都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」 川村記念美術館(Vol.2・レクチャー)
川村記念美術館(千葉県佐倉市坂戸631)
「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」
2/21-6/7

ロスコ展が始まってから早くも二ヶ月が経とうとしています。少し時間があいてしまいましたが、展示風景を写真でお伝えしたVol.1に続き、今回はプレスプレビュー時に行われた同館学芸員、林寿美氏によるレクチャーの様子を簡単にまとめてみました。
[今展覧会の開催について]
・テートモダンとの協力によって成り立った一期一会のロスコ展
→それぞれ門外不出の「シーグラム壁画」を両館が貸し出し合うことで企画が実現。
1970年、シーグラム壁画がテートに収められて以来、40年経って初めてその半数が邂逅した。
・ロスコの子息、クリストファー・ロスコ氏の全面協力を受けている。著作権の問題も比較的容易にクリアした。

(作品の前で語るクリストファー・ロスコ氏)
[展覧会の構成]
1.シーグラム以前と「赤の中の黒」
「赤の中の黒」(1958)
・「赤の中の黒」(1958)
シーグラム壁画と同時代の作品。50年代に到達した典型的なスタイル。大画面の中に抽象性の高い色面がシンプルに配置される。
・ロスコの画業の変遷
ロシア生まれのロスコは当初、シュールレアリスムの影響を受けるが、画業後半を迎えるにつれて具象的な形は消え、色面構成に力点を置いた作品を描くようになった。
・『色の力』とインスタレーション的志向
ロスコの色には見る者の心を捕まえて離さない力がある。絵の中に吸い込まれる感覚を味わうのではなかろうか。
↓
とは言え、ロスコ自身は色の「良さ」のみを言われるのをあまり好まなかった。
=当初、ロスコは黄色やオレンジなどの明るい色を用いていたが、色の奇麗さを賞賛されるあまり、逆に暗い黒や茶色を使うようになった。それが後、精神性という言葉でも括られるようになる。
↓
また色の変遷とともに、空間を絵画でコントロールすることを望むようにもなった。その時期にちょうどシーグラム壁画の注文が舞い込んできた。
2.シーグラム壁画~前史より~
・シーグラムビルからテートへ
NYのシーグラムビル内、フォー・シーズンズレストランの壁面を飾るための作品の制作を依頼される。=コンセプトは料理とともに、「一流」の芸術を紹介するというもの。
↓
ロスコは自分のための空間を作れると注文を受諾。1958年秋より翌年秋の約一年間にて構想、そして完成へと至った。しかしうち30点ほど描き終えた時点でレストランを下見したロスコは、自分がイメージしていた場所と違うと展示を拒否。他の場所で展示することを模索するようになる。
↓
約7年後の1965年、ロンドンのテートに作品が収蔵。展示が実現。

・ノーマン・リード(テート館長)との書簡集
作品収蔵のため、約4年間にもわたってロスコとリードの間に手紙のやり取りがあった。
手紙からは揺れるロスコの心のうちを読み解くことが出来る。
60年代後半は健康状態も芳しくなかったせいか、筆の乱れたものも多い。

「テート・ギャラリーのシーグラム壁画展示のための模型」(1969)
模型はロスコが構想したテートの一室。シーグラム壁画と同時期のスケッチも展示。
・収蔵、そして謎の死
1969年、テートの一室にシーグラム壁画を寄贈したその日、ロスコは腕を斬って自殺した。
3.シーグラム壁画展示室

(c) Kawamura Memorial Museum of Art 2009
シーグラム壁画全30点のうち15点が展示されている。
テートモダンよりの巡回展であるものの、その展示方法はあえて変えている。ロスコのイメージにより近い形を理想とした。
高さ
通常より展示位置が高い。床面より約120センチの場所に設置。
幅
作品同士を5センチの距離に近づけた。(ロスコの残した構想によっている。)上への繋がりよりも横へのそれを意識していたのではないか。

天井の窓:自然光を取り込む工夫。外の天気によって照度が変わって来る。
中央の椅子:腰掛けてじっくりとロスコの作品を味わって欲しい。
音声ガイドに収められたロスコの愛したモーツァルトの音楽を聴きながら見るのもおすすめしたい。
4.もう一つの「ロスコ・ルーム」(1964)

ヒューストンの「ロスコ・チャペル」に極めて近い。
これらが注文を受けて作られたものでもなく、またそもそも連作(全9点が確認され、うち4点が展示されている。)であるのかすら分かっていないが、空間を黒で支配しようとしたロスコの意識を垣間見ることが出来る。
「シーグラム壁画」であった窓のような外枠の面はなく、シンプルな黒が静かに迫り来る作品。
黒の中にはマットな部分とツヤのある部分に分かれ、一概に黒とは言えども複雑な表情を見せている。
この時期席巻していたポップ・アートの動向に対し幾分迷いもあったというロスコは、改めて自らの精神性についてこれらの作品で問い直していたのではないだろうか。
5.最晩年の「無題」(1969)
「無題」(1969)
ロスコが非業の死を遂げた1969年作の一枚。
上部に黒と深い茶色が、また下部にグレーの色調が配され、周囲に白い縁が描かれている。
この時期のロスコは健康上の問題から、大作の制作を医者にとめられていた。その中で描かれた作品でもある。
黒とグレーというと暗く否定的なイメージもあるが、今作に関しては必ずしもそうはとれないのではないか。奥へ伸びゆく広がりも感じられる。ロスコの新たな境地を示した作品かもしれない。
以上です。

「MARK ROTHKO」
なお本展示の図録でもあり、日本で初の本格的作品集でもあるという「マーク・ロスコ」(淡交社)が、先日より全国の書店で発売されました。シーグラム壁画を中心に全100点の作品図版、及び資料、また上のレクチャーを担当した林氏の論文やロスコの評伝などが全200ページ超のボリュームで掲載されています。ロスコファン必見の一冊です。まずは書店でご覧下さい。
「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」は6月7日まで開催されています。
*展示基本情報*
「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」
場所:川村記念美術館
交通:京成、JR佐倉駅より無料シャトルバス。(バス時刻表)無料駐車場あり。
会期:2009年2月21日(土)~6月7日(日)
時間:午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館:月曜日(ただし5/4は開館)、5/7(木)
料金:一般1500円、学生・65歳以上1200円、小中高校生500円。
*写真の撮影、掲載については全て主催者の許可をいただいています。
*関連エントリ
「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」 川村記念美術館(Vol.1・プレビュー):報道内覧会時の会場写真など。
春うらら@川村記念美術館:川村記念美術館付属の庭園風景。
「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」
2/21-6/7

ロスコ展が始まってから早くも二ヶ月が経とうとしています。少し時間があいてしまいましたが、展示風景を写真でお伝えしたVol.1に続き、今回はプレスプレビュー時に行われた同館学芸員、林寿美氏によるレクチャーの様子を簡単にまとめてみました。
[今展覧会の開催について]
・テートモダンとの協力によって成り立った一期一会のロスコ展
→それぞれ門外不出の「シーグラム壁画」を両館が貸し出し合うことで企画が実現。
1970年、シーグラム壁画がテートに収められて以来、40年経って初めてその半数が邂逅した。
・ロスコの子息、クリストファー・ロスコ氏の全面協力を受けている。著作権の問題も比較的容易にクリアした。

(作品の前で語るクリストファー・ロスコ氏)
[展覧会の構成]
1.シーグラム以前と「赤の中の黒」

・「赤の中の黒」(1958)
シーグラム壁画と同時代の作品。50年代に到達した典型的なスタイル。大画面の中に抽象性の高い色面がシンプルに配置される。
・ロスコの画業の変遷
ロシア生まれのロスコは当初、シュールレアリスムの影響を受けるが、画業後半を迎えるにつれて具象的な形は消え、色面構成に力点を置いた作品を描くようになった。
・『色の力』とインスタレーション的志向
ロスコの色には見る者の心を捕まえて離さない力がある。絵の中に吸い込まれる感覚を味わうのではなかろうか。
↓
とは言え、ロスコ自身は色の「良さ」のみを言われるのをあまり好まなかった。
=当初、ロスコは黄色やオレンジなどの明るい色を用いていたが、色の奇麗さを賞賛されるあまり、逆に暗い黒や茶色を使うようになった。それが後、精神性という言葉でも括られるようになる。
↓
また色の変遷とともに、空間を絵画でコントロールすることを望むようにもなった。その時期にちょうどシーグラム壁画の注文が舞い込んできた。
2.シーグラム壁画~前史より~
・シーグラムビルからテートへ
NYのシーグラムビル内、フォー・シーズンズレストランの壁面を飾るための作品の制作を依頼される。=コンセプトは料理とともに、「一流」の芸術を紹介するというもの。
↓
ロスコは自分のための空間を作れると注文を受諾。1958年秋より翌年秋の約一年間にて構想、そして完成へと至った。しかしうち30点ほど描き終えた時点でレストランを下見したロスコは、自分がイメージしていた場所と違うと展示を拒否。他の場所で展示することを模索するようになる。
↓
約7年後の1965年、ロンドンのテートに作品が収蔵。展示が実現。

・ノーマン・リード(テート館長)との書簡集
作品収蔵のため、約4年間にもわたってロスコとリードの間に手紙のやり取りがあった。
手紙からは揺れるロスコの心のうちを読み解くことが出来る。
60年代後半は健康状態も芳しくなかったせいか、筆の乱れたものも多い。

「テート・ギャラリーのシーグラム壁画展示のための模型」(1969)
模型はロスコが構想したテートの一室。シーグラム壁画と同時期のスケッチも展示。
・収蔵、そして謎の死
1969年、テートの一室にシーグラム壁画を寄贈したその日、ロスコは腕を斬って自殺した。
3.シーグラム壁画展示室

(c) Kawamura Memorial Museum of Art 2009
シーグラム壁画全30点のうち15点が展示されている。
テートモダンよりの巡回展であるものの、その展示方法はあえて変えている。ロスコのイメージにより近い形を理想とした。
高さ
通常より展示位置が高い。床面より約120センチの場所に設置。
幅
作品同士を5センチの距離に近づけた。(ロスコの残した構想によっている。)上への繋がりよりも横へのそれを意識していたのではないか。

天井の窓:自然光を取り込む工夫。外の天気によって照度が変わって来る。
中央の椅子:腰掛けてじっくりとロスコの作品を味わって欲しい。
音声ガイドに収められたロスコの愛したモーツァルトの音楽を聴きながら見るのもおすすめしたい。
4.もう一つの「ロスコ・ルーム」(1964)

ヒューストンの「ロスコ・チャペル」に極めて近い。
これらが注文を受けて作られたものでもなく、またそもそも連作(全9点が確認され、うち4点が展示されている。)であるのかすら分かっていないが、空間を黒で支配しようとしたロスコの意識を垣間見ることが出来る。
「シーグラム壁画」であった窓のような外枠の面はなく、シンプルな黒が静かに迫り来る作品。
黒の中にはマットな部分とツヤのある部分に分かれ、一概に黒とは言えども複雑な表情を見せている。
この時期席巻していたポップ・アートの動向に対し幾分迷いもあったというロスコは、改めて自らの精神性についてこれらの作品で問い直していたのではないだろうか。
5.最晩年の「無題」(1969)

ロスコが非業の死を遂げた1969年作の一枚。
上部に黒と深い茶色が、また下部にグレーの色調が配され、周囲に白い縁が描かれている。
この時期のロスコは健康上の問題から、大作の制作を医者にとめられていた。その中で描かれた作品でもある。
黒とグレーというと暗く否定的なイメージもあるが、今作に関しては必ずしもそうはとれないのではないか。奥へ伸びゆく広がりも感じられる。ロスコの新たな境地を示した作品かもしれない。
以上です。



なお本展示の図録でもあり、日本で初の本格的作品集でもあるという「マーク・ロスコ」(淡交社)が、先日より全国の書店で発売されました。シーグラム壁画を中心に全100点の作品図版、及び資料、また上のレクチャーを担当した林氏の論文やロスコの評伝などが全200ページ超のボリュームで掲載されています。ロスコファン必見の一冊です。まずは書店でご覧下さい。
「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」は6月7日まで開催されています。
*展示基本情報*
「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」
場所:川村記念美術館
交通:京成、JR佐倉駅より無料シャトルバス。(バス時刻表)無料駐車場あり。
会期:2009年2月21日(土)~6月7日(日)
時間:午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館:月曜日(ただし5/4は開館)、5/7(木)
料金:一般1500円、学生・65歳以上1200円、小中高校生500円。
*写真の撮影、掲載については全て主催者の許可をいただいています。
*関連エントリ
「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」 川村記念美術館(Vol.1・プレビュー):報道内覧会時の会場写真など。
春うらら@川村記念美術館:川村記念美術館付属の庭園風景。
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「まぼろしの薩摩切子 スライドレクチャー」 サントリー美術館
サントリー美術館(港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウンガレリア3階)
「まぼろしの薩摩切子 スライドレクチャー」
3/28 20:00~20:30

