毎度毎度、皆様を中国古典の世界に引っ張り込んでしまい、さぞ、退屈されていると思い、此処で一寸、気分転換で拳法の話をします。もしかして、以前に取り上げたかも知れませんが、厚かましくも再度?とり上げようと思いますね。
郭 雲深(かく うんしん・Guo Yunshen、推定1820年~1901年頃)は、中国の武術家。形意拳の達人。諱(いみな)は峪生、字を雲深。
郭雲深
河北省・馬荘の人。一説によれば、貧しい鋳物鍛冶の子として生まれたといい、若年から好んで拳術を学んだが、数年学んだものの、何ら得るところが無かったという。後に李能然に遭遇し、語り合ったところ、形意拳は形式が極めて簡素ながら、その道の奥深いことを知り、郭雲深は形意拳に憧れを抱くようになったという。こうして李能然は郭雲深に真誠の心があると見て、その門下に収め、自ら親しく教授することとなる。 郭雲深は李能然の教えを受けても自ら悟ることがあり、いよいよ練功に励みて、数十年の間、朝夕欠かさず修練を続けたという。
李能然が郭雲深に教えた手法とは、たとえば2人で対練した時など、一瞬の間に二丈の外に投げ飛ばされてしまう、だが、そこには苦痛は無く、あたかも手を軽々と一振りするだけかのようであるのに、身体が浮かされてしまうのである。その後郭雲深は何を学んでもその極意に達しないものは無かったといわれ、南北各地の同道の士と交流すること広く、体験することも多かったという。郭雲深の練った道理とは、つまるところ腹は実を極め、心は虚を極めることにあったと知られ、また兵書を好んで熟読し、奇門遁甲にすぐれていた。
奇門遁甲の創始伝説によると黄帝が蚩尤(しゆう)と戦っていた時に天帝から授けられたとされる。奇門遁甲を解説した詩賦である煙波釣叟悔賦では周の(太公望)や前漢、の張良、(劉邦の軍師)によって作盤方法の整理が行われたとされる。三国時代の蜀の諸葛亮なども用いたとされるが、これは伝説の域を出ない。紀昀(きいん)の『閲微草堂筆記』によれば、奇門遁甲の真伝は単なる占術ではなく呪術の要素も含んでいたようである。
郭雲深の生涯は波瀾と数多くの伝説に彩られ、敵に半歩進んで五行拳の一つ、崩拳(ポンチェン)の一打を発すると敵は皆倒れた為、人々は「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」と賞賛を惜しまなかったという。
崩 拳(空手で言う中段突き)両腕の交差によって突きがよく見えなかったらしい。
また郭雲深は人を殺め、3年間を獄で過ごしてはいるが、これは義憤に駆られた郭雲深が、ある土地で民衆を苦しめる匪賊の首領の館に害意をもって招かれ、彼にピストルで襲われた際に、愛用の月牙剣(鹿角刀)をもってこれを殺傷して、人々の賞賛を浴びたからであり、また獄での郭雲深は、彼に同情的な官警の者たちの配慮と、彼の義挙に感銘を受けた人々からの多額な献金により、獄での3年間を何不自由なく過ごしたという。
その弟子には、李魁元、錢硯堂、閉門弟子で意拳を創始した王郷斎、孫式太極拳の孫禄堂、「半歩崩拳」の呼び名を継承した尚雲祥などがいる。
また、董 海川(とう かいせん)と皇族(名前忘れた)の御前で手合わせをしたが勝負が付かなく、後に原理が同じであった事から、郭の門派は董の門派(八家掌)を学び、董の門派は郭の門派(形意拳)を学ぶ事にしたとあります。
董 海川(とう かいせん、1797年? - 1882年)は、清時代の武術家。宦官・八卦掌の創始者。原名は「海」後に「海川」に改名。 河北省文安県朱家塢村人。家は貧しかったが、武術を好んだ。安徽、九華山にて、「雲盤老祖」(別説では華澄霞(紅蓮長老))に出あい、その武術を伝授される。その後、日々練習を重ね、独自の工夫を加えて八卦掌を創造した。その後、北京に出向き、清朝の王族に認められ、絶技的武林大師と呼ばれる。 有名な弟子には、程廷華と尹福がいます。
最近?、の映画で「グランドマスター」に形意拳とか八卦掌が出てきますね。
葉問(イップ マン)の詠春拳とチャンツイ―,宮若梅(ゴン・ルオメイ)の八卦掌