昭和豊川槻木真形尻地区は、潟上市役所の東約7kmのところ
付近には油田があり文化財指定されている場所もあります
県道56号線を北西へ、棒沼台信号を右(東)へ国道101号線です
JR男鹿線を陸橋で越えて道成りに3.8km進み国道101号線の立体交差を下ります
交差点を左(北東)へ、馬踏川を渡ってT字路を右へ約500m道成りに進んで
右に見えてくるJR奥羽本線の踏切を渡り県道104号線を左(北東)へ約400mで
秋田銀行前の信号を右(東)へ県道229号線です、秋田自動車道の高架を潜り「道の駅しょうわ」を過ぎた
集落の槻木簡易郵便局のすぐ先を右(南)へ「豊川油田」の案内板を入ります
坂道を上ると間も無く右手に、油田のポンプが見えて来ます
説明版です
近代化石油産業遺産群
採油井「中野Rー5号井」
開抗:大正6年3月27日
成功:大正6年4月22日
中野興業(株)(中蒲原郡金津村・現:新潟県秋葉区金津)による掘削井である。
中野PP(ポンピングパワー)によって、周辺の約10採油井の増産を継続した。
鉄製の二本櫓は抗井の改修のために利用された
豊川油田歴史を伝える会
*新潟県立植物園の南側が金津地区です、岡の上などに石油関連の施設や博物館があり「中野邸記念館」は観光施設でもあり「泉恵園」は紅葉の名所でもあります。
細井道を道成りに南へ進み、豊川油田展示館入口を過ぎて下り切り左からの道路に出て右(南)へ
間も無く道路右手に目的のクロマツです
コスモスが綺麗です
横に倒れた様になっています
「真形の黒松」の文化財標柱です
東側にはクヌギでしょうか
南側から、幹の太い部分です
南西側から
西側から
少し西側に行ってみましょう
瀝青の池が在ります
説明版です
天然アスファルトは、縄文時代に土器破片の接着剤や石器の結び目の補強材として使用された例が各地で見られる。
槻木遺蹟群と呼ばれるこの地区の天然アスファルトは、古くから東北一円そして南北海道まで知れ活用されていた。
槻木遺蹟群 天然アスファルト(土瀝青採掘現場)
潟上市昭和豊川槻木字真形尻32番地1の内
この池は、天然アスファルトの露天堀が行われた跡で、池の岸のヨシに黒く付着しているのが原油である。
近世、日本でアスファルトの加工知識が無かった時代に、天然アスファルトに着眼したのは黒沢利八(現、岩手県北上市出身)である。
寛政2年(1790年)初代黒沢利八が土油から灯油と油煙墨を作り、秋田藩に献上した記録がある。その黒沢利八が藩の保護のもと、更に油煙の製造に専念するため、この地に住んだ。そして、国産(秋田特産)を開いた功績で、秋田藩から油煙製造地(70間四方の土地)が与えられている(1825年・文政8年)
そして明治10年(1877年)四代黒沢利八が「第一回内国勧業博覧会」に土瀝青を出品。それがロンドン市のアスファルト舗装を見て来た由利公正子爵の目に止まり、油煙以外の優れた特性に目が向けられるようになった。そして日本で初めてアスファルトが道路舗装用資材として利用された。
記録では明治11年、東京神田昌平橋の土瀝青敷工事で、ここから掘り出された天然アスファルトが利用されている。
天然アスファルトは舗装用資材のほか防水用などの建築資材として注目された。そして多くの工事が行われるようになり、需要に追い付くため多くの人が働き、天然アスファルトの大規模な露天堀が行われた。
天然アスファルトの採掘と精錬が最も活気を見せたのは明治30年代中頃以降である。しかし天然アスファルトは採掘が進むにつれ労賃や排水設備などに経費がかかり採算があわなくなる。そして明治45年頃をピークに天然アスファルトは石油アスファルトへと移行していく。
天然アスファルトの利用期間は短かったが、大量の採掘や精錬が行われ広く利用されるなど、日本のアスファルト工業はこの地から始まったと言ってよい。
潟上市教育委員会
天然ガス田です
ポンプの機械です
では、来た道を戻って次へ行きましょう