「まぼろしの薩摩切子展」会期初日夜、六本木アートナイトに関連して行われたスライドレクチャーを聞いてきました。早速、以下にメモをまとめます。
[薩摩切子展開催について]
薩摩切子とは江戸末期、薩摩藩のみで制作された和製カットガラス。
最盛期は島津斉彬(1851-58)の藩主時代。
現在確認されている作品は僅か約150点。うち120点を紹介する。
新出は色被せ(色ガラス)9点、無色切子19点。
東京では27年ぶりの切子展である。
[薩摩切子略史]
『起』1846年 薩摩藩第10代藩主、島津斉興(斉彬の父)がガラス製造を開始。
当時、薩摩藩は財政難で苦しんでいた。そのため産業勃興をはかった斉興は薩摩より全国に売り出す特産品の育成に乗り出す。それが薬だった。
そして薬を入れるためのガラスの器も制作する→ガラス制作で先行していた江戸より職人を呼び寄せる=薩摩切子の始まり。
『承』1851年 島津斉彬が藩主に就任。
切子を器、工芸品からアートの域へと高める。
江戸の切子とは異なる、薩摩独自の色と形の完成に力を注いだ。
海外への販売も積極的に行う。
『転』1958年 斉彬急逝。
そもそも薩摩藩の財政難を解決するためにはじまった切子制作が、いつのまにか芸術と化し、むしろコストがかかって藩の財政をさらに悪化させていた。
→音頭をとった斉彬の死とともに、切子制作も一気に斜陽へ。
『結』1963年 薩英戦争勃発。
切子制作の工房をイギリス軍が砲撃、そして破壊。
戦争終了後、藩の興業、反射炉や造船などのいわゆる「集成館事業」は次々と再開されたが、ガラス製造のみはついに復活することがなかった。
[展覧会の構成]
〔第1章:憧れのカットガラス〕
前史。薩摩切子の誕生に影響を与えたガラス工芸品(イギリス、ボヘミア、江戸)を概観。
・長崎経由の輸入品
外国のガラス工芸品は既にオランダ船を通して日本へ伝わっていた。
斉興が30代の頃、長崎でイギリスのガラス品を購入、それをメガネに用いていたこともあった。=斉興所持のガラス品を展示。
・江戸と海外のガラス工芸と薩摩切子
(江戸切子)
(薩摩切子)*共に蓋付三段重
「江戸切子 蓋付三段重」:かごの目を編んだような模様
→「蓋付三段重」及び、ボヘミアの「カットガラス 皿」と類似。
イギリスの「カットガラス皿」
→「紅色被皿」模様はイギリスの作に似ているが、薩摩は紅色と無色のガラスを二層に被せている。
=相互に共通する図柄はいくつか存在している。
・江戸と薩摩の相違点
江戸切子の発祥は民間。薩摩は藩の全体の事業。また江戸は色を発色することは可能だが、それを二層で表すことは出来なかった。
一方、薩摩の『色被せ』は二層を実現。
江戸の単一紋に対し、薩摩は何種類もの紋を組み合わせる。
・実用品としての切子
「ホクトメートル」(比重を計る器具)
シリンダーの底のカット模様=薩摩切子の前段階の可能性も。
〔第2章:薩摩切子の誕生、そして興隆〕
美術品となった切子を辿る。
・紅色ガラスの開発
(紅色被鉢)
銅赤ガラス=やや暗めの紅色が特徴
デキャンターの作成:元々日本にはなかった形。西洋のガラスから模様だけでなく、形そのものも取り出した。
脚付杯:同じく西洋の形。薩摩が日本へ取り入れた。
=「紅色被脚付杯」は紅色ガラスとしては現存する唯一の薩摩脚付杯
・薩摩縞の導入=薩摩で伝統的な染色模様
太い線と細い三本の線が並ぶ
(藍色被船形鉢)
・通称『船形三兄弟』:「藍色被船形鉢」、「船形鉢」、「筆洗」
藍色被船形鉢を小さくした形が筆洗。同じ形を意匠を変えて使う。
〔第3章:名士たちの薩摩切子〕
献上品としても重宝された薩摩切子。松平家や井伊家所蔵などの切子を俯瞰する。
・篤姫所用の「藍色栓付瓶」
切子のひな道具も開発した。
・松平と井伊家=思想的に薩摩と対立関係にあった両家にも切子は伝わっている。
松平家「紅色被鉢」
井伊家「紫色被栓付瓶」
・岩崎家所用
「藍色被三ツ組盃・盃台」:岩崎俊彌氏旧蔵→コーニング美術館所蔵。
*コーニング美術館:ニューヨーク州。世界最大のガラス美術館。なお一度、ハリケーンに襲われ、所蔵の美術品が水浸しになったことがあった。本作も一部に傷がついている。
〔第4章:進化する薩摩切子〕
薩摩切子の後半生。
(黄色小鉢)
・色彩の多様化:「黄色碗」(オリーブ色がかっている。)
薄紫、黄色の多用。
・形のモダン化:「藍色被脚付杯」:斬新な四角形。
〔第5章:薩摩切子の行方〕
薩英戦争を契機に、明治維新でほぼ制作が終了した薩摩切子。またその亜流を追う。
・薩摩系切子
各地に流れた作家たちが切子制作を独自に継承。
(宮垣秀次郎 紅色被鉢)
宮垣秀次郎作「薩摩系切子 紅色被鉢」(明治14年):宮垣は薩摩の元職人と考えられている。
一見、薩摩切子と同等だが、細部の意匠が異なっている。
→のち、薩摩系切子はカットにぶれが生じるなど質が低下。制作は廃れていく。
以上です。
作品に重複する名称が多く、図像も少ないので分かり難くなってしまいましたが、薩摩切子史、もしくは展示の流れなどを大まかに掴んでいただくことは出来るのではないでしょうか。なお実際のレクチャーではスライドを用い、より視覚的に理解し易く解説されていたことを付け加えておきます。
ところで薩摩切子は佐治敬三氏がサントリー美術館を設立する際、一番初めに蒐集したコレクションであったそうです。同美術館では27年前の切子展以来、再度現地鹿児島への調査を行うなど、研究のさらなる発展にも勤しんでいました。今回はその成果発表としても見るべき点の多い展覧会なのかもしれません。
なお5月10日の午前(10:30~)と午後(15:30~)にも上と同内容のスライドレクチャーが予定されています。料金は入館料のみ、また事前申し込み不要のイベントです。関心のある方は参加されては如何でしょうか。
この美術館が切子のために作られたかのような錯覚さえ受けるほど完成度の高い展覧会です。色、形だけでなく、照明より輝くガラスの影にも注視して下さい。
5月17日まで開催されています。
「まぼろしの薩摩切子 スライドレクチャー」
3/28 20:00~20:30

「まぼろしの薩摩切子展」会期初日夜、六本木アートナイトに関連して行われたスライドレクチャーを聞いてきました。早速、以下にメモをまとめます。
[薩摩切子展開催について]
薩摩切子とは江戸末期、薩摩藩のみで制作された和製カットガラス。
最盛期は島津斉彬(1851-58)の藩主時代。
現在確認されている作品は僅か約150点。うち120点を紹介する。
新出は色被せ(色ガラス)9点、無色切子19点。
東京では27年ぶりの切子展である。
[薩摩切子略史]
『起』1846年 薩摩藩第10代藩主、島津斉興(斉彬の父)がガラス製造を開始。
当時、薩摩藩は財政難で苦しんでいた。そのため産業勃興をはかった斉興は薩摩より全国に売り出す特産品の育成に乗り出す。それが薬だった。
そして薬を入れるためのガラスの器も制作する→ガラス制作で先行していた江戸より職人を呼び寄せる=薩摩切子の始まり。
『承』1851年 島津斉彬が藩主に就任。
切子を器、工芸品からアートの域へと高める。
江戸の切子とは異なる、薩摩独自の色と形の完成に力を注いだ。
海外への販売も積極的に行う。
『転』1958年 斉彬急逝。
そもそも薩摩藩の財政難を解決するためにはじまった切子制作が、いつのまにか芸術と化し、むしろコストがかかって藩の財政をさらに悪化させていた。
→音頭をとった斉彬の死とともに、切子制作も一気に斜陽へ。
『結』1963年 薩英戦争勃発。
切子制作の工房をイギリス軍が砲撃、そして破壊。
戦争終了後、藩の興業、反射炉や造船などのいわゆる「集成館事業」は次々と再開されたが、ガラス製造のみはついに復活することがなかった。
[展覧会の構成]
〔第1章:憧れのカットガラス〕
前史。薩摩切子の誕生に影響を与えたガラス工芸品(イギリス、ボヘミア、江戸)を概観。
・長崎経由の輸入品
外国のガラス工芸品は既にオランダ船を通して日本へ伝わっていた。
斉興が30代の頃、長崎でイギリスのガラス品を購入、それをメガネに用いていたこともあった。=斉興所持のガラス品を展示。
・江戸と海外のガラス工芸と薩摩切子


「江戸切子 蓋付三段重」:かごの目を編んだような模様
→「蓋付三段重」及び、ボヘミアの「カットガラス 皿」と類似。
イギリスの「カットガラス皿」
→「紅色被皿」模様はイギリスの作に似ているが、薩摩は紅色と無色のガラスを二層に被せている。
=相互に共通する図柄はいくつか存在している。
・江戸と薩摩の相違点
江戸切子の発祥は民間。薩摩は藩の全体の事業。また江戸は色を発色することは可能だが、それを二層で表すことは出来なかった。
一方、薩摩の『色被せ』は二層を実現。
江戸の単一紋に対し、薩摩は何種類もの紋を組み合わせる。
・実用品としての切子
「ホクトメートル」(比重を計る器具)
シリンダーの底のカット模様=薩摩切子の前段階の可能性も。
〔第2章:薩摩切子の誕生、そして興隆〕
美術品となった切子を辿る。
・紅色ガラスの開発

銅赤ガラス=やや暗めの紅色が特徴
デキャンターの作成:元々日本にはなかった形。西洋のガラスから模様だけでなく、形そのものも取り出した。
脚付杯:同じく西洋の形。薩摩が日本へ取り入れた。
=「紅色被脚付杯」は紅色ガラスとしては現存する唯一の薩摩脚付杯
・薩摩縞の導入=薩摩で伝統的な染色模様
太い線と細い三本の線が並ぶ

・通称『船形三兄弟』:「藍色被船形鉢」、「船形鉢」、「筆洗」
藍色被船形鉢を小さくした形が筆洗。同じ形を意匠を変えて使う。
〔第3章:名士たちの薩摩切子〕
献上品としても重宝された薩摩切子。松平家や井伊家所蔵などの切子を俯瞰する。
・篤姫所用の「藍色栓付瓶」
切子のひな道具も開発した。
・松平と井伊家=思想的に薩摩と対立関係にあった両家にも切子は伝わっている。
松平家「紅色被鉢」
井伊家「紫色被栓付瓶」
・岩崎家所用
「藍色被三ツ組盃・盃台」:岩崎俊彌氏旧蔵→コーニング美術館所蔵。
*コーニング美術館:ニューヨーク州。世界最大のガラス美術館。なお一度、ハリケーンに襲われ、所蔵の美術品が水浸しになったことがあった。本作も一部に傷がついている。
〔第4章:進化する薩摩切子〕
薩摩切子の後半生。

・色彩の多様化:「黄色碗」(オリーブ色がかっている。)
薄紫、黄色の多用。
・形のモダン化:「藍色被脚付杯」:斬新な四角形。
〔第5章:薩摩切子の行方〕
薩英戦争を契機に、明治維新でほぼ制作が終了した薩摩切子。またその亜流を追う。
・薩摩系切子
各地に流れた作家たちが切子制作を独自に継承。

宮垣秀次郎作「薩摩系切子 紅色被鉢」(明治14年):宮垣は薩摩の元職人と考えられている。
一見、薩摩切子と同等だが、細部の意匠が異なっている。
→のち、薩摩系切子はカットにぶれが生じるなど質が低下。制作は廃れていく。
以上です。
作品に重複する名称が多く、図像も少ないので分かり難くなってしまいましたが、薩摩切子史、もしくは展示の流れなどを大まかに掴んでいただくことは出来るのではないでしょうか。なお実際のレクチャーではスライドを用い、より視覚的に理解し易く解説されていたことを付け加えておきます。
ところで薩摩切子は佐治敬三氏がサントリー美術館を設立する際、一番初めに蒐集したコレクションであったそうです。同美術館では27年前の切子展以来、再度現地鹿児島への調査を行うなど、研究のさらなる発展にも勤しんでいました。今回はその成果発表としても見るべき点の多い展覧会なのかもしれません。
なお5月10日の午前(10:30~)と午後(15:30~)にも上と同内容のスライドレクチャーが予定されています。料金は入館料のみ、また事前申し込み不要のイベントです。関心のある方は参加されては如何でしょうか。
この美術館が切子のために作られたかのような錯覚さえ受けるほど完成度の高い展覧会です。色、形だけでなく、照明より輝くガラスの影にも注視して下さい。
5月17日まで開催されています。
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「VOCA展 2009 受賞作家トークVol.2『樫木知子・高木こずえ』」 上野の森美術館
上野の森美術館(台東区上野公園1-2)
「VOCA展 2009 受賞作家トークVol.2『樫木知子・高木こずえ』」
3/15 15:00~

Vol.1の三瀬夏之介に続きます。VOCA展初日の受賞作家トークより、樫木知子・高木こずえの対談部分をまとめてみました。
「VOCA展 2009 受賞作家トークVol.1『三瀬夏之介』」
[樫木知子(VOCA奨励賞)]
司会 支持体が二枚あるがこれは全体で一つの作品なのか。
樫木 一点一点、それぞれに独立している。二枚で一つではない。
司会 技術的に洗練されているという印象を強く感じる。表面の細かな木目などはどのようにして表現したのか。
樫木 実際に木目を筆で描いた部分とコラージュ風にして貼った部分に分かれている。(後者が3割程度。)ベニアの木目を貼り、そのまま残すこともあるが、あまり奇麗でない木目の時には、薄い着色を施して描くこともある。木目を隠したり開かせたりしているような感覚だ。混ぜ合わせてやっているつもり。
樫木知子「屋上公園」
司会 アクリルの着色の後に何らかの処理をしていると聞くが。
樫木 絵具を付けた後、その塗った絵具を少し落とすようにしてヤスリで表面を削っている。だから常に表面はツルツルになっているはず。
司会 削ることによって生まれた透明感も魅力的だ。その技法はオリジナルのものなのか。
樫木 そう言うわけではない。学生時代、キャンバスの目地を消すためにどうしたら良いかと先生に聞いた時、ヤスリで削る方法を教えてもらった。その方法が自分にあったので今もずっと使っている。
司会 パネル自体がカーブしているが何か理由があるのか。
樫木 筆で引いた線が画面の端に来た時、90度直角の支持体ではそこでとめるのか、さらに横にまで引くのかが自分で良く分からない。だからあえてカーブさせて一本の線が緩やかに続いているような感じに仕上げている。
司会 少女がいたと思ったら、部屋の中に電信柱が立っていたりする。風景はあるのに現実ではないような白昼夢を見ているような気分にもさせられる。人が浮いているのかそれとも立っているのかも判別出来ないような不思議さが魅力的な作品だ。
樫木 そうした面はあるかもしれない。人を描き、それから居場所を探るようにして背景の山や川を描いている。
司会 少女の手足の指が変形しているようにも見えるが。
樫木 人の全体の形のイメージがまずあるので、手足も指もそれに即したもので描いているつもり。実際的な指を描くと、私の描きたい人の雰囲気には合わない。不気味かもしれないが、統一感を考えている。
司会 作品はタイトルが先か、絵のイメージが先なのか。
樫木 絵のイメージが先にある。タイトルはあくまでも後で付ける。
[高木こずえ(府中市美術館賞)]
司会 写真というメディアはいつから使うようになったのか。
高木 高校の時に写真部に入っていた。ただ大学へは写真をやりたいためだけに入ったわけではない。
司会 写真以外の素材を使うことはあるのか。
高木 元々、絵を描くのは好き。ただ美大は自分にとって技術的に難しそうなので諦めた。それに現代アートをどうしてもやりたいという意識もなかった。
司会 初めの頃はどういった写真を撮っていたのか。
高木 モノクロ。銀塩で自分の好きなものばかり撮っていた。
高木こずえ「ground」
司会 今作の技法はどういったものか。
高木 カラーで一度フィルムにおさめ、それを取り込んでデジタル処理している。
司会 様々なモチーフがあるように思えるが。
高木 やはり身近なものを取り込みたいので花や、それに大好きな猫などを入れることが多い。
司会 コラージュの技法について。
高木 コラージュする際、一度色を全部モノクロに変換した上にて、例えば今回であれば金色を帯びた赤で再度統一させていく。また他の作品では別の色を使うことも多い。
司会 作品タイトルの「ground」に込められた意味とは。
高木 これまでは写真を夢中になって撮ってきたが、去年に改めて今後の自分の方向をどうしようかと考えたことがあった。この作品はそうした自分の中の問いの答えでもある。これからの自分の基盤、土台になるようにという点でgroundと名付けた。
司会 作品の中の世界とは。
高木 自分の中に見えて来る世界そのもの。色々なモノが生きて死ぬ、そして土へと返って行くという「生」の循環、そうした部分も表現したかった。
以上です。
作家の言葉は私のような受け手にとって、時に作品に匹敵するような深い印象を与えられることがあります。特に高木こずえに関してはつい先日、馬喰町のTARO NASU(~21日まで)でも個展を見たばかりだったので、より興味深いものがありました。
「高木こずえ 展」 TARO NASU
なおVOCA展全体の感想は、別記事で以下にまとめました。
「VOCA展 2009」 上野の森美術館
*展覧会基本情報
「現代美術の展望 VOCA展2009 -新しい平面の作家たち-」
会場:上野の森美術館
会期:3月15日(日)~3月30日(月)[会期中無休]
時間:10:00~17:00(金曜日のみ19:00閉館、入場は閉館30分前まで。)
料金:一般・大学生:¥500、高校生以下:無料
*次回受賞作家トーク
3/28 15:00~ 浅井祐介、今津景、櫻井えりこ(申し込み不要)
「VOCA展 2009 受賞作家トークVol.2『樫木知子・高木こずえ』」
3/15 15:00~

