脇本脇本 七洋沢地区は、男鹿市役所の東北東約5kmのところ
県道59号男鹿半島線を東へ、国道101号線との五差路信号を右(南東)へ国道へ入ります
海沿いを東へ生鼻崎第二トンネルを貫けると直ぐ左に、脇本城跡の駐車場が有ります
駐車場にある説明版です
脇本城跡・天神様の細葉の椿
戦国時代に秋田地域を支配した安東氏の拠点的山城として、国の史跡に指定されています。
生鼻崎は、海上交通の要所(日本海・八郎潟)陸上交通の要所(天下満)であり、標高も100m前後あることなどから、城づくりには最適の環境でした。
また、江戸時代には紀行家の菅江真澄も訪れ、図絵を残すとともに、城跡内に鎮座する菅原神社の細葉の椿の古木について記録を残しています。これらは地域の貴重な文化財として、大切に守られています。
菅原神社一の鳥居です
「菅江真澄の道 脇本城跡・菅原神社・細葉の椿」の標柱です、文化元年(10804)8月24日、生鼻岬に登り天満宮を拝す、(男鹿の春風)
説明版です
脇本城跡
天正5年(1577)下国安東愛季(しものくにあんどうちかすえ)が大規模に修築し居城とした城として知られる。
愛季はもと檜山城主であり、元亀元年(1570)秋田湊城を統合して、小鹿島をも直轄地とし、「ひのもと(蝦夷)将軍」として蝦夷管轄をも担い、織田信長との交渉のさなか、脇本城を居城とした。盛時の縄張りは茶臼館や岩倉館迄含む。
もともと14世紀頃から城館が営まれていたとみられ、愛季の後の城主は脇本五郎脩季(わきもとごろうながすえ)の伝承を伴っている。
天正17年湊合戦で戦場となり、豊臣大名秋田実季の代には本格的修築は許されなかった。近世には太平城跡、生鼻城跡の通称でも伝えられたが、文化7年(1810)大地震のさい生鼻岬700m余が海中に没し、現在は本丸とみられる地域に郭・土塁・空堀・井戸跡等が残り、黄瀬戸・青磁・珠洲陶等が出土する。
上のニノ鳥居前まで車で入りました
ニノ鳥居です
参道石段を上がります
三ノ鳥居です
拝殿です
本殿です
境内の寝牛です
南側一段上に御堂の隣に目的の「天神様の細葉の椿」です
説明版です
天神様の細葉の椿
男鹿市指定天然記念物 平成9年4月11日
ヤブツバキの一種で、葉が細いことが特徴です。
樹齢は400年以上と推定されています。長い年月の風雪に耐え、脇本城の歴史も見守ってきました。
菅原神社の祭典が行われる4月下旬ころにはきれいなピンク色の花を咲かせます。
江戸時代の紀行家 菅江真澄は文化元年(1804)にすでに古城となっていた脇本城を訪れ、一節を残しています。
「その昔、脇本城主が奉納した天満宮(菅原神社)の神垣に、私も祈りを捧た。
ここは安東実季も友季も朝夕祈り、霊験あらたかだったので、事あるたびに占いなどを行ったという。
いつのころ植えられたものか、細葉の海榴(ツバキ)という古木があった。
生い茂る 細葉の椿ふとまにの うらなみかけて 八千代経ぬらし (男鹿の春風)」
幹を見ました
椿の実を見る事が出来ました
南側から
西側から
では、車道を戻りましょう
山道の途中から、潟上市の海岸松林に並ぶ風力発電所です
足元には脇本漁港が見下ろせました
では、次へ行きましょう
県道59号男鹿半島線を東へ、国道101号線との五差路信号を右(南東)へ国道へ入ります
海沿いを東へ生鼻崎第二トンネルを貫けると直ぐ左に、脇本城跡の駐車場が有ります
駐車場にある説明版です
脇本城跡・天神様の細葉の椿
戦国時代に秋田地域を支配した安東氏の拠点的山城として、国の史跡に指定されています。
生鼻崎は、海上交通の要所(日本海・八郎潟)陸上交通の要所(天下満)であり、標高も100m前後あることなどから、城づくりには最適の環境でした。
また、江戸時代には紀行家の菅江真澄も訪れ、図絵を残すとともに、城跡内に鎮座する菅原神社の細葉の椿の古木について記録を残しています。これらは地域の貴重な文化財として、大切に守られています。
菅原神社一の鳥居です
「菅江真澄の道 脇本城跡・菅原神社・細葉の椿」の標柱です、文化元年(10804)8月24日、生鼻岬に登り天満宮を拝す、(男鹿の春風)
説明版です
脇本城跡
天正5年(1577)下国安東愛季(しものくにあんどうちかすえ)が大規模に修築し居城とした城として知られる。
愛季はもと檜山城主であり、元亀元年(1570)秋田湊城を統合して、小鹿島をも直轄地とし、「ひのもと(蝦夷)将軍」として蝦夷管轄をも担い、織田信長との交渉のさなか、脇本城を居城とした。盛時の縄張りは茶臼館や岩倉館迄含む。
もともと14世紀頃から城館が営まれていたとみられ、愛季の後の城主は脇本五郎脩季(わきもとごろうながすえ)の伝承を伴っている。
天正17年湊合戦で戦場となり、豊臣大名秋田実季の代には本格的修築は許されなかった。近世には太平城跡、生鼻城跡の通称でも伝えられたが、文化7年(1810)大地震のさい生鼻岬700m余が海中に没し、現在は本丸とみられる地域に郭・土塁・空堀・井戸跡等が残り、黄瀬戸・青磁・珠洲陶等が出土する。
上のニノ鳥居前まで車で入りました
ニノ鳥居です
参道石段を上がります
三ノ鳥居です
拝殿です
本殿です
境内の寝牛です
南側一段上に御堂の隣に目的の「天神様の細葉の椿」です
説明版です
天神様の細葉の椿
男鹿市指定天然記念物 平成9年4月11日
ヤブツバキの一種で、葉が細いことが特徴です。
樹齢は400年以上と推定されています。長い年月の風雪に耐え、脇本城の歴史も見守ってきました。
菅原神社の祭典が行われる4月下旬ころにはきれいなピンク色の花を咲かせます。
江戸時代の紀行家 菅江真澄は文化元年(1804)にすでに古城となっていた脇本城を訪れ、一節を残しています。
「その昔、脇本城主が奉納した天満宮(菅原神社)の神垣に、私も祈りを捧た。
ここは安東実季も友季も朝夕祈り、霊験あらたかだったので、事あるたびに占いなどを行ったという。
いつのころ植えられたものか、細葉の海榴(ツバキ)という古木があった。
生い茂る 細葉の椿ふとまにの うらなみかけて 八千代経ぬらし (男鹿の春風)」
幹を見ました
椿の実を見る事が出来ました
南側から
西側から
では、車道を戻りましょう
山道の途中から、潟上市の海岸松林に並ぶ風力発電所です
足元には脇本漁港が見下ろせました
では、次へ行きましょう
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