夏目漱石を攻略しようと思って、『吾輩は猫である』を読み、また佐藤泉の『漱石 片付かない〈近代〉』(日本放送出版協会、2002年)を読んだ。今年は漱石だ、と思って読みはじめたが、なかなか難しい。佐藤の本を読んでいると、論点が様々でてきて、一人の作家・漱石をどのように考究していくか、その方法、視点がとんと思いつかない。ことしはいずれ「漱石ーその時代」というテーマを話すための準備期間として、とにかく漱石の作品を読み進めることだけにする。
歴史講座は、「日本とアメリカー歴史的に考える」というようなものにしようかと思う。アメリカについての本をたくさん持っていて、いずれ「アメリカ帝国」とはいかなる存在であるのかを考えるつもりではいた。
さて、『我が輩・・・』を読んでいたら、おもしろい指摘があった。
人間といふものは時間を潰す為めに強いて口を運動させて、可笑(をか)しくもない事を笑つたり、面白くもない事を嬉しがつたりする外に能もない者だと思つた。(上、68)
たしかに。わたしは週一回鍼灸師のお世話になっているが、そこに行くと、ひとりの老女が、のべつまくなしにしゃべっている姿をみる。会話を楽しむというより、自分自身が話すことだけを追求している。だから他人が話していても、その話をさえぎるかのように話す。そして笑ったり、うれしがったりしている。まあ元気に話すことが長寿の手段でもあるから、わたしはだまって聞いているのだが。
元来吾輩の考によると大空は万物を覆うふ為め大地は万物を載せる為に出来て居るー如何に執拗な議論を好む人間でも此事実を否定する訳には行くまい。偖(さて)此大空大地を製造する為に彼等人類はどの位の労力を費やして居るかと云ふと尺寸の手伝もして居らぬではないか。自分が製造して居らぬものを自分の所有と極める法はなからう。自分の所有と極めても差し支ないが他の出入を禁ずる理由はあるまい。此茫々たる大地を、小賢しくも垣を囲らし棒杭を立てて某某所有地抔と画し限るのは恰もかの蒼天に縄張して、この部分は我の天、あの部分は彼の天と届け出る様な者だ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら我等が呼吸する空気を一尺立方に割って切売をしても善い訳である。空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。(上、116)
これは猫殿の発言ではあるが、なかなかの指摘である。
次は「大和魂」への言及である。これは会話の中で交わされているのだが、その部分だけを抜き書きしよう。いずれ再び「大和魂」が叫ばれる時代が来るかもしれない。確かに「大和魂」には実体がない。ことばだけだ。ことばだけが叫ばれる時代が再来する?あゝ怖い。
「大和魂!と叫んで日本人が肺病やみの様な咳をした」/「大和魂!と新聞屋が云ふ。大和魂!と掏摸(スリ)が云うふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする」/「東郷大将が大和魂を有つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有つて居る」「大和魂とはどんなものかと聞いたら、大和魂さ答へて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云ふ声が聞こえた」/「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る。」/「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」