Vol.1の三瀬夏之介に続きます。VOCA展初日の受賞作家トークより、樫木知子・高木こずえの対談部分をまとめてみました。
「VOCA展 2009 受賞作家トークVol.1『三瀬夏之介』」
[樫木知子(VOCA奨励賞)]
司会 支持体が二枚あるがこれは全体で一つの作品なのか。
樫木 一点一点、それぞれに独立している。二枚で一つではない。
司会 技術的に洗練されているという印象を強く感じる。表面の細かな木目などはどのようにして表現したのか。
樫木 実際に木目を筆で描いた部分とコラージュ風にして貼った部分に分かれている。(後者が3割程度。)ベニアの木目を貼り、そのまま残すこともあるが、あまり奇麗でない木目の時には、薄い着色を施して描くこともある。木目を隠したり開かせたりしているような感覚だ。混ぜ合わせてやっているつもり。

司会 アクリルの着色の後に何らかの処理をしていると聞くが。
樫木 絵具を付けた後、その塗った絵具を少し落とすようにしてヤスリで表面を削っている。だから常に表面はツルツルになっているはず。
司会 削ることによって生まれた透明感も魅力的だ。その技法はオリジナルのものなのか。
樫木 そう言うわけではない。学生時代、キャンバスの目地を消すためにどうしたら良いかと先生に聞いた時、ヤスリで削る方法を教えてもらった。その方法が自分にあったので今もずっと使っている。
司会 パネル自体がカーブしているが何か理由があるのか。
樫木 筆で引いた線が画面の端に来た時、90度直角の支持体ではそこでとめるのか、さらに横にまで引くのかが自分で良く分からない。だからあえてカーブさせて一本の線が緩やかに続いているような感じに仕上げている。
司会 少女がいたと思ったら、部屋の中に電信柱が立っていたりする。風景はあるのに現実ではないような白昼夢を見ているような気分にもさせられる。人が浮いているのかそれとも立っているのかも判別出来ないような不思議さが魅力的な作品だ。
樫木 そうした面はあるかもしれない。人を描き、それから居場所を探るようにして背景の山や川を描いている。
司会 少女の手足の指が変形しているようにも見えるが。
樫木 人の全体の形のイメージがまずあるので、手足も指もそれに即したもので描いているつもり。実際的な指を描くと、私の描きたい人の雰囲気には合わない。不気味かもしれないが、統一感を考えている。
司会 作品はタイトルが先か、絵のイメージが先なのか。
樫木 絵のイメージが先にある。タイトルはあくまでも後で付ける。
[高木こずえ(府中市美術館賞)]
司会 写真というメディアはいつから使うようになったのか。
高木 高校の時に写真部に入っていた。ただ大学へは写真をやりたいためだけに入ったわけではない。
司会 写真以外の素材を使うことはあるのか。
高木 元々、絵を描くのは好き。ただ美大は自分にとって技術的に難しそうなので諦めた。それに現代アートをどうしてもやりたいという意識もなかった。
司会 初めの頃はどういった写真を撮っていたのか。
高木 モノクロ。銀塩で自分の好きなものばかり撮っていた。

司会 今作の技法はどういったものか。
高木 カラーで一度フィルムにおさめ、それを取り込んでデジタル処理している。
司会 様々なモチーフがあるように思えるが。
高木 やはり身近なものを取り込みたいので花や、それに大好きな猫などを入れることが多い。
司会 コラージュの技法について。
高木 コラージュする際、一度色を全部モノクロに変換した上にて、例えば今回であれば金色を帯びた赤で再度統一させていく。また他の作品では別の色を使うことも多い。
司会 作品タイトルの「ground」に込められた意味とは。
高木 これまでは写真を夢中になって撮ってきたが、去年に改めて今後の自分の方向をどうしようかと考えたことがあった。この作品はそうした自分の中の問いの答えでもある。これからの自分の基盤、土台になるようにという点でgroundと名付けた。
司会 作品の中の世界とは。
高木 自分の中に見えて来る世界そのもの。色々なモノが生きて死ぬ、そして土へと返って行くという「生」の循環、そうした部分も表現したかった。
以上です。
作家の言葉は私のような受け手にとって、時に作品に匹敵するような深い印象を与えられることがあります。特に高木こずえに関してはつい先日、馬喰町のTARO NASU(~21日まで)でも個展を見たばかりだったので、より興味深いものがありました。
「高木こずえ 展」 TARO NASU
なおVOCA展全体の感想は、別記事で以下にまとめました。
「VOCA展 2009」 上野の森美術館
*展覧会基本情報
「現代美術の展望 VOCA展2009 -新しい平面の作家たち-」
会場:上野の森美術館
会期:3月15日(日)~3月30日(月)[会期中無休]
時間:10:00~17:00(金曜日のみ19:00閉館、入場は閉館30分前まで。)
料金:一般・大学生:¥500、高校生以下:無料
*次回受賞作家トーク
3/28 15:00~ 浅井祐介、今津景、櫻井えりこ(申し込み不要)
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「VOCA展 2009 受賞作家トークVol.1『三瀬夏之介』」 上野の森美術館
上野の森美術館(台東区上野公園1-2)
「VOCA展 2009 受賞作家トークVol.1『三瀬夏之介』」
3/15 15:00~

本日より春の上野の到来を告げるVOCA展が上野の森美術館で始まりました。私の拙い感想は後回しにするとして、まずは取り急ぎ同日企画された受賞作家トークより、最高賞のVOCA賞を受賞した三瀬夏之介のセッションの様子を再現したいと思います。トークは会場フロア内にて、作品の前に三瀬、樫木、高木の三作家、及び観客とが向き合い、司会と対談する形式で進みました。
[三瀬夏之介(VOCA賞)]
司会 どういう契機で日本画を取り組むことになったのか。
三瀬 そもそも日本画を学べる高校など殆どないが、自分も高校時代は油絵ばかりを描いていた。当然美大への進学も油画を意識することになる。入学後、前期の基礎実習で油絵、もしくは日本画の双方を学んだが、そこで行った水墨の実習が相当に面白かった。具体的には、自分を360度、スクリーン状に囲む紙に様々な風景を描くというものだが、そのイメージに熱中するとともに、水墨に触れることでかつて自身でやっていた水彩の記憶も思い起こすことになった。これで進路は決定。(笑)油は家でやれば良いと日本画を志すことにした。
司会 墨絵が今の制作の原点になったということなのか。
三瀬 日本画の魅力に惹かれたとは言えども、大学の日本画教育には終始、かなり強い疑念を抱いていた。かつて学生時代、作品を批評し合う合評会が存在したが、そこでも出てくる言葉は「生命がない。」などの観念的な言葉ばかりで技術の話がない。また油画では例えばマティスなどの名画を摂取する実習があるのに対し、自分は地面の土を描いたり、それに鶏を描いてばかりで、一種のコンプレックスのようなものも感じていた。また日本画を離れ、いわゆる現代アートの世界へ目が向いたこともある。それに仲間といわゆる日本画ブームの来る前に、日本画とは何かを問うグループ展などを企画しあったこともあった。自分のしていることは何だろうという意識は常に持っているつもりだ。
司会 京都、奈良は日本画制作の牙城のようなイメージもあるが、そこから何か吸収したものはないのか。
三瀬 当時、反骨心ばかりで日本画を問い直そうとしていた私に、教授は色々と文句を付けてきた。(笑)それが色々な意味で今の糧になっている部分もある。
司会 日本画より逸脱しようとする意識を常に持っているのか。具体的に日本画をどうしようと考えているのか。
三瀬 パネルにはめ込めた、また額縁の中にある支持体という部分からもう一度考え直してみる。膠、顔料のちょっとした差異で絵の景色は一変するが、そうした技術的な面も試行錯誤、突き詰めて行く。ともかく大学では技術を全然教えてくれなかったので。(笑)
司会 一般的な日本画というと、画中の余白や間合いなどを通した緊張感を楽しむ面も多いが、三瀬の作品はそれとは正反対でエネルギッシュでかつモノを埋め尽くす圧倒感がある。
三瀬 指摘の意味の日本画という観点からでは決して正統派ではいないつもりだ。
三瀬夏之介「J」
司会 受賞作「J」について。「J」とは神武天皇の頭文字と聞いたが。
三瀬 それを含め、「J」には色々な意味合いをこめている。もともと日本画を描く過程において、日本画とは何か、また日本画を否定しようと様々な迷いや問を発してきた。そしてその根底には日本の意識、また日本人として絵を描くことの問題という問いを持ち続けてきた部分もあった。「J」はJapanのJかもしれない。
司会 三メートルほどの巨大な紙を使っているが。
三瀬 VOCAの規定で縦2メートル50センチというものがあるので、実際は上部を詰めている。
司会 中はコラージュの技法も多く用いられている。
三瀬 4種類ほどの様々な和紙を用いている。もちろんそれは絵を描くための上質な紙であり、また時には襖に使う紙であったりもする。
司会 印刷物もちらほら見受けられるが。
三瀬 連想ゲームの意識で色々な紙を使っているつもり。直感を大切にしたい。例えばJで用いられる大仏の手だが、これも大仏を見ていて手が山のように見えたから組み込んでいる。またUFOや魔人などを出すのも、あえて全体を意識せずに一度、絵の世界を不安定にしてあえて壊したいという願望があるから。無造作にスケッチを貼ることもある。
司会 作品には様々なモチーフが埋め込まれ、それらが組み合わさることで膨大な情報を発信している。三瀬の魅力はそここそあるのではなかろうか。
三瀬 壊す意識と言えども、最終的にはあるべき姿、ようは安定を目指すことはもちろん意識している。良く構図の面で混沌とし過ぎている云々と指摘を受けることがあるが、何とか同じ空間に不安定なモノを馴染ませようとする努力はしているつもりだ。
司会 今回のVOCA展で気になった作家はいるか。
三瀬 今、一緒に並んで座っている奨励賞の樫木さん、また府中市美術館賞の高木さんには共通したものを感じるがどうだろうか。例えば高木さんであれば、形もバラバラな図像が全体の中で永久に動いているかのようなイメージ。また一推しは浅井祐介。ひたすら描き続け、それらが分裂するように増殖していく、ようは描かなくては何も始まらず、ひたすら絵を描き続けたいというような運動を常にしているという姿勢にも多いに引きつけられる。
会場質問 絵の中にハシゴや階段がたくさんあるのは何故か。
三瀬 小さい頃のおまじないから由来している。当時、ノストラダムス云々で世紀末ブームがあったが、未来を知ろうというおまじないが奈良界隈で流行った。(笑)それは砂山に小さなハシゴを一晩刺して、朝そのままなら良い方向が、また倒れていたら死んでしまうという命をかけたもの。(笑)そのイメージを大切にしている。
以上です。
司会の方との呼吸が若干噛み合なかったせいか、いつもの快活な三瀬節とまでいきませんでしたが、それでも随所に笑いありの話で、あっという間に三、四十分が過ぎてしまいました。なおその後、同会場内で引き続き行われた樫木、高木の両氏のトークについては、下のリンク先エントリにまとめています。合わせてご覧下されば幸いです。
「VOCA展 2009 受賞作家トークVol.2『樫木知子・高木こずえ』」
なお受賞作家トークは次回、28日(土)午後3時より、三瀬氏も推薦の浅井祐介、また今津景、櫻井りえこの三名が予定されています。展示入場料の他は申し込みなど一切不要のイベントです。興味のある方はご参加下さい。
*展覧会基本情報
「現代美術の展望 VOCA展2009 -新しい平面の作家たち-」
会場:上野の森美術館
会期:3月15日(日)~3月30日(月)[会期中無休]
時間:10:00~17:00(金曜日のみ19:00閉館、入場は閉館30分前まで。)
料金:一般・大学生:¥500、高校生以下:無料
*関連エントリ(拙ブログ)
「三瀬夏之介 アーティストトーク」 佐藤美術館
「三瀬夏之介 - 冬の夏 - 」 佐藤美術館
*関連リンク(佐藤美術館個展時の対談を掲載)
「Round About 第61回 三瀬夏之介」(アートアクセス)
「VOCA展 2009 受賞作家トークVol.1『三瀬夏之介』」
3/15 15:00~

本日より春の上野の到来を告げるVOCA展が上野の森美術館で始まりました。私の拙い感想は後回しにするとして、まずは取り急ぎ同日企画された受賞作家トークより、最高賞のVOCA賞を受賞した三瀬夏之介のセッションの様子を再現したいと思います。トークは会場フロア内にて、作品の前に三瀬、樫木、高木の三作家、及び観客とが向き合い、司会と対談する形式で進みました。
[三瀬夏之介(VOCA賞)]
司会 どういう契機で日本画を取り組むことになったのか。
三瀬 そもそも日本画を学べる高校など殆どないが、自分も高校時代は油絵ばかりを描いていた。当然美大への進学も油画を意識することになる。入学後、前期の基礎実習で油絵、もしくは日本画の双方を学んだが、そこで行った水墨の実習が相当に面白かった。具体的には、自分を360度、スクリーン状に囲む紙に様々な風景を描くというものだが、そのイメージに熱中するとともに、水墨に触れることでかつて自身でやっていた水彩の記憶も思い起こすことになった。これで進路は決定。(笑)油は家でやれば良いと日本画を志すことにした。
司会 墨絵が今の制作の原点になったということなのか。
三瀬 日本画の魅力に惹かれたとは言えども、大学の日本画教育には終始、かなり強い疑念を抱いていた。かつて学生時代、作品を批評し合う合評会が存在したが、そこでも出てくる言葉は「生命がない。」などの観念的な言葉ばかりで技術の話がない。また油画では例えばマティスなどの名画を摂取する実習があるのに対し、自分は地面の土を描いたり、それに鶏を描いてばかりで、一種のコンプレックスのようなものも感じていた。また日本画を離れ、いわゆる現代アートの世界へ目が向いたこともある。それに仲間といわゆる日本画ブームの来る前に、日本画とは何かを問うグループ展などを企画しあったこともあった。自分のしていることは何だろうという意識は常に持っているつもりだ。
司会 京都、奈良は日本画制作の牙城のようなイメージもあるが、そこから何か吸収したものはないのか。
三瀬 当時、反骨心ばかりで日本画を問い直そうとしていた私に、教授は色々と文句を付けてきた。(笑)それが色々な意味で今の糧になっている部分もある。
司会 日本画より逸脱しようとする意識を常に持っているのか。具体的に日本画をどうしようと考えているのか。
三瀬 パネルにはめ込めた、また額縁の中にある支持体という部分からもう一度考え直してみる。膠、顔料のちょっとした差異で絵の景色は一変するが、そうした技術的な面も試行錯誤、突き詰めて行く。ともかく大学では技術を全然教えてくれなかったので。(笑)
司会 一般的な日本画というと、画中の余白や間合いなどを通した緊張感を楽しむ面も多いが、三瀬の作品はそれとは正反対でエネルギッシュでかつモノを埋め尽くす圧倒感がある。
三瀬 指摘の意味の日本画という観点からでは決して正統派ではいないつもりだ。

