大塩沢地区は、南牧村役場の北約3kmのところ
南牧川に沿って県道93号線を下仁田方面へ途中から県道45号線です
道の駅オアシスなんもくを過ぎて約300mで橋を渡って左岸側へ左に曲がって上流へ県道202号線です
黒滝山の案内板に従って県道202号線を終点まで登って行きます
第二駐車場を過ぎて
第一駐車場へ入ります
この先は歩いて行きましょう、終点まで400mのようです
ジグザグに登って来ました、正面の擁壁の上高くに御堂が見えます
参道に在るはずの大杉と思われる梢が見えました
振り向くとお堂が低い位置に来ています
寺務所の建物が見えて来ました
振り向くと大杉の幹が見えました
寺務所の脇に参道通路が在ります、屋根の上に大杉の樹冠です
説明版です
南牧村指定史跡
黒瀧山不動寺
指定 昭和53年7月18日
所在 南牧村大字大塩沢甲1266
この寺は、高源元泉和尚を山主に延宝3年(1675年)潮音道海禅師が開山となり、禅堂・大雄宝殿・三門など禅林としての堂宇を整え、元禄6年(1693年)には、末寺・支院末庵は200余りを数えた黄檗宗黒瀧派(潮音派)の本山である。
潮音禅師の嗣法の門弟63名、受戒の道俗10余万人と伝えられ、開山堂には開山潮音禅師の寿像、開基の像とともに館林藩主徳川徳松丸・佐賀藩主鍋島光茂・綱茂等数多くの位牌が安置されている。
本尊は、行基菩薩の作と伝えられている金躰不動明王と元禄7年(1694年)に寄進された釈迦如来(釈迦三尊仏)である。
平成5年3月
南牧村教育委員会
通路を抜けると目的の大杉です
天然記念物標柱です
南西側から
東側から
北東側から
説明版です
群馬県指定天然記念物
黒瀧山の大スギ
指定 昭和27年11月11日
この樹木は、根回り10m、目通り6.6m、高さ約41m、枝張り東西約15m、南北約17mで、数本の杉の巨木を中心とする黒滝山不動寺の林の代表的なものである。
このあたりは岩山が多く、スギなどの樹木の生育には、あまり良い条件ないところで、これだけの大木に成長するのには数百年の年月を必要としたと思われる。
平成7年7月
群馬県教育委員会
南牧村教育委員会
山門前から
説明書きです
黄檗宗の教え
本宗は参禅を以って仏心を究明し、唯心の浄土、己身の阿弥陀仏を体得し、禅教一如の妙諦により、転迷開悟安心立命を期する、を教義といたします。
生活信条
1,我が身をこのまま空なりと観じて静かに座りましょう。
1,諸人はもともと仏なりと信じて拝みましょう。
1.世の中はすべて修行の道場なりと心がけ強くやさしく和やかに生活しましょう。
山門の鐘楼門です
説明書きです
山門
鐘楼門として寛政10年(1798)42代租駿禅師の代に再建、楼の鐘は戦時中の昭和17年に供出した。
楼階正面には、元禄5年の最初の山門に潮音禅師が東海禅窟と揮毫した扁額あり。
山門の下に魚梆(木魚)
元禄時代の作、禅寺での行事や儀式の折り、時刻を打ち鳴らす法具
魚が瞼を閉じないところから、人は心眼を開いて日々励めよとの意があります
本堂へ向かいます
手水舎です
不動堂です
黒瀧山金躰不動明王は、激しく燃え上がる大迦羅焔を背にし、眼光鋭く右手に宝剣、左手に宝綱持ち大磐上に立つ
こんがら、せいたかの二童子が脇立、人々の悩み事と・・・焼き清め洗い清めて現世人間界、自然界の平安を願いとし、消災吉祥、延命長寿、萬物元気、不動体(不動明王のような強い体)、不動心、開運、厄除、火伏等々灼かな霊験ある秘佛不動明王、悪や災いを切り砕き人々に気力と安らぎを授けます。
こんにゃく石です
黒滝山の大蒟蒻
蒟蒻石は、本村六車郷よりここに移る
遡る永正4年秋、関東管領被官茂木義峯は所領の繁栄を計り蒟蒻玉を携えて、南牧谷の治政に就く。
炮焱の干魃に蒟蒻の倒れんとする時、開祖潮音禅師は竜神の滝に雨乞いの祈祷を捧げ、麓十余里の田畑に慈雨を恵み、芒村の炊煙を盛んとして衆耕に仰がれたり。
往時は、こんにゃくと呼称したれば、この紅いの心頭に触れたる善人は必ず良縁祥福美貌子宝を授かるものなり。
平成17年4月28日
黒瀧山潮音大学
蒟蒻生産者団体
黒滝山光明講連
*不動堂の裏側に廻ってみました
岩壁から水が落ちてお不動様がいらっしゃいます
岩屋は天女窟と言います
弘法大師伝承の爪彫り不動の摩崖仏あり、潮音禅師が入山するまで、ここを道場として、真言密教の修行者達が滝に入り、山谷を駆け日夜励んだと伝わる。
潮音禅師をこの山に迎えた相源和尚も、滝行20年の記録を残す。潮音禅師この岩窟に貞享5年に弁財天を祀り、天女窟と名付けた。
岩屋の中には黒瀧泉弁財天です
弘法大師様です
南東側から岩屋を見ました
不動堂右手(東側)から、お不動様を見ました
下から見えた御堂が本堂の大雄宝殿です
大雄宝殿の北東側に開山堂の参道です屋根がみえたので、ここで戻ります
新しい鐘楼が県道の終点広場の東端に在ります
鐘楼建立の経緯
黄檗宗黒瀧派として本寺を開山された潮音禅師が鍾銘を刻した大鍾は、戦雲急な昭和17年に供出、村人に惜送されて久しきこと40年来梵鐘の再興は当山と地元信徒の悲願であった。
とき移り、その機運が実り、昭和55年夏梵鐘復興奉賛会結成。同年12月、楼堂を大歇嶺上に起工、総費用3000万円は700余名の浄財勧募、黄檗宗管長玄妙老大師よりは鍾銘と戦艦陸奥の遺材を拝頂して合鋳。派租潮音禅師の御作黒瀧十二勝詩より日東巌と月西巌の2詩を刻書した。
ここに重さ三百貫の大梵鐘の復興と新楼堂の建立が成り、不動尊ご開帳の昭和56年若葉薫る5月31日天下平和と諸縁吉祥、三界の万霊を祈り、清衆の浄願を結集して落成した。
維時 昭和辛酉年五月吉日
当山副住良圓
*梵鐘には戦艦陸奥の材料が鋳込まれているのですね~
戦艦陸奥は、昭和18年6月8日原因不明の爆発事故で山口県岩国市柱島沖に沈没し、戦後引き上げられ、大正9年進水の鋼材にはコバルト60が含まれていないことから、各種研究所・原発などで鋼材が使用されていることは、TV番組等で以前見た覚えがありましたが、山奥の梵鐘にも充てられたのですね
帝釈天と四天王像です
大塩沢の谷を見下ろしました
では、次へ行きましょう