付近には油田があり文化財指定されている場所もあります
県道56号線を北西へ、棒沼台信号を右(東)へ国道101号線です
JR男鹿線を陸橋で越えて道成りに3.8km進み国道101号線の立体交差を下ります
交差点を左(北東)へ、馬踏川を渡ってT字路を右へ約500m道成りに進んで
右に見えてくるJR奥羽本線の踏切を渡り県道104号線を左(北東)へ約400mで
秋田銀行前の信号を右(東)へ県道229号線です、秋田自動車道の高架を潜り「道の駅しょうわ」を過ぎた
集落の槻木簡易郵便局のすぐ先を右(南)へ「豊川油田」の案内板を入ります
坂道を上ると間も無く右手に、油田のポンプが見えて来ます
説明版です
近代化石油産業遺産群
採油井「中野Rー5号井」
開抗:大正6年3月27日
成功:大正6年4月22日
中野興業(株)(中蒲原郡金津村・現:新潟県秋葉区金津)による掘削井である。
中野PP(ポンピングパワー)によって、周辺の約10採油井の増産を継続した。
鉄製の二本櫓は抗井の改修のために利用された
豊川油田歴史を伝える会
*新潟県立植物園の南側が金津地区です、岡の上などに石油関連の施設や博物館があり「中野邸記念館」は観光施設でもあり「泉恵園」は紅葉の名所でもあります。
細井道を道成りに南へ進み、豊川油田展示館入口を過ぎて下り切り左からの道路に出て右(南)へ
間も無く道路右手に目的のクロマツです
コスモスが綺麗です
横に倒れた様になっています
「真形の黒松」の文化財標柱です
東側にはクヌギでしょうか
南側から、幹の太い部分です
南西側から
西側から
少し西側に行ってみましょう
瀝青の池が在ります
説明版です
天然アスファルトは、縄文時代に土器破片の接着剤や石器の結び目の補強材として使用された例が各地で見られる。
槻木遺蹟群と呼ばれるこの地区の天然アスファルトは、古くから東北一円そして南北海道まで知れ活用されていた。
槻木遺蹟群 天然アスファルト(土瀝青採掘現場)
潟上市昭和豊川槻木字真形尻32番地1の内
この池は、天然アスファルトの露天堀が行われた跡で、池の岸のヨシに黒く付着しているのが原油である。
近世、日本でアスファルトの加工知識が無かった時代に、天然アスファルトに着眼したのは黒沢利八(現、岩手県北上市出身)である。
寛政2年(1790年)初代黒沢利八が土油から灯油と油煙墨を作り、秋田藩に献上した記録がある。その黒沢利八が藩の保護のもと、更に油煙の製造に専念するため、この地に住んだ。そして、国産(秋田特産)を開いた功績で、秋田藩から油煙製造地(70間四方の土地)が与えられている(1825年・文政8年)
そして明治10年(1877年)四代黒沢利八が「第一回内国勧業博覧会」に土瀝青を出品。それがロンドン市のアスファルト舗装を見て来た由利公正子爵の目に止まり、油煙以外の優れた特性に目が向けられるようになった。そして日本で初めてアスファルトが道路舗装用資材として利用された。
記録では明治11年、東京神田昌平橋の土瀝青敷工事で、ここから掘り出された天然アスファルトが利用されている。
天然アスファルトは舗装用資材のほか防水用などの建築資材として注目された。そして多くの工事が行われるようになり、需要に追い付くため多くの人が働き、天然アスファルトの大規模な露天堀が行われた。
天然アスファルトの採掘と精錬が最も活気を見せたのは明治30年代中頃以降である。しかし天然アスファルトは採掘が進むにつれ労賃や排水設備などに経費がかかり採算があわなくなる。そして明治45年頃をピークに天然アスファルトは石油アスファルトへと移行していく。
天然アスファルトの利用期間は短かったが、大量の採掘や精錬が行われ広く利用されるなど、日本のアスファルト工業はこの地から始まったと言ってよい。
潟上市教育委員会
天然ガス田です
ポンプの機械です
では、来た道を戻って次へ行きましょう
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