司会 受賞作「J」について。「J」とは神武天皇の頭文字と聞いたが。
三瀬 それを含め、「J」には色々な意味合いをこめている。もともと日本画を描く過程において、日本画とは何か、また日本画を否定しようと様々な迷いや問を発してきた。そしてその根底には日本の意識、また日本人として絵を描くことの問題という問いを持ち続けてきた部分もあった。「J」はJapanのJかもしれない。
司会 三メートルほどの巨大な紙を使っているが。
三瀬 VOCAの規定で縦2メートル50センチというものがあるので、実際は上部を詰めている。
司会 中はコラージュの技法も多く用いられている。
三瀬 4種類ほどの様々な和紙を用いている。もちろんそれは絵を描くための上質な紙であり、また時には襖に使う紙であったりもする。
司会 印刷物もちらほら見受けられるが。
三瀬 連想ゲームの意識で色々な紙を使っているつもり。直感を大切にしたい。例えばJで用いられる大仏の手だが、これも大仏を見ていて手が山のように見えたから組み込んでいる。またUFOや魔人などを出すのも、あえて全体を意識せずに一度、絵の世界を不安定にしてあえて壊したいという願望があるから。無造作にスケッチを貼ることもある。
司会 作品には様々なモチーフが埋め込まれ、それらが組み合わさることで膨大な情報を発信している。三瀬の魅力はそここそあるのではなかろうか。
三瀬 壊す意識と言えども、最終的にはあるべき姿、ようは安定を目指すことはもちろん意識している。良く構図の面で混沌とし過ぎている云々と指摘を受けることがあるが、何とか同じ空間に不安定なモノを馴染ませようとする努力はしているつもりだ。
司会 今回のVOCA展で気になった作家はいるか。
三瀬 今、一緒に並んで座っている奨励賞の樫木さん、また府中市美術館賞の高木さんには共通したものを感じるがどうだろうか。例えば高木さんであれば、形もバラバラな図像が全体の中で永久に動いているかのようなイメージ。また一推しは浅井祐介。ひたすら描き続け、それらが分裂するように増殖していく、ようは描かなくては何も始まらず、ひたすら絵を描き続けたいというような運動を常にしているという姿勢にも多いに引きつけられる。
会場質問 絵の中にハシゴや階段がたくさんあるのは何故か。
三瀬 小さい頃のおまじないから由来している。当時、ノストラダムス云々で世紀末ブームがあったが、未来を知ろうというおまじないが奈良界隈で流行った。(笑)それは砂山に小さなハシゴを一晩刺して、朝そのままなら良い方向が、また倒れていたら死んでしまうという命をかけたもの。(笑)そのイメージを大切にしている。
以上です。
司会の方との呼吸が若干噛み合なかったせいか、いつもの快活な三瀬節とまでいきませんでしたが、それでも随所に笑いありの話で、あっという間に三、四十分が過ぎてしまいました。なおその後、同会場内で引き続き行われた樫木、高木の両氏のトークについては、下のリンク先エントリにまとめています。合わせてご覧下されば幸いです。
「VOCA展 2009 受賞作家トークVol.2『樫木知子・高木こずえ』」
なお受賞作家トークは次回、28日(土)午後3時より、三瀬氏も推薦の浅井祐介、また今津景、櫻井りえこの三名が予定されています。展示入場料の他は申し込みなど一切不要のイベントです。興味のある方はご参加下さい。
*展覧会基本情報
「現代美術の展望 VOCA展2009 -新しい平面の作家たち-」
会場:上野の森美術館
会期:3月15日(日)~3月30日(月)[会期中無休]
時間:10:00~17:00(金曜日のみ19:00閉館、入場は閉館30分前まで。)
料金:一般・大学生:¥500、高校生以下:無料
*関連エントリ(拙ブログ)
「三瀬夏之介 アーティストトーク」 佐藤美術館
「三瀬夏之介 - 冬の夏 - 」 佐藤美術館
*関連リンク(佐藤美術館個展時の対談を掲載)
「Round About 第61回 三瀬夏之介」(アートアクセス)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
「三瀬夏之介 アーティストトーク」 佐藤美術館
佐藤美術館(新宿区大京町31-10)
「三瀬夏之介展 -冬の夏 - アーティストトーク」
2/7 13:00~
出演:三瀬夏之介、立島惠(佐藤美術館学芸部長)

佐藤美術館で開催中の三瀬夏之介展より、先日企画されたアーティストトークに参加してきました。
開始約20分弱ほど遅れてしまったので不完全ですが、以下、私のメモを頼りに、その模様を再現したいと思います。
トークショー時の会場写真はこちらへ:アーティストトーク・公開制作(弐代目・青い日記帳)
前半は観客の前で絵を描く三瀬夏之介本人が、同美術館の学芸部長である立島惠氏と対話する形で進みました。
立島惠(以下、T) 4階の展示は三瀬本人に設営してもらったが、当初はそれこそ歩くのが困難なほど混沌した会場になっていた。現時点でもかなり異様な雰囲気かもしれないが、これはある程度『見せる』ことを意識して整理された形であることを分かっていただきたい。
三瀬夏之介(以下、M) 作り手は全てゼロから始める。制度的な『美術』という枠を意識して制作するのではなく、和紙という単なる植物繊維に過ぎない素材へと向かいながら、例えば千切って貼り合わせるような、半ば好きに勝手に遊ぶ感覚を大切にしたい。この空間はモルモットの巣作りのようなもの。見る人のことはあえて考えなかった。これでも自分では整理し過ぎたような気がする。
「日本画滅亡論」(2007)
T 「日本画復活論」と「滅亡論」の作品二点を作家に持参してもらったことがあったが、ごく普通の手提げ袋に丸めて入れてきただけでなく、後で広げたら中から濡れた傘が出てきたのには心底驚いた。こういう作家は他にいない。
「日本画復活論」(2007)
M その滲みが良い具合になっている。(笑)作品に関してはそのイメージを無条件に信じ込めないような(世界に入り込みたいが、でも入れない。)、あえて見せない、開けてこないことに注意してやっている。薄い紙の上で世界を見せつつ、やはりそんなことはないだろうというような『突っ込み』を自分で入れているようなものかもしれない。またなるべくパネルを使わないのは、和紙の良さを素直に引き出したいから。直感から入り、それを引き止めることを大切にしたい。
後半は田島氏が退場し、会場にて絵を描き続ける三瀬と来場者とのQ&Aの時間が設定されました。(Q=観客)
Q 和紙への墨の入れ方はどうしているのか。
M ちょっとした墨の動きや滲みの具合を大切にしている。例えば安い硯に高い墨をすると墨が『暴れる』。それが面白い。またイタリアに一年間滞在したが、ヨーロッパの硬水で墨をすると、これまた同じく暴れた。(墨は軟水ですることが前提になっている。)ちなみに「復活論」と「滅亡論」は硬水を用いた墨を使っている。
Q イメージを膨らませるために墨と色をどう工夫して置いているのか。
M 色は基本的に好き。色を置く理由はよく考えている。何故レッドなのかブルーなのか。色を入れると選択肢が無限大に広がるのが面白い。またイタリアでは眩しい光線、そして底抜けの青い空、そして目に飛び込む鮮やかな緑など、原色の力が大変に強かった。そうした色の烈しさを受け止めるために、あえて黒(墨)で整理(多用)してみたこともあった。もちろんそこからまた徐々に色を使う場合もある。また大抵、墨は5種類くらい用意している。
Q 最初に大きなイメージがあるのか。どこから描き始めるのか。
M 直感的に大きな富士山や大仏、また台風を描こうというような広いイメージを考える。また逆に箱庭を作るように細かいイメージを浮かべる時もある。一般的な日本画は制作の過程が厳格に定められている部分があるが、そうした作業的なものは極力避けたい。プロセスにおいて色々と自由なイメージを発見したい。
Q 作品が完成する時はいつなのか。
M 絵の中に風が吹き、空気が入り、それが全面に広がったと感じた時に描くのをやめる。もちろん与えられた空間を埋めれば終わりという場合もある。
Q マットな面と光沢な面があるがその違いは何なのか。
M 樹脂を塗って透明感を出す。また、にじみ止めをしていない和紙に塗ると半透明の質感が生まれる。かつて「現代美術」をやっていた時があったが、画面をTVのようなドットで覆って表現しようと思ったことがあった。今もある点描はその意識があるからかもしれない。
Q 作品に多く登場するUFOを実際に見たことがあるのか。
M 仕事をする人間としては見えてはならないもの。(笑)アメリカでキリスト教への信仰率が落ちるのと同時に、UFOを信じると考える割合が増えたのは、人は常に超越的なものに対する憧れを持っているからではないだろうか。私はUFOを見ても、見て見ぬ振りをするつもりだ。(笑)
Q 題名はどうしているのか。
M ケースバイケース。最新作の「J」は最初から「J」を描こうと思って作り始めた。また「滅亡論」は、「滅亡論」という展覧会に出すということで描いた作品。それに個展名にあった「シナプスの小人」は、筒井康隆のエディプスの恋人という小説が好きで付けた名前だ。
Q 作品の「白い」部分と絵の輝きについて。
M 白を出そうと意識する時は胡粉を使う。また和紙の白い部分はいわゆる白ではない。かつて和紙は単なる支持体だと考えていたが、ある彫刻家に「和紙は光をふくむもの。」と聞いて気持ちは変わった。墨をのせない部分の余白は要するに光である。また絵は最終的に輝くものにしたい。暗い現実世界ではなかなか輝けないが、少なくとも絵の上にだけは輝きがもたらされるように意識して描いている。時折、画面上に漫画的な表現で十字にキラキラとした描写を作るのも、そうした理由があるから。
Q エスキースはあるのか。
M ない。紙片を貼って絵を増殖させながら、その絵の中を彷徨って歩く。ちなみに絵の中に多く登場する小さな建物は、その面を塗り終えて一段落した自分の寝泊まりの場所のために描いた。また常に紙に近づく形で作業するので、引いて全体像を確かめることがあまりない。自分で描きつつ、ふと自分が描いたものではないというような驚きを発見した時、完成に至る。
Q フィレンツェでの体験と作品について。
M 当然ながら文化の著しい差異を感じた。例えば街の建物を見た場合、日本なら大概中に何があるか想像付くものだが、イタリアではそうはいかない。現地で日本人観光客を見ると、彼らがすぐに帰られることが素直に羨ましかった。(笑)ただし一年を経て日本へ帰ると、逆にこちらの建物の中に何があるのかが想像付かなくなっていた。いつの間にかイタリアに慣れてしまった自分に気がつく。またイタリアで見た何気ない丸模様が日章旗に思えたりすることもあった。それはもちろん作品に取り込まれている。
Q 普段の制作について
M 奈良で教師をやっているが、生徒の恋愛話を聞きながら筆を動かすことも多々ある。また製作中に校内放送で呼び出されて制作が中断することもしばしば。用事を終え、絵に戻ると、また表情を変えていたりすることがあるから面白い。大竹伸朗の言葉だが、作品は「洗濯物を干して乾いた後のようなもの。」であるのかもしれない。
Q 同世代の現代美術とは?
M 同じ世代の現代美術を見るのは好き。横浜のZAIMでは名和晃平の作品も見て来た。メジャーな画廊で次々と作品を発表していて良いなと…。(笑)ただ自分はもっと泥臭い部分で表現したい。ものを作ることに拘りたい。
Q 作品に奈良の場所性が強く出ていると思うが、生まれ育った奈良を離れるつもりは?
M それはあるかもしれない。また作品もフィレンツェへ行って変化したように、例えば東京へ来たら間違いなく変わると思う。ただし東京はコワい。(笑)
以上です。実際には上記のような『硬い対談』ではなく、イントネーションに柔らかい奈良の言葉にも由来するのか、終始冗談も飛ぶ、和やかな雰囲気で進行しました。話は随所で弾み、制作公開というよりも、トークの方がメインのイベントになっていたかもしれません。
それにしても筆を動かしている本人の姿を見るのはやはり貴重です。和紙の上にどっしりと腰掛け、前屈みになりながら小さな筆にて墨を伸ばし、また紙に馴染ませつつ散らす様は、多様な景色を切り開く画家と言うよりも、紙に向かい、また墨に遊んで物語を紡ぐ書家のイメージと重なりました。和紙の上で開放された墨が、三瀬の巧みな誘導に沿って空間を泳ぐ様子は何とも気持ち良さそうに思えてなりません。
展示自体の感想は別途また記事にするつもりです。三瀬夏之介展は2月22日まで開催されています。
「三瀬夏之介展 -冬の夏 - アーティストトーク」
2/7 13:00~
出演:三瀬夏之介、立島惠(佐藤美術館学芸部長)

佐藤美術館で開催中の三瀬夏之介展より、先日企画されたアーティストトークに参加してきました。
開始約20分弱ほど遅れてしまったので不完全ですが、以下、私のメモを頼りに、その模様を再現したいと思います。
トークショー時の会場写真はこちらへ:アーティストトーク・公開制作(弐代目・青い日記帳)
前半は観客の前で絵を描く三瀬夏之介本人が、同美術館の学芸部長である立島惠氏と対話する形で進みました。
立島惠(以下、T) 4階の展示は三瀬本人に設営してもらったが、当初はそれこそ歩くのが困難なほど混沌した会場になっていた。現時点でもかなり異様な雰囲気かもしれないが、これはある程度『見せる』ことを意識して整理された形であることを分かっていただきたい。
三瀬夏之介(以下、M) 作り手は全てゼロから始める。制度的な『美術』という枠を意識して制作するのではなく、和紙という単なる植物繊維に過ぎない素材へと向かいながら、例えば千切って貼り合わせるような、半ば好きに勝手に遊ぶ感覚を大切にしたい。この空間はモルモットの巣作りのようなもの。見る人のことはあえて考えなかった。これでも自分では整理し過ぎたような気がする。

T 「日本画復活論」と「滅亡論」の作品二点を作家に持参してもらったことがあったが、ごく普通の手提げ袋に丸めて入れてきただけでなく、後で広げたら中から濡れた傘が出てきたのには心底驚いた。こういう作家は他にいない。

