漱石は、日本近代をどうみつめたのか、これを課題として、いずれ探ってみたい。今年から来年前半の仕事になるだろう。