法 家(ほうか)は、戦国時代の諸子百家の一つ。徳治主義を説く儒家と異なり、法治主義を説いた。徳治主義とは、徳のある統治者がその持ち前の徳をもって人民を治めるべきであるとした孔子の統治論に由来する儒教の政治理念・思想。古くは徳化(とくか)などと呼ばれていた。
主な書物に『韓非子』『管子』『商君書」がある。 法家とは、儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意・仁徳であるような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。孔子や孟子の儒家の説く礼によって国を治める徳治主義では人民を統治することは困難と考え、成文法によって罰則を定め、法と権力によって国家を治めようと考えたのが法家の人々である。彼らの思想で言えば、なによりも公正で厳格な法の執行が為政者にとってもっと必要なこととされた。そのような思想は斉の管仲、魏の李悝(りかい)、秦の商鞅など実務的な政治家によって行われていたが、理論化したのは儒家ではあったが孟子とは異なって性悪説にたった荀子とその弟子の韓非であった。
秦の孝公に仕えた商鞅(衛鞅・えいおう)や韓の王族の韓非がよく知られている。商鞅は秦に仕え、郡県制に見られるような法家思想に立脚した中央集権的な統治体制を整え、秦の大国化に貢献した。韓非は信賞必罰の徹底と法と術(いわば臣下のコントロール術)と用いた国家運営(法術思想)を説いた。
商鞅
韓非は「矛盾」や「守株待兎」といった説話を用いて儒家を批判したことでも知られる。「矛盾はどんな盾でも突き通す槍でどんな槍も破る事は出来ない盾で防ぐという話でも有名ね。守株待兎は「待ち呆け」の歌で有名ですね。また、ある村でどうしようもない極道の小僧がいて、家の家長が言ってもいう事を聞かない、塾の長が言っても、知事が言っても埒がいかない。最後に、郡兵が討伐に向かったら「畏れをなして、悔い改めた」とあります。それを秦の始皇帝が見て「これを書いたのは誰だ?」という逸話があります。
韓非子
中国統一を果たした始皇帝も、宰相として李斯(りし)を登用し、法家思想による統治を実施した。しかしながら、秦において法が厳格すぎたがゆえのエピソードとして以下のものがある。
- 新法の改革をした商鞅は反商鞅派によって王に讒訴されて謀反の罪を着せられた際には、都から逃亡して途中で宿に泊まろうとしたが、宿の亭主は商鞅である事を知らず「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」と断られた(商鞅は逃亡の末、秦に殺害された)。
- 燕の使者である荊軻が隠していた匕首で秦王の政(後の始皇帝)を殿上で暗殺しようとした際には、秦王は慌てて腰の剣が抜けない中で匕首を持った荊軻に追い回されていたが、臣下が秦王の殿上に武器を持って上がることは法により死罪とされていたため対応に難儀した(最終的には御殿医が荊軻へ薬箱を投げつけ、怯んだ隙に秦王が腰の剣を抜き、荊軻を斬り殺した)。
- 辺境守備のために徴発された農民兵900名は天候悪化のために期日までの到着が見込めなかったが、いかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首であったと史記に書かれている(これが秦を滅ぼす戦乱のきっかけとなる陳勝・呉広の要因となった)。
李斯(りし)
法家の思想は、秦が滅びた後の漢王朝や歴代王朝にも、表立っては掲げないものの受け継がれていった。とりわけ漢代初期には、法家と道家が混ざったような黄老思想が流行した。