M その滲みが良い具合になっている。(笑)作品に関してはそのイメージを無条件に信じ込めないような(世界に入り込みたいが、でも入れない。)、あえて見せない、開けてこないことに注意してやっている。薄い紙の上で世界を見せつつ、やはりそんなことはないだろうというような『突っ込み』を自分で入れているようなものかもしれない。またなるべくパネルを使わないのは、和紙の良さを素直に引き出したいから。直感から入り、それを引き止めることを大切にしたい。
後半は田島氏が退場し、会場にて絵を描き続ける三瀬と来場者とのQ&Aの時間が設定されました。(Q=観客)
Q 和紙への墨の入れ方はどうしているのか。
M ちょっとした墨の動きや滲みの具合を大切にしている。例えば安い硯に高い墨をすると墨が『暴れる』。それが面白い。またイタリアに一年間滞在したが、ヨーロッパの硬水で墨をすると、これまた同じく暴れた。(墨は軟水ですることが前提になっている。)ちなみに「復活論」と「滅亡論」は硬水を用いた墨を使っている。
Q イメージを膨らませるために墨と色をどう工夫して置いているのか。
M 色は基本的に好き。色を置く理由はよく考えている。何故レッドなのかブルーなのか。色を入れると選択肢が無限大に広がるのが面白い。またイタリアでは眩しい光線、そして底抜けの青い空、そして目に飛び込む鮮やかな緑など、原色の力が大変に強かった。そうした色の烈しさを受け止めるために、あえて黒(墨)で整理(多用)してみたこともあった。もちろんそこからまた徐々に色を使う場合もある。また大抵、墨は5種類くらい用意している。
Q 最初に大きなイメージがあるのか。どこから描き始めるのか。
M 直感的に大きな富士山や大仏、また台風を描こうというような広いイメージを考える。また逆に箱庭を作るように細かいイメージを浮かべる時もある。一般的な日本画は制作の過程が厳格に定められている部分があるが、そうした作業的なものは極力避けたい。プロセスにおいて色々と自由なイメージを発見したい。
Q 作品が完成する時はいつなのか。
M 絵の中に風が吹き、空気が入り、それが全面に広がったと感じた時に描くのをやめる。もちろん与えられた空間を埋めれば終わりという場合もある。
Q マットな面と光沢な面があるがその違いは何なのか。
M 樹脂を塗って透明感を出す。また、にじみ止めをしていない和紙に塗ると半透明の質感が生まれる。かつて「現代美術」をやっていた時があったが、画面をTVのようなドットで覆って表現しようと思ったことがあった。今もある点描はその意識があるからかもしれない。
Q 作品に多く登場するUFOを実際に見たことがあるのか。
M 仕事をする人間としては見えてはならないもの。(笑)アメリカでキリスト教への信仰率が落ちるのと同時に、UFOを信じると考える割合が増えたのは、人は常に超越的なものに対する憧れを持っているからではないだろうか。私はUFOを見ても、見て見ぬ振りをするつもりだ。(笑)
Q 題名はどうしているのか。
M ケースバイケース。最新作の「J」は最初から「J」を描こうと思って作り始めた。また「滅亡論」は、「滅亡論」という展覧会に出すということで描いた作品。それに個展名にあった「シナプスの小人」は、筒井康隆のエディプスの恋人という小説が好きで付けた名前だ。
Q 作品の「白い」部分と絵の輝きについて。
M 白を出そうと意識する時は胡粉を使う。また和紙の白い部分はいわゆる白ではない。かつて和紙は単なる支持体だと考えていたが、ある彫刻家に「和紙は光をふくむもの。」と聞いて気持ちは変わった。墨をのせない部分の余白は要するに光である。また絵は最終的に輝くものにしたい。暗い現実世界ではなかなか輝けないが、少なくとも絵の上にだけは輝きがもたらされるように意識して描いている。時折、画面上に漫画的な表現で十字にキラキラとした描写を作るのも、そうした理由があるから。
Q エスキースはあるのか。
M ない。紙片を貼って絵を増殖させながら、その絵の中を彷徨って歩く。ちなみに絵の中に多く登場する小さな建物は、その面を塗り終えて一段落した自分の寝泊まりの場所のために描いた。また常に紙に近づく形で作業するので、引いて全体像を確かめることがあまりない。自分で描きつつ、ふと自分が描いたものではないというような驚きを発見した時、完成に至る。
Q フィレンツェでの体験と作品について。
M 当然ながら文化の著しい差異を感じた。例えば街の建物を見た場合、日本なら大概中に何があるか想像付くものだが、イタリアではそうはいかない。現地で日本人観光客を見ると、彼らがすぐに帰られることが素直に羨ましかった。(笑)ただし一年を経て日本へ帰ると、逆にこちらの建物の中に何があるのかが想像付かなくなっていた。いつの間にかイタリアに慣れてしまった自分に気がつく。またイタリアで見た何気ない丸模様が日章旗に思えたりすることもあった。それはもちろん作品に取り込まれている。
Q 普段の制作について
M 奈良で教師をやっているが、生徒の恋愛話を聞きながら筆を動かすことも多々ある。また製作中に校内放送で呼び出されて制作が中断することもしばしば。用事を終え、絵に戻ると、また表情を変えていたりすることがあるから面白い。大竹伸朗の言葉だが、作品は「洗濯物を干して乾いた後のようなもの。」であるのかもしれない。
Q 同世代の現代美術とは?
M 同じ世代の現代美術を見るのは好き。横浜のZAIMでは名和晃平の作品も見て来た。メジャーな画廊で次々と作品を発表していて良いなと…。(笑)ただ自分はもっと泥臭い部分で表現したい。ものを作ることに拘りたい。
Q 作品に奈良の場所性が強く出ていると思うが、生まれ育った奈良を離れるつもりは?
M それはあるかもしれない。また作品もフィレンツェへ行って変化したように、例えば東京へ来たら間違いなく変わると思う。ただし東京はコワい。(笑)
以上です。実際には上記のような『硬い対談』ではなく、イントネーションに柔らかい奈良の言葉にも由来するのか、終始冗談も飛ぶ、和やかな雰囲気で進行しました。話は随所で弾み、制作公開というよりも、トークの方がメインのイベントになっていたかもしれません。
それにしても筆を動かしている本人の姿を見るのはやはり貴重です。和紙の上にどっしりと腰掛け、前屈みになりながら小さな筆にて墨を伸ばし、また紙に馴染ませつつ散らす様は、多様な景色を切り開く画家と言うよりも、紙に向かい、また墨に遊んで物語を紡ぐ書家のイメージと重なりました。和紙の上で開放された墨が、三瀬の巧みな誘導に沿って空間を泳ぐ様子は何とも気持ち良さそうに思えてなりません。
展示自体の感想は別途また記事にするつもりです。三瀬夏之介展は2月22日まで開催されています。
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「コロー展レクチャー(高橋明也氏)」 国立西洋美術館
国立西洋美術館
「コロー展レクチャー」
7/16 18:00~
講師 高橋明也(展覧会監修者、三菱一号館美術館長、国立西洋美術館客員研究員)
先日、監修の高橋氏より、開催中のコロー展に関する約40、50分ほどのレクチャーを拝聴する機会を得ました。開始時間に少し遅刻してしまったので完全にとはいきませんが、その様子を以下にまとめておきたいと思います。
[19世紀を生きたコロー(1796-1875)]
画業の開始は意外と遅い。
父母は高級服飾店を経営するブルジョワ階級。
パリに在住する都会派的人間(←何かと同列に語られるミレーとは対比的。)
・「パリ、サン=ミッシェル古橋」(1823)
明るい光と造形的なフォルム。
コローはイタリアへ三度渡ったが、彼の地で風景描写のABCを学んだ。

・「パレットを持つ自画像」(1840)
・「ローマ郊外の水道橋」(1826-28)
単純化された色面。シャープで現代的な描写。
↓
一般的な「霧と靄のコロー」とは対極のイメージ。明朗でかつ堅牢な画風。
[コローの問題]
写実的で造形的な「モダンのコロー」と、いわゆる日本での知名度の高い「霧と靄の幻想のコロー」。
↓
実際、コロー自身は写実的な作品をスケッチと捉えて市場へ出さなかったが、死後、それらが市中へ出回ることによりコローの評価が一気に高まった。
=ゴーギャンやピカソらが「霧と靄」ではなく「モダン」のコローを高く評価。(一方、日本では専ら「霧と靄」のみがコローのイメージとして語られている。)
[ヴィル=ダヴレー変奏曲]
第一回イタリア旅行の後、コローはパリ郊外、ヴィル・ダヴレーの別荘に滞在する。

・「ヴィル=ダヴレーのあずまや」(1847)
コローの愛したヴィル=ダブレー。コロー自身だけではなく、母や姉なども作中に描かれている。=母のために描いた、コローの家族愛を見る作品。

・「ヴィル=ダヴレーのカバスュ邸」(1835-1840)
コローの風景描写でも特に評価の高い一枚。光と影が美しく交錯する。
・「大農園」(1960-1865)
晩年の「想い出」シリーズの作品。
ヴィル=ダヴレーの記憶を元に、他の土地(フランスやイタリアなど。)の描写も混じりって、独特な架空のコロー式理想風景を作り上げる=「霧と靄のコロー」
↓
あずまやで母や姉らと楽しんだかの地のイメージが、コローの中の重要な思い出となり、それが晩年へ向けて拡大、また再生されながら繰り返されていった。=『ヴィル=ダヴレー変奏曲』
[コローの二面性]
一瞬の時間を切り取ったコロー:ふと見やる人物の表情、何気ない風景の一コマ。
一枚の絵に様々な時間軸の混ざるコロー:ヴィル・ダヴレー変奏曲シリーズなど。
↓
この二面が画業の全編を通してほぼ平行的に示されている。
・「風景、朝のボーヴェ近郊」(1860-70)
ドイツロマン派を思わせるタッチ。フリードリヒのよう。
・「海辺の村、あるいは村の入口」(1950~70)
村は実在するが、本来ならそこから海は見えない。無いはずの海と実際の村との組み合わせ。=コロー独自の風景創作。実景とイメージが多様に交錯していく。

・「ドゥエの鐘楼」(1871)
戦争中のパリを描きながらも、その影響を微塵も感じさせない明朗な作品。
晩年の作だが、「想い出」でも「霧」でもない、堅牢で写実的な「モダン」なコローが示されている。
・「モルトフォンテーヌの想い出」(1864)
想い出シリーズの最高傑作。センチメンタルな幻想の風景。
・「ヴィル=ダヴレーの想い出、森にて」(1872)
バランス良く配された前景、中景、後景と、「想い出」の演出的効果にも長けた一枚。木々の描写はもはや抽象をも思わせている。
[コローの人物画]
モダンなコロー同様、当時のマーケットには出なかったコローの人物画。
ごく親しい友人らがモデル。
女性像=コローのコスプレ
・「本を読むシャルトル会修道士」(1850-60)
一見、宗教画のようでもあるが、おそらくコローはこの作品に宗教的な意味を込めていない。
丁寧に表された白の効果。画題よりも画肌や構図など、絵自体へのコローの探求の痕跡を確認することが出来る。=近代絵画的指向

・「エデ」(1870-71)
文学的主題による作品。但しここでも「修道士」同様、そう文学主題への関心があったようには思えない。

・「真珠の女」(1858-1868)
「コローのモナリザ」と言われるだけあってクラシカルな構図。
左の袖の下の色面はロスコのマチエールを思わせるほど斬新。
単なる肖像画ではなく、実在のモデルのポートレート=実存的な絵画。

・「青い服の婦人」(1874)
モデル自身が少し疲れたような様子を、画中へ瞬間的に閉じ込めた傑作。モデルの肘の下のクッションや本。青の表現への関心の高さ。
以上です。
簡潔ながらも、高橋氏のこの展覧会へかける意気込みが伝わるような充実したレクチャーでした。ともかく氏の一番のメッセージは、日本ではとかく評判の高い「霧と靄」のコローだけでなく、人物画群を含めた上記の「モダン」なコローを是非とも見て欲しいということです。ヨーロッパでは既に評価も確立したそれが、何故か日本ではあまり知られるところにありませんが、実際、展示の最初のセクションを見るだけでもコローの高い写実性、もしくは現代性などを十分に伺うことが出来ます。また展示は時系列に沿っているわけではありません。ようは「ドゥエの鐘楼」の例を挙げるまでもなく、コローは必ずしも画業の最終段階として「霧と靄」に到達したというわけではないのです。それはあくまでも他と平行した彼の一スタイルである、と言うことも出来るでしょう。
貴重なお話を聞くことで、実際の展示でもこれまで見えて来なかった面が開ける部分もありました。展覧会の感想もまた別エントリにて触れたいです。
「コロー展レクチャー」
7/16 18:00~
講師 高橋明也(展覧会監修者、三菱一号館美術館長、国立西洋美術館客員研究員)
先日、監修の高橋氏より、開催中のコロー展に関する約40、50分ほどのレクチャーを拝聴する機会を得ました。開始時間に少し遅刻してしまったので完全にとはいきませんが、その様子を以下にまとめておきたいと思います。
[19世紀を生きたコロー(1796-1875)]
画業の開始は意外と遅い。
父母は高級服飾店を経営するブルジョワ階級。
パリに在住する都会派的人間(←何かと同列に語られるミレーとは対比的。)
・「パリ、サン=ミッシェル古橋」(1823)
明るい光と造形的なフォルム。
コローはイタリアへ三度渡ったが、彼の地で風景描写のABCを学んだ。

・「パレットを持つ自画像」(1840)
・「ローマ郊外の水道橋」(1826-28)
単純化された色面。シャープで現代的な描写。
↓
一般的な「霧と靄のコロー」とは対極のイメージ。明朗でかつ堅牢な画風。
[コローの問題]
写実的で造形的な「モダンのコロー」と、いわゆる日本での知名度の高い「霧と靄の幻想のコロー」。
↓
実際、コロー自身は写実的な作品をスケッチと捉えて市場へ出さなかったが、死後、それらが市中へ出回ることによりコローの評価が一気に高まった。
=ゴーギャンやピカソらが「霧と靄」ではなく「モダン」のコローを高く評価。(一方、日本では専ら「霧と靄」のみがコローのイメージとして語られている。)
[ヴィル=ダヴレー変奏曲]
第一回イタリア旅行の後、コローはパリ郊外、ヴィル・ダヴレーの別荘に滞在する。

・「ヴィル=ダヴレーのあずまや」(1847)
コローの愛したヴィル=ダブレー。コロー自身だけではなく、母や姉なども作中に描かれている。=母のために描いた、コローの家族愛を見る作品。

・「ヴィル=ダヴレーのカバスュ邸」(1835-1840)
コローの風景描写でも特に評価の高い一枚。光と影が美しく交錯する。
・「大農園」(1960-1865)
晩年の「想い出」シリーズの作品。
ヴィル=ダヴレーの記憶を元に、他の土地(フランスやイタリアなど。)の描写も混じりって、独特な架空のコロー式理想風景を作り上げる=「霧と靄のコロー」
↓
あずまやで母や姉らと楽しんだかの地のイメージが、コローの中の重要な思い出となり、それが晩年へ向けて拡大、また再生されながら繰り返されていった。=『ヴィル=ダヴレー変奏曲』
[コローの二面性]
一瞬の時間を切り取ったコロー:ふと見やる人物の表情、何気ない風景の一コマ。
一枚の絵に様々な時間軸の混ざるコロー:ヴィル・ダヴレー変奏曲シリーズなど。
↓
この二面が画業の全編を通してほぼ平行的に示されている。
・「風景、朝のボーヴェ近郊」(1860-70)
ドイツロマン派を思わせるタッチ。フリードリヒのよう。
・「海辺の村、あるいは村の入口」(1950~70)
村は実在するが、本来ならそこから海は見えない。無いはずの海と実際の村との組み合わせ。=コロー独自の風景創作。実景とイメージが多様に交錯していく。

・「ドゥエの鐘楼」(1871)
戦争中のパリを描きながらも、その影響を微塵も感じさせない明朗な作品。
晩年の作だが、「想い出」でも「霧」でもない、堅牢で写実的な「モダン」なコローが示されている。
・「モルトフォンテーヌの想い出」(1864)
想い出シリーズの最高傑作。センチメンタルな幻想の風景。
・「ヴィル=ダヴレーの想い出、森にて」(1872)
バランス良く配された前景、中景、後景と、「想い出」の演出的効果にも長けた一枚。木々の描写はもはや抽象をも思わせている。
[コローの人物画]
モダンなコロー同様、当時のマーケットには出なかったコローの人物画。
ごく親しい友人らがモデル。
女性像=コローのコスプレ
・「本を読むシャルトル会修道士」(1850-60)
一見、宗教画のようでもあるが、おそらくコローはこの作品に宗教的な意味を込めていない。
丁寧に表された白の効果。画題よりも画肌や構図など、絵自体へのコローの探求の痕跡を確認することが出来る。=近代絵画的指向

