十二所上城地区は、大館市役所の南東12km、大館市役所比内総合支所の東約8kmのところ
大館市役所比内総合支所前(道の駅ひない)から国道285号線を北東へ進みます
約800mの「扇田」信号を右(東)へ、米代川とJR花輪線の線路の間を約5.4kmで天空の松入口を過ぎて
約2kmで道路左手にモミの木が見えて見ました
手前右側の「成章書院跡」の駐車場に車を止めさせて頂きました
南西側から
南南西側から
「吉成家の樅」ふるさと探訪並木名園名木保存事業の標柱です
南側から、根元は板塀のため見えませんが、目通り幹囲5.3mの巨木です
西側から
西北西側から見上げました
成章書院跡を見て行きましょう
駐車場(南側)から見ました
大きな石碑が建っています
説明版です
成章書院之址
成章書院は寛政5年(1793)8月2日秋田の御学舘(後の明徳館)の申渡しにより創設され、同日付けで教授に塩谷頼母、大森金吾の2人が、教授見習に他の5人がにんめいされた。
創立当時は郷校と呼ばれたが、寛政10年(1798)に御学館から正式に「成章書院」と布告された。「成章」の語は論語から採られたもので、その意味は「美しいあやのある文章を作る」である。
寛政12年(1800)7月17日、第9代秋田藩主佐竹義和公より直筆の「成章書院」の書が下賜になった。
御学館からは、提学(毎年)や督学(数年に一回)が派遣されて、それぞれ人事、指導監督、学習指導及び学業試験等が実施されたが、成章書院は他に比べて生徒の風紀も厳正であり、勉学も熱心で成績もよく、職員の勤務状況も極めて良好であると御学館における評価が高かった。
また成章書院で学んだ武士たちには学塾を開いて町民に教える者も多く、そのため十二所では、好学の気風が盛んになった。
令和元年8月1日 十二所史跡保存顕彰会 十二所自治会
令和3年10月 十二所再発見探訪隊
では、次へ行きましょう
大館市役所比内総合支所前(道の駅ひない)から国道285号線を北東へ進みます
約800mの「扇田」信号を右(東)へ、米代川とJR花輪線の線路の間を約5.4kmで天空の松入口を過ぎて
約2kmで道路左手にモミの木が見えて見ました
手前右側の「成章書院跡」の駐車場に車を止めさせて頂きました
南西側から
南南西側から
「吉成家の樅」ふるさと探訪並木名園名木保存事業の標柱です
南側から、根元は板塀のため見えませんが、目通り幹囲5.3mの巨木です
西側から
西北西側から見上げました
成章書院跡を見て行きましょう
駐車場(南側)から見ました
大きな石碑が建っています
説明版です
成章書院之址
成章書院は寛政5年(1793)8月2日秋田の御学舘(後の明徳館)の申渡しにより創設され、同日付けで教授に塩谷頼母、大森金吾の2人が、教授見習に他の5人がにんめいされた。
創立当時は郷校と呼ばれたが、寛政10年(1798)に御学館から正式に「成章書院」と布告された。「成章」の語は論語から採られたもので、その意味は「美しいあやのある文章を作る」である。
寛政12年(1800)7月17日、第9代秋田藩主佐竹義和公より直筆の「成章書院」の書が下賜になった。
御学館からは、提学(毎年)や督学(数年に一回)が派遣されて、それぞれ人事、指導監督、学習指導及び学業試験等が実施されたが、成章書院は他に比べて生徒の風紀も厳正であり、勉学も熱心で成績もよく、職員の勤務状況も極めて良好であると御学館における評価が高かった。
また成章書院で学んだ武士たちには学塾を開いて町民に教える者も多く、そのため十二所では、好学の気風が盛んになった。
令和元年8月1日 十二所史跡保存顕彰会 十二所自治会
令和3年10月 十二所再発見探訪隊
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