・「エデ」(1870-71)
文学的主題による作品。但しここでも「修道士」同様、そう文学主題への関心があったようには思えない。

・「真珠の女」(1858-1868)
「コローのモナリザ」と言われるだけあってクラシカルな構図。
左の袖の下の色面はロスコのマチエールを思わせるほど斬新。
単なる肖像画ではなく、実在のモデルのポートレート=実存的な絵画。

・「青い服の婦人」(1874)
モデル自身が少し疲れたような様子を、画中へ瞬間的に閉じ込めた傑作。モデルの肘の下のクッションや本。青の表現への関心の高さ。
以上です。
簡潔ながらも、高橋氏のこの展覧会へかける意気込みが伝わるような充実したレクチャーでした。ともかく氏の一番のメッセージは、日本ではとかく評判の高い「霧と靄」のコローだけでなく、人物画群を含めた上記の「モダン」なコローを是非とも見て欲しいということです。ヨーロッパでは既に評価も確立したそれが、何故か日本ではあまり知られるところにありませんが、実際、展示の最初のセクションを見るだけでもコローの高い写実性、もしくは現代性などを十分に伺うことが出来ます。また展示は時系列に沿っているわけではありません。ようは「ドゥエの鐘楼」の例を挙げるまでもなく、コローは必ずしも画業の最終段階として「霧と靄」に到達したというわけではないのです。それはあくまでも他と平行した彼の一スタイルである、と言うことも出来るでしょう。
貴重なお話を聞くことで、実際の展示でもこれまで見えて来なかった面が開ける部分もありました。展覧会の感想もまた別エントリにて触れたいです。
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「美術館は『通路』である」 東京都現代美術館・川俣正 通路トーク(Cafe Talk65)
東京都現代美術館・川俣正「通路」/通路トーク(Cafe Talk65)
「美術館は『通路』である」
2/23 15:30~
川俣正×住友文彦(東京都現代美術館学芸員)
MOTの「通路」展の関連イベント、作家川俣正のトークセッションに参加してきました。タイトルは「美術館は『通路』である」、ようは美術館学芸員住友文彦氏との対談です。カフェトークということで、川俣本人もビールを片手に、かなりラフな感覚で思いを語っていたように見えました。以下、私のメモです。録音したわけではないので不完全ですが、発言を順に挙げていきます。
ー ー ー
住友文彦(以下、S) 今回の展示を企画した理由について。まず、MOTのコレクションより日本人作家の展示をしようと考えたが、巨大なこのMOTという箱をいつもと異なったように使ってみたいと思った。また、美術館のあり方を再考する観点から、普段、美術館であまり仕事をしていない人物をピックアップして考えた。それが川俣である。
近年、美術館は、元々「美術」でないとされているジャンルを取り入れている。(例、ジブリ、フェラーリ)その反面、企画会社が強く美術館の仕事に関与してきた。その場で働いている人間としては一種のジレンマを感じている。
川俣正(以下、K) 民間、外部の美術館への関与は、学芸員へのある種の攻撃ではないか。
S これまでの美術館のあり方ではダメだという認識は持っている。変化が要請されているのも分かっている。しかしそれで、美術館が単なるサービス業になって良いのかという疑問もある。ただの場所貸しではデパートの催事場と変わらない。もちろん美味しいレストラン、そして子どもが気軽に来られるような工夫は重要だろう。
K 学芸員には、「美術は社会の中で特別である。そして、一部な人の特殊技術を紹介する場が美術館だ。」という認識があるのではないか。それは良くない点だ。専門性を要求されるのはやむを得ないにしろ、それと一般性とにどう折り合いを付けるかが問われている。
S 学芸員の仕事は極めて多岐に及んでいる。様々な点において外部の風を入れるのは重要。そしてその専門性は学芸員の視点ではなく、美術館の外にあるかもしれない。
K 美術館では6年ぶりの個展。日本でも3回やっている。先日、「これからは美術館に戻るのか。」と聞かれたが、そういうつもりは全くない。むしろ美術館だからどうだというような、その場所に対してのこだわりはない。
S 自分の仕事以外で美術館に行くことがあるか。
K 殆ど行かない。関心のある作家が10人いたとしたら、そのうちせいぜい1つの展示を見る程度だろう。それに、同時進行のプロジェクトをかかえる自分の仕事上、美術館で他の展示を見たりするなどの余裕がない。本音を言ってしまえば、美術館が好きでないということかもしれないが。MOTでは確か94年の展示に参加している。それ以降、ここへ来たのは、NHKの取材で付き合った榎倉の個展のみ。
S MOTの印象はどうか。
K スペースがともかく巨大。上下、遠近については比較的自由に使えるが、石造りの外観は堅牢で、いかにも権威主義的。横浜のトリエンナーレで使った倉庫とは正反対だ。人がどう動いていくのかというイメージがなかなか描けない。だからこそ今回の展示は、ヒューマンスケールでどういう動きが出来るのかを考えた。
S ヒューマンスケールは、今回の一つのキーワードかもしれない。入場者同士の出会いの場、そして例えばラボのように、相互の活動が交流し合うような場面を見ることが出来る。
K アクティビティを美術館へ持ちこむ。多くのボランティアと準備したり、活動をラボで行ったり、ワークショップで現在進行形のアイデアを膨らませたりと、常に変化があるような場にした。アクティビティをそれぞれの時間で区切って、その「今」を提示し、さらに次に連続して繋げる。この展覧会ではそういった日常性を大切にしたい。
S よく入場者に「このラボは展示の後どうなるのか。」ということを聞かれる。それはいわゆる美術館で見る「作品」の行き先、または「完成」に対する一般的な考え方だ。今回はそうではなく、言わば「通り過ぎる途中」をそのまま見せているのではないか。これまでの川俣の仕事をこの美術館を使ってやっていること。始まりも終わりもなく、ただずっと続くとしか言えない。「完成」を求める入場者に対し、分からないことをそのまま提示しておく。
K 決して無責任というわけではないが、これらのプロジェクトは完成することがない。活動は永続的なもの。例えばある入院患者が治療を終え、一度退院した後、再度症状が出てまた入院することがある。治癒を、結果、または完成の意味と捉えれば、それを求めるのは極めて難しいのではないだろうか。完成という何かを残すのは、おそらく人がある特定の時間(人生)だけしか生きることが許されないため、その後にも自らの何かを残したいという憧れだろう。それに対して、別になくなっても良いではないか、また全てが整理されて完成されなくても良いではないかという気持ちを持っている。もちろん見に来る人々は納得しないかもしれない。この展覧会でも「いつが見頃か。」と聞かれることがあるが、その答えはない。
S そのようなある種の「永続」を見るため、今回の展示ではパスポートチケットも用意している。
K いかにその時間、場所と付き合っていくかという観点が重要。例えば外科的な手術で治療を施すのではなく、その病気とどう付き合って生きていくのかという感覚に近いかもしれない。「脱力系のアート」と言われても良い。盛り上がらないものの良さを見出したい。
S 今回の通路は300人のボランティアの手によって作られた。その光景を見ていると、彼らが「見る」よりも「作る」方が楽しいことを知ったような気がする。この展示では、作品と鑑賞者が対立する関係には決してならない。その場へ関与することが重要だ。そのために参加型のワークショップがある。
K 美術館で土嚢を積んで、ベニヤ板をたてると言うような、本来の場所のあり方から逸脱した行為にも面白さがあるのではないか。口コミレベルにまで降りて、美術館にある権威をとった上で、何かを共同で行う。
S 美術館の権威と作家のそれがあまりにも近過ぎるという指摘もある。
K 若い作家はむしろ美術館の権威を必要とするのが普通だろう。
S 美術館で開催するということと、外で開催することに違いはあるか。
K その違いはあっても気にしない。どちらが良いというわけではない。美術館であろうと、その外であろうと、関わり方は千差万別。
S 活動において、作品の自主性や、また社会との関わり方を川俣本人ではなく、ラボのメンバーが自由にすることもある。
K それを美術館の中でやるのが面白い。但し、美術館の中でやるということは、その活動が一種の見世物にもなるということだ。そしてその見せることに対して、今回どう応じるかを考えたつもりだ。
S 大学などで活動するのとはやはり違うのか。
K 全く異なる。大学での活動をそのまま美術館へ移したわけではない。先に「脱力系のアート」と言ったが、見世物としてどう盛り上げるのかも考えた。無気力と脱力は違う。また美術館の中で提示すると「作品的」に見えるのも事実だろう。その要素を取っ払った上にて、こういう展覧会も出来るのだということを見せたかった。
S ラボで見られる各プロジェクトのテーマの重いものが多いが。
K そのテーマの中で「嘘」をつくこともしたかった。言葉は悪いが、そうすることで真っ正直に取り組んだ場合と違う面が開けてくる。嘘とは一種のスルーとも言えるかもしれない。その重さをスルーしてかわすことで、別の展開を模索する。
S 例えば炭坑プロジェクトではどうなのか。
K シンボルとなるタワーをあえて建てない。ただ、周囲にはもう建てない方が良いと言われたのも事実だ。
S 鉄塔を建てることで街を再生させるイメージはどうなるのか。
K シンボルを否定して、淡々と進む日常を受け入れてしまうこと。ただ歩く、ただ進む、それが「通路」だ。どうやっていけばその「通路」と向かい合えるのかをその場で考えていく。
S 今回の展示では実際に「通路」が出来るプロセスを見たが、作る際にはどのようなことを考えているのか。
K 実は最初はかなり不安。何年か前にこの展示の話があったが、何をどうするかということについて色々悩んだ。またアイデアを発酵させる時間が重要だ。そしてもちろんこの「通路」も発酵させたい。先にコンセプトありきで細部をつめるやり方ではなく、むしろ細部を連ねて最後にある程度の体系的なものが見通せる方が良い。「通路」はその細部同士を繋ぐものに過ぎない。マラソンのようにスタートとゴールが結びついていた一本の道ではない。
ー ー ー
「川俣正/通路/美術出版社」
以上です。また最後に、質疑応答での氏の発言もいくつか記録しておきます。
Q 現代美術は自己満足なのか。
K 自己満足で当然。そして、その自己満足にお金を出す人々がいるこの社会がとても面白いと思う。
Q ベニヤを使った理由は。
K 誰でも扱える素材だから。美術に必要とされる特殊な技術は一切いらない。
Q 展示ファイルをめくったら監視員に注意された。
K 監視員が目をそらした隙にめくってください。
Q 通路に順路がある。
K 美術館側としては、中で迷ってしまう人がいるのが問題なのだろう。
このトークショーを含めた「通路」展の私の感想は、また別エントリに書きたいと思います。
「美術館は『通路』である」
2/23 15:30~
川俣正×住友文彦(東京都現代美術館学芸員)
MOTの「通路」展の関連イベント、作家川俣正のトークセッションに参加してきました。タイトルは「美術館は『通路』である」、ようは美術館学芸員住友文彦氏との対談です。カフェトークということで、川俣本人もビールを片手に、かなりラフな感覚で思いを語っていたように見えました。以下、私のメモです。録音したわけではないので不完全ですが、発言を順に挙げていきます。
ー ー ー
住友文彦(以下、S) 今回の展示を企画した理由について。まず、MOTのコレクションより日本人作家の展示をしようと考えたが、巨大なこのMOTという箱をいつもと異なったように使ってみたいと思った。また、美術館のあり方を再考する観点から、普段、美術館であまり仕事をしていない人物をピックアップして考えた。それが川俣である。
近年、美術館は、元々「美術」でないとされているジャンルを取り入れている。(例、ジブリ、フェラーリ)その反面、企画会社が強く美術館の仕事に関与してきた。その場で働いている人間としては一種のジレンマを感じている。
川俣正(以下、K) 民間、外部の美術館への関与は、学芸員へのある種の攻撃ではないか。
S これまでの美術館のあり方ではダメだという認識は持っている。変化が要請されているのも分かっている。しかしそれで、美術館が単なるサービス業になって良いのかという疑問もある。ただの場所貸しではデパートの催事場と変わらない。もちろん美味しいレストラン、そして子どもが気軽に来られるような工夫は重要だろう。
K 学芸員には、「美術は社会の中で特別である。そして、一部な人の特殊技術を紹介する場が美術館だ。」という認識があるのではないか。それは良くない点だ。専門性を要求されるのはやむを得ないにしろ、それと一般性とにどう折り合いを付けるかが問われている。
S 学芸員の仕事は極めて多岐に及んでいる。様々な点において外部の風を入れるのは重要。そしてその専門性は学芸員の視点ではなく、美術館の外にあるかもしれない。
K 美術館では6年ぶりの個展。日本でも3回やっている。先日、「これからは美術館に戻るのか。」と聞かれたが、そういうつもりは全くない。むしろ美術館だからどうだというような、その場所に対してのこだわりはない。
S 自分の仕事以外で美術館に行くことがあるか。
K 殆ど行かない。関心のある作家が10人いたとしたら、そのうちせいぜい1つの展示を見る程度だろう。それに、同時進行のプロジェクトをかかえる自分の仕事上、美術館で他の展示を見たりするなどの余裕がない。本音を言ってしまえば、美術館が好きでないということかもしれないが。MOTでは確か94年の展示に参加している。それ以降、ここへ来たのは、NHKの取材で付き合った榎倉の個展のみ。
S MOTの印象はどうか。
K スペースがともかく巨大。上下、遠近については比較的自由に使えるが、石造りの外観は堅牢で、いかにも権威主義的。横浜のトリエンナーレで使った倉庫とは正反対だ。人がどう動いていくのかというイメージがなかなか描けない。だからこそ今回の展示は、ヒューマンスケールでどういう動きが出来るのかを考えた。
S ヒューマンスケールは、今回の一つのキーワードかもしれない。入場者同士の出会いの場、そして例えばラボのように、相互の活動が交流し合うような場面を見ることが出来る。
K アクティビティを美術館へ持ちこむ。多くのボランティアと準備したり、活動をラボで行ったり、ワークショップで現在進行形のアイデアを膨らませたりと、常に変化があるような場にした。アクティビティをそれぞれの時間で区切って、その「今」を提示し、さらに次に連続して繋げる。この展覧会ではそういった日常性を大切にしたい。
S よく入場者に「このラボは展示の後どうなるのか。」ということを聞かれる。それはいわゆる美術館で見る「作品」の行き先、または「完成」に対する一般的な考え方だ。今回はそうではなく、言わば「通り過ぎる途中」をそのまま見せているのではないか。これまでの川俣の仕事をこの美術館を使ってやっていること。始まりも終わりもなく、ただずっと続くとしか言えない。「完成」を求める入場者に対し、分からないことをそのまま提示しておく。
K 決して無責任というわけではないが、これらのプロジェクトは完成することがない。活動は永続的なもの。例えばある入院患者が治療を終え、一度退院した後、再度症状が出てまた入院することがある。治癒を、結果、または完成の意味と捉えれば、それを求めるのは極めて難しいのではないだろうか。完成という何かを残すのは、おそらく人がある特定の時間(人生)だけしか生きることが許されないため、その後にも自らの何かを残したいという憧れだろう。それに対して、別になくなっても良いではないか、また全てが整理されて完成されなくても良いではないかという気持ちを持っている。もちろん見に来る人々は納得しないかもしれない。この展覧会でも「いつが見頃か。」と聞かれることがあるが、その答えはない。
S そのようなある種の「永続」を見るため、今回の展示ではパスポートチケットも用意している。
K いかにその時間、場所と付き合っていくかという観点が重要。例えば外科的な手術で治療を施すのではなく、その病気とどう付き合って生きていくのかという感覚に近いかもしれない。「脱力系のアート」と言われても良い。盛り上がらないものの良さを見出したい。
S 今回の通路は300人のボランティアの手によって作られた。その光景を見ていると、彼らが「見る」よりも「作る」方が楽しいことを知ったような気がする。この展示では、作品と鑑賞者が対立する関係には決してならない。その場へ関与することが重要だ。そのために参加型のワークショップがある。
K 美術館で土嚢を積んで、ベニヤ板をたてると言うような、本来の場所のあり方から逸脱した行為にも面白さがあるのではないか。口コミレベルにまで降りて、美術館にある権威をとった上で、何かを共同で行う。
S 美術館の権威と作家のそれがあまりにも近過ぎるという指摘もある。
K 若い作家はむしろ美術館の権威を必要とするのが普通だろう。
S 美術館で開催するということと、外で開催することに違いはあるか。
K その違いはあっても気にしない。どちらが良いというわけではない。美術館であろうと、その外であろうと、関わり方は千差万別。
S 活動において、作品の自主性や、また社会との関わり方を川俣本人ではなく、ラボのメンバーが自由にすることもある。
K それを美術館の中でやるのが面白い。但し、美術館の中でやるということは、その活動が一種の見世物にもなるということだ。そしてその見せることに対して、今回どう応じるかを考えたつもりだ。
S 大学などで活動するのとはやはり違うのか。
K 全く異なる。大学での活動をそのまま美術館へ移したわけではない。先に「脱力系のアート」と言ったが、見世物としてどう盛り上げるのかも考えた。無気力と脱力は違う。また美術館の中で提示すると「作品的」に見えるのも事実だろう。その要素を取っ払った上にて、こういう展覧会も出来るのだということを見せたかった。
S ラボで見られる各プロジェクトのテーマの重いものが多いが。
K そのテーマの中で「嘘」をつくこともしたかった。言葉は悪いが、そうすることで真っ正直に取り組んだ場合と違う面が開けてくる。嘘とは一種のスルーとも言えるかもしれない。その重さをスルーしてかわすことで、別の展開を模索する。
S 例えば炭坑プロジェクトではどうなのか。
K シンボルとなるタワーをあえて建てない。ただ、周囲にはもう建てない方が良いと言われたのも事実だ。
S 鉄塔を建てることで街を再生させるイメージはどうなるのか。
K シンボルを否定して、淡々と進む日常を受け入れてしまうこと。ただ歩く、ただ進む、それが「通路」だ。どうやっていけばその「通路」と向かい合えるのかをその場で考えていく。
S 今回の展示では実際に「通路」が出来るプロセスを見たが、作る際にはどのようなことを考えているのか。
K 実は最初はかなり不安。何年か前にこの展示の話があったが、何をどうするかということについて色々悩んだ。またアイデアを発酵させる時間が重要だ。そしてもちろんこの「通路」も発酵させたい。先にコンセプトありきで細部をつめるやり方ではなく、むしろ細部を連ねて最後にある程度の体系的なものが見通せる方が良い。「通路」はその細部同士を繋ぐものに過ぎない。マラソンのようにスタートとゴールが結びついていた一本の道ではない。
ー ー ー

以上です。また最後に、質疑応答での氏の発言もいくつか記録しておきます。
Q 現代美術は自己満足なのか。
K 自己満足で当然。そして、その自己満足にお金を出す人々がいるこの社会がとても面白いと思う。
Q ベニヤを使った理由は。
K 誰でも扱える素材だから。美術に必要とされる特殊な技術は一切いらない。
Q 展示ファイルをめくったら監視員に注意された。
K 監視員が目をそらした隙にめくってください。
Q 通路に順路がある。
K 美術館側としては、中で迷ってしまう人がいるのが問題なのだろう。
このトークショーを含めた「通路」展の私の感想は、また別エントリに書きたいと思います。
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「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」 千葉市美術館・市民美術講座(Vol.2)
千葉市美術館(コレクション理解のための市民美術講座)
「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」
9/29 14:00~
講師 松尾和子(美術館学芸員)
すっかり続きをまとめるのを忘れていました。昨年9月、千葉市美術館にて開催された美術講座、「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」の講演メモです。Vol.1より続く本エントリは、講座のメイン、つまりは抱一によって行われた「光琳百年忌」について触れたいと思います。講演の流れとしては、はじめに当時の展覧会のあり方を整理した上で、次に百年忌の話に進むというものでした。
江戸時代の展覧会
1、出開帳、見世物:一般向けの展示。現在の展覧会の形態に近い。秘仏公開など。
2、書画会、展観会:サロン的な展示。公開される対象が限定。広い座敷のある、寺社や料理屋などで開催された。
a)古書画を集めて展示する。
b)当代の書画家の新作の発表展示。
例)「陽春桜展観」(1793、高松)中国の書画を展示。
「新書画展観」(1793、京都)皆川堪園主催。
「感応寺雅集の展観」(1794、江戸・感応寺)谷文晁主催。
「秋芳園新書画展観」(1804、江戸・百花園)抱一も出品。
3、追善の会:法要をかねての展観。故人の作とともに、各人の新作も展示する。
例)「池大雅二十五周忌追善会」(1800)
「蘆雪の会」(1810):蘆雪作品を含めた160点が集まった。弟子の寄せ書き入りの「蘆雪像」の展示もあり。
「尾形光琳居士一百週諱展観会」(光琳百年忌。文化12年、1815年。)
1、準備史
a)抱一による光琳作の研究(文化4年頃)
光琳遺族への聞き取り、または谷文晁らとの調査旅行。
b)作品の真贋の鑑定(文化8年頃)
落款の調査。住吉家に作品を持ち込み、その真贋を鑑定させた。
(住吉家古画留帳:光琳作22点を抱一が持ち込んで来たとの記述あり。風神雷神図、宗達の関屋図屏風など。またその中には偽物とされる作品もあった。)
c)「緒方流略印譜」(文化10年)
研究活動の公表。2年後の展観会には出版も行う。
2、文化12年、百回忌に向けて。

a)「観世音像」
百回忌に合わせて制作。光琳の菩提寺に寄進
(=寺の文書には、抱一がこの作とともに金200疋、印譜を寄付して来たとの記述がある。)
故人を偲ぶ意味での立ち葵と百合。彩色を抑えた、穏やかな画風が見られる。
瓶の部分に賛=自らを末弟と記した。
b)「瓶花図」
立ち葵のモチーフ。自ら筆をとり、百回忌の参加者に配った。100枚ほど制作か。
c)「君山君積宛書状」(文化12年5月10日)
君山氏に百回忌の世話人になることを要請。
d)「大田南畝宛書状」
展観の招待状も発送。大田南畝宛。
3、百回忌と「光琳百図」
文化12年6月2日一日限り。
光琳画全42点を展観。(目標の100点には届かず。)
展示作品の多くは当日中に所有者へ返還された。

a)「光琳百図」
追善の一環として企画された光琳の画集。実際に出たのは展観後。
展観出品作が多く掲載されているが、「燕子花」など不出品作も載っている。
「必庵宛書状」:百図図版の制作を急がせる内容の書状。弟子其一に宛てたものか。
光琳の作品名、形状、所有者などのリストを提示。光琳画の画集。
住吉家に偽物と判定された作品も載っている。抱一自身の判定か。
原本は焼けている。そのため一部、判別不能な箇所もあり。
当初に上下巻が出版され、さらに増補版も出た。
b)失われた百回忌出品作と抱一
元の光琳画が既に失われているが、出品作を見て、その後抱一が描いた作品。
「三十六歌仙図屏風」、「青楓朱楓図屏風」(其一風)

以上です。この後は、光琳百図が、後世の琳派史にどう影響を与えたのかなどを簡単に説明して幕となりました。
ところで講演の松尾氏によれば、まだ時期は確定出来ないものの、近いうちに、ここ千葉市美において「酒井抱一展」を開催するという話があるそうです。これは、抱一と縁も深い姫路の市立美術館と連動企画(巡回展)になるとのことでしたが、ここ最近、関東で単独の抱一展は殆ど開催されていません。実現すれば、琳派ファンにとっても待望の展示となりそうです。
なお繰り返しになりますが、本エントリは昨年10月の「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」(Vol.1)の続きにあたります。そちらと合わせてご参照いただければ幸いです。
*関連エントリ
「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」 千葉市美術館・市民美術講座(Vol.1)
「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」
9/29 14:00~
講師 松尾和子(美術館学芸員)
すっかり続きをまとめるのを忘れていました。昨年9月、千葉市美術館にて開催された美術講座、「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」の講演メモです。Vol.1より続く本エントリは、講座のメイン、つまりは抱一によって行われた「光琳百年忌」について触れたいと思います。講演の流れとしては、はじめに当時の展覧会のあり方を整理した上で、次に百年忌の話に進むというものでした。
江戸時代の展覧会
1、出開帳、見世物:一般向けの展示。現在の展覧会の形態に近い。秘仏公開など。
2、書画会、展観会:サロン的な展示。公開される対象が限定。広い座敷のある、寺社や料理屋などで開催された。
a)古書画を集めて展示する。
b)当代の書画家の新作の発表展示。
例)「陽春桜展観」(1793、高松)中国の書画を展示。
「新書画展観」(1793、京都)皆川堪園主催。
「感応寺雅集の展観」(1794、江戸・感応寺)谷文晁主催。
「秋芳園新書画展観」(1804、江戸・百花園)抱一も出品。
3、追善の会:法要をかねての展観。故人の作とともに、各人の新作も展示する。
例)「池大雅二十五周忌追善会」(1800)
「蘆雪の会」(1810):蘆雪作品を含めた160点が集まった。弟子の寄せ書き入りの「蘆雪像」の展示もあり。
「尾形光琳居士一百週諱展観会」(光琳百年忌。文化12年、1815年。)
1、準備史
a)抱一による光琳作の研究(文化4年頃)
光琳遺族への聞き取り、または谷文晁らとの調査旅行。
b)作品の真贋の鑑定(文化8年頃)
落款の調査。住吉家に作品を持ち込み、その真贋を鑑定させた。
(住吉家古画留帳:光琳作22点を抱一が持ち込んで来たとの記述あり。風神雷神図、宗達の関屋図屏風など。またその中には偽物とされる作品もあった。)
c)「緒方流略印譜」(文化10年)
研究活動の公表。2年後の展観会には出版も行う。
2、文化12年、百回忌に向けて。

a)「観世音像」
百回忌に合わせて制作。光琳の菩提寺に寄進
(=寺の文書には、抱一がこの作とともに金200疋、印譜を寄付して来たとの記述がある。)
故人を偲ぶ意味での立ち葵と百合。彩色を抑えた、穏やかな画風が見られる。
瓶の部分に賛=自らを末弟と記した。
b)「瓶花図」
立ち葵のモチーフ。自ら筆をとり、百回忌の参加者に配った。100枚ほど制作か。
c)「君山君積宛書状」(文化12年5月10日)
君山氏に百回忌の世話人になることを要請。
d)「大田南畝宛書状」
展観の招待状も発送。大田南畝宛。
3、百回忌と「光琳百図」
文化12年6月2日一日限り。
光琳画全42点を展観。(目標の100点には届かず。)
展示作品の多くは当日中に所有者へ返還された。

a)「光琳百図」
追善の一環として企画された光琳の画集。実際に出たのは展観後。
展観出品作が多く掲載されているが、「燕子花」など不出品作も載っている。
「必庵宛書状」:百図図版の制作を急がせる内容の書状。弟子其一に宛てたものか。
光琳の作品名、形状、所有者などのリストを提示。光琳画の画集。
住吉家に偽物と判定された作品も載っている。抱一自身の判定か。
原本は焼けている。そのため一部、判別不能な箇所もあり。
当初に上下巻が出版され、さらに増補版も出た。
b)失われた百回忌出品作と抱一
元の光琳画が既に失われているが、出品作を見て、その後抱一が描いた作品。
「三十六歌仙図屏風」、「青楓朱楓図屏風」(其一風)

以上です。この後は、光琳百図が、後世の琳派史にどう影響を与えたのかなどを簡単に説明して幕となりました。
ところで講演の松尾氏によれば、まだ時期は確定出来ないものの、近いうちに、ここ千葉市美において「酒井抱一展」を開催するという話があるそうです。これは、抱一と縁も深い姫路の市立美術館と連動企画(巡回展)になるとのことでしたが、ここ最近、関東で単独の抱一展は殆ど開催されていません。実現すれば、琳派ファンにとっても待望の展示となりそうです。
なお繰り返しになりますが、本エントリは昨年10月の「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」(Vol.1)の続きにあたります。そちらと合わせてご参照いただければ幸いです。
*関連エントリ
「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」 千葉市美術館・市民美術講座(Vol.1)
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「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」 千葉市美術館・市民美術講座(Vol.1)
千葉市美術館(コレクション理解のための市民美術講座)
「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」
9/29 14:00~
講師 松尾和子(美術館学芸員)
参加してから約一ヶ月も経ってしまいましたが、内容を以下に記録しておきたいと思います。千葉市美術館の市民美術講座、「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」です。講演では、まず抱一の作品をスライドで紹介し、その上でタイトルにもある、彼が200年前に行った「光琳百年忌」の話へと移っていきました。Vol.1では前半部、つまりは抱一の系譜、及び作品紹介の部分をまとめてみます。
酒井抱一の系譜
1761年 姫路藩主酒井雅楽頭忠恭の三男忠仰の次男として、江戸神田小川町の酒井家別邸にて生まれる。本名、忠因(ただなお)。
1772年(12歳) 兄忠以が家督を継ぐ。
1782年(21歳) 兄に同行して初めて上洛する。また9月、初のお国入り。
1790年(30歳) 忠以急逝。甥の忠道が家督を継ぐ。
1797年(37歳) 出家。法名、「等覚院文詮暉真」。
1809年(49歳) 下谷根岸大塚村に転居。「鶯邨」号を用いる。
1815年(55歳) 光琳百年忌。法会、遺作展を開催。
1817年(57歳) 庵居に「雨華庵」と命名。この頃より次々と主要作が生まれていく。
1819年(59歳) 妙顕寺の光琳墓の修復に着手。
1828年(68歳) 雨華庵にて没。築地本願寺に埋葬される。
代表作一覧

・「松風村雨図」(1785)
最初期の浮世絵。渋めの色遣い。(=「紅嫌い」と呼ばれ、この時期に流行した。)
酒井家に伝わる作品。兄忠以の着物と同じ衣の巻物が用いられている。
・「美人蛍狩図」(1788)
涼を求めて佇む女性。豊春風。完成された画風である。

・「立葵・紫陽花に百合図押絵貼屏風」(1801)
初めての光琳風の作品。立葵に見るたらし込みの多用は乾山風でもある。
これより「抱一」の号を使うようになった。

・「絵手鑑」(文化、文政期。1804~1829)
全72図の画帖。(一種のアルバム。)表紙、箱の内書きも本人の直筆。
谷文晁風の山水画、南宋画の花鳥画などの影響が顕著。
若冲の拓版画「玄圃瑶華」に倣う。(全11図)
→拓版画のモノクロを彩色のカラーに置き換えている。また若冲画に見る一種の『穴』を塞ぐなど、抱一らしいアレンジも見られる。(図版左抱一、右若冲。)
・「四季花鳥図屏風」(1816)
鮮やかな金屏風に、四季の花や鳥を明晰なタッチで描いている。たらし込みは少ない。

・「四季花鳥図巻」(1818)
全2巻。四季花鳥図屏風で見せたメリハリのある描写はなく、柔らかく、また流線型を多用した優美な感覚にて四季の花鳥を描いている。非光琳的。
・「三十六歌仙図色紙貼付屏風」(文化、文政期。1804~1829)
酒井家に伝わった名品。
描かれた絵の上に色紙を貼ったのではなく、あくまでもはめ込まれた形にて配されている。(=色紙の下は余白。)
高価な金と純度の高い顔料が用いられている。
→酒井家関連の慶事に使われたのではないか。

・「老子図」(1820)千葉市美術館蔵
千葉市美術館のコレクションでも人気の作品。(ボランティアの人気投票で上位を得たこともあり。)
老子引用の画賛が書かれている。
「鶴の足が長いからといって切ろうとするのはまずい。」
→自然のものにはあるがままの姿があるのだから何事も本来のままが良い。
*「抱一」(=自然のままであるもの。)号も老子からとられたのではないかと言われている。

・「夏秋草図屏風」(1821~1822)
抱一の代表作。
光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描かれている。注文主はその所有者の一橋家。
→夏草=雷神、秋草=風神
近年下絵(出光美術館蔵)も発見され、作品研究が大いに進展した。
長らく原形をとどめていたが、解体修理された昭和49年に風神雷神図と切り離された。
秋草の「すだれ効果」=葉の裏に隠れる花々。すかして百合を見る趣向。
・「蔓梅擬目白蒔絵軸盆」(1821)
抱一の意匠、原羊遊斎の蒔絵。
梅の木に目白が二羽の構図。余白を用いて蔓を大胆に配している。光琳的なデザインではない。
神田の材木商のために制作された。
・「十二ヶ月花鳥図」(1823)
掛軸装で4種確認されているが、中でも三の丸尚蔵館所蔵の作品が高名。
季節感を平易な描写で親しみ易く示す。=「抱一様式」
・「羅生門之図」千葉市美術館蔵
千葉市美術館に近年寄託された作品。
即興的なタッチで羅生門を描く。(=注文主の前で描いた可能性もあり。)
八百善(江戸一の料理屋。抱一と関係が深く、八百善の紹介された冊子「江戸流行料理通」の表紙には彼の絵が掲載されている。)に代々伝わっていた。
前半部は以上です。本題の前振りということなのか、突っ込んだ話は殆どありませんでした。メインの「200年前の展覧会=光琳百年忌」については、次回Vol.2のエントリでまとめます。
*関連エントリ
「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」 千葉市美術館・市民美術講座(Vol.2)
「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」
9/29 14:00~
講師 松尾和子(美術館学芸員)
参加してから約一ヶ月も経ってしまいましたが、内容を以下に記録しておきたいと思います。千葉市美術館の市民美術講座、「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」です。講演では、まず抱一の作品をスライドで紹介し、その上でタイトルにもある、彼が200年前に行った「光琳百年忌」の話へと移っていきました。Vol.1では前半部、つまりは抱一の系譜、及び作品紹介の部分をまとめてみます。
酒井抱一の系譜
1761年 姫路藩主酒井雅楽頭忠恭の三男忠仰の次男として、江戸神田小川町の酒井家別邸にて生まれる。本名、忠因(ただなお)。
1772年(12歳) 兄忠以が家督を継ぐ。
1782年(21歳) 兄に同行して初めて上洛する。また9月、初のお国入り。
1790年(30歳) 忠以急逝。甥の忠道が家督を継ぐ。
1797年(37歳) 出家。法名、「等覚院文詮暉真」。
1809年(49歳) 下谷根岸大塚村に転居。「鶯邨」号を用いる。
1815年(55歳) 光琳百年忌。法会、遺作展を開催。
1817年(57歳) 庵居に「雨華庵」と命名。この頃より次々と主要作が生まれていく。
1819年(59歳) 妙顕寺の光琳墓の修復に着手。
1828年(68歳) 雨華庵にて没。築地本願寺に埋葬される。
代表作一覧

・「松風村雨図」(1785)
最初期の浮世絵。渋めの色遣い。(=「紅嫌い」と呼ばれ、この時期に流行した。)
酒井家に伝わる作品。兄忠以の着物と同じ衣の巻物が用いられている。
・「美人蛍狩図」(1788)
涼を求めて佇む女性。豊春風。完成された画風である。

・「立葵・紫陽花に百合図押絵貼屏風」(1801)
初めての光琳風の作品。立葵に見るたらし込みの多用は乾山風でもある。
これより「抱一」の号を使うようになった。


・「絵手鑑」(文化、文政期。1804~1829)
全72図の画帖。(一種のアルバム。)表紙、箱の内書きも本人の直筆。
谷文晁風の山水画、南宋画の花鳥画などの影響が顕著。
若冲の拓版画「玄圃瑶華」に倣う。(全11図)
→拓版画のモノクロを彩色のカラーに置き換えている。また若冲画に見る一種の『穴』を塞ぐなど、抱一らしいアレンジも見られる。(図版左抱一、右若冲。)
・「四季花鳥図屏風」(1816)
鮮やかな金屏風に、四季の花や鳥を明晰なタッチで描いている。たらし込みは少ない。

・「四季花鳥図巻」(1818)
全2巻。四季花鳥図屏風で見せたメリハリのある描写はなく、柔らかく、また流線型を多用した優美な感覚にて四季の花鳥を描いている。非光琳的。
・「三十六歌仙図色紙貼付屏風」(文化、文政期。1804~1829)
酒井家に伝わった名品。
描かれた絵の上に色紙を貼ったのではなく、あくまでもはめ込まれた形にて配されている。(=色紙の下は余白。)
高価な金と純度の高い顔料が用いられている。
→酒井家関連の慶事に使われたのではないか。

・「老子図」(1820)千葉市美術館蔵
千葉市美術館のコレクションでも人気の作品。(ボランティアの人気投票で上位を得たこともあり。)
老子引用の画賛が書かれている。
「鶴の足が長いからといって切ろうとするのはまずい。」
→自然のものにはあるがままの姿があるのだから何事も本来のままが良い。
*「抱一」(=自然のままであるもの。)号も老子からとられたのではないかと言われている。

・「夏秋草図屏風」(1821~1822)
抱一の代表作。
光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描かれている。注文主はその所有者の一橋家。
→夏草=雷神、秋草=風神
近年下絵(出光美術館蔵)も発見され、作品研究が大いに進展した。
長らく原形をとどめていたが、解体修理された昭和49年に風神雷神図と切り離された。
秋草の「すだれ効果」=葉の裏に隠れる花々。すかして百合を見る趣向。
・「蔓梅擬目白蒔絵軸盆」(1821)
抱一の意匠、原羊遊斎の蒔絵。
梅の木に目白が二羽の構図。余白を用いて蔓を大胆に配している。光琳的なデザインではない。
神田の材木商のために制作された。
・「十二ヶ月花鳥図」(1823)
掛軸装で4種確認されているが、中でも三の丸尚蔵館所蔵の作品が高名。
季節感を平易な描写で親しみ易く示す。=「抱一様式」
・「羅生門之図」千葉市美術館蔵
千葉市美術館に近年寄託された作品。
即興的なタッチで羅生門を描く。(=注文主の前で描いた可能性もあり。)
八百善(江戸一の料理屋。抱一と関係が深く、八百善の紹介された冊子「江戸流行料理通」の表紙には彼の絵が掲載されている。)に代々伝わっていた。
前半部は以上です。本題の前振りということなのか、突っ込んだ話は殆どありませんでした。メインの「200年前の展覧会=光琳百年忌」については、次回Vol.2のエントリでまとめます。
*関連エントリ
「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」 千葉市美術館・市民美術講座(Vol.2)
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「山口晃が描く東京風景 本郷東大界隈」刊行記念トークショー 丸善丸の内本店
丸善丸の内本店
「『山口晃が描く東京風景 本郷東大界隈』刊行記念トークショー」
11/4 15:00~
出演 山口晃
ご一緒させていただいた方のブログには、既にこの講演の充実したレポが掲載されていますが、一応私のメモもアップしておきます。三越での大個展の記憶も鮮やかな山口晃氏のトークショーです。内容は主に、先日出版された「山口晃が描く東京風景 本郷東大界隈」(東京大学出版会)のお話でした。作品の一点一点の仕掛けを、親切丁寧に解き明かして下さいます。
「山口晃が描く東京風景―本郷東大界隈/山口晃/東京大学出版会」
「本郷東大界隈」について
・絵葉書になるような作品を依頼された。
・作品の質にはムラがある。
・出版会のオススメコースを描いた。
・東大と東京芸大(山口の出身校)の不思議な繋がり。縁を感じる。(不忍池を谷間に挟んだ、それぞれ二つの台地に建つ。)
「本郷東大界隈」の各作品解説(全24点。)

・赤門
旧加賀藩屋敷御朱殿門。1827年建設。
明治時代のモダンな雰囲気を出してみた。(石造りの土台。)
赤提灯の「帝国大学」(明治中頃までは実際に掲げられていたらしい。)
バンカラ風の東大生を歩かせる。
・百萬石(理学部2号館向い)
創業明治32年の老舗料亭。一度入ってみたい場所。
籠に乗る武士とネクタイ姿の男性の組み合わせ。
・旧発電所
明治43年建設。現存する大学内最古の建造物。
現在は塀に囲まれていて立ち入りすることが出来ない。→写真を見て描いた。
廃墟風にアレンジしている。(←打ち捨てられたものの悲しみを表現。)
かつては付属病院の発電所だった。

・教授の部屋(法文2号館)
1827年完成。
ローマ史専門の木庭教授の研究室。中世の僧院をイメージ。
上からの鳥瞰図。
一度見た記憶を元に描写。
→実際とは異なるイメージがたくさん出て来る。(流しや木彫、それにブラインドなど。)
・上部建増し(工学部2号館)
1924年の建造物。建て増ししたのは2005年。
旧建築を保存する形でありながらも、どこか不格好。(→帝冠様式にアレンジ。)
・三四郎池
ごくふつうのありふれた光景。つまらない場所になってしまった。
猫を描き入れるなどして、情緒的な味わいを表現する。
・七徳堂
1938年建造。
帝冠様式の立派な建物。コンクリートと瓦のミスマッチが面白い。
中は畳敷きの武道場。
・地下街(法文2号館)
実際にある2号館地下の様子。食堂などが軒を連ねている。
地上の重厚な趣きとは違った面白い場所。
地下街の下に空想の地下鉄を通してみた。(実際にもメトロという喫茶店が存在する。)
・アルムな場所(医学部3号館うらて)
医学実験のための山羊の小屋。2、30年前から建っている。バラック風。
・仮説の庇(医学部3号館)
シンプルな庇を大仏様のようにアレンジ。美を感じる。

・ビヤホール計画(理学部2号館北)
殺風景な2号館を賑わうビヤホールに。
ガラスをはめ込んだテラス。開放的。

・東大タワー
帝冠様式の上に伸びるタワー。赤と白の着色。
奥深い山に建つ鉄塔をイメージ。
・ラテンな清掃員
日本人でありながら、いかにもラテン風(ちりちり頭や金時計など。)な清掃員。(←目撃情報を元にした空想の人物。)
楽しそうに掃除をしている姿と、一仕事を終えた後の姿のギャップ。
・秘密のはなぞの(付属病院第一研究棟)
医学部付属病院の前の光景。
守衛(?)が養生している奇妙な植物を描く。驚くべきアイディアのガーデニング。
ペットボトルに始まり、電話機やボーリングのトロフィーなどの廃品を使う。
・謎の建物(大講堂南側)
給水ポンプの残骸(?)。中央のスイッチにより作動したのか?
赤錆びてもう使われていない。
・外階段(付属病院第一研究棟)
実際の階段をエッシャー風にアレンジ。
・S坂
根津神社から東大へ向う坂。鴎外がS坂と名付けた。(正式には権現坂。)
実景を元にしたはずだが、道路の舗装などは異なっている。
清水堂を再現。
・環境安全研究センター
実景をまったくそのまま描いた。
・ロータリー(第二食堂前)
バスに瓦をのせる。レトロ風。

・東京大学出版会
一番初めに描いた作品。会心作。
・グレーゾーン(旧診療棟)
建物の迫力をそのまま表現。神社建築を思わせる建物。
・レッテルの店(いけのはた)
両山堂光景。実際の建物に負けてしまっている。

・本郷館
下宿屋。三階建てを四階建てに。実物よりも温かい雰囲気が出ている。
・安田講堂
東大のシンボル。屋根に幟や大砲など。要塞をイメージ。
正面に小競り合いの光景を描くつもりだったが、その歴史に鑑みて描くのを止めた。
質疑応答
・実際に外でデッサンをするのか
頭の中のイメージを大切にするため、極力外では描かない。写真を参考程度に。
・原画の大きさ
絵葉書よりも一回り大きなサイズ。
以上です。
実際の講演では、ここに記載した内容よりも、山口氏の軽妙洒脱なアドリブの方が印象に残りました。(むしろそのアドリブがメインになっていたとさえ思います。)会場は何度も笑いの渦に包まれました。こんな温かい雰囲気の講演も珍しいくらいです。
山口氏は現在、名古屋(中京大学アートギャラリー)でも個展を開催中ですが、12月からは中目黒のミヅマアートギャラリーでも同様の展覧会が予定されています。(12/7-2007/1/20)こちらも是非拝見したいです。
・講演会関連リンク
山口晃と歩く本郷東大界隈(Art & Bell by Tora/美術散歩)
『山口晃が描く東京風景 本郷東大界隈』刊行記念講演(弐代目・青い日記帳)
山口晃講演会 (徒然と 美術と本と映画好き...)
(掲載の作品画像は、著書のパンフレットから転載させていただきました。)
「『山口晃が描く東京風景 本郷東大界隈』刊行記念トークショー」
11/4 15:00~
出演 山口晃
ご一緒させていただいた方のブログには、既にこの講演の充実したレポが掲載されていますが、一応私のメモもアップしておきます。三越での大個展の記憶も鮮やかな山口晃氏のトークショーです。内容は主に、先日出版された「山口晃が描く東京風景 本郷東大界隈」(東京大学出版会)のお話でした。作品の一点一点の仕掛けを、親切丁寧に解き明かして下さいます。

「本郷東大界隈」について
・絵葉書になるような作品を依頼された。
・作品の質にはムラがある。
・出版会のオススメコースを描いた。
・東大と東京芸大(山口の出身校)の不思議な繋がり。縁を感じる。(不忍池を谷間に挟んだ、それぞれ二つの台地に建つ。)
「本郷東大界隈」の各作品解説(全24点。)

・赤門
旧加賀藩屋敷御朱殿門。1827年建設。
明治時代のモダンな雰囲気を出してみた。(石造りの土台。)
赤提灯の「帝国大学」(明治中頃までは実際に掲げられていたらしい。)
バンカラ風の東大生を歩かせる。
・百萬石(理学部2号館向い)
創業明治32年の老舗料亭。一度入ってみたい場所。
籠に乗る武士とネクタイ姿の男性の組み合わせ。
・旧発電所
明治43年建設。現存する大学内最古の建造物。
現在は塀に囲まれていて立ち入りすることが出来ない。→写真を見て描いた。
廃墟風にアレンジしている。(←打ち捨てられたものの悲しみを表現。)
かつては付属病院の発電所だった。

・教授の部屋(法文2号館)
1827年完成。
ローマ史専門の木庭教授の研究室。中世の僧院をイメージ。
上からの鳥瞰図。
一度見た記憶を元に描写。
→実際とは異なるイメージがたくさん出て来る。(流しや木彫、それにブラインドなど。)
・上部建増し(工学部2号館)
1924年の建造物。建て増ししたのは2005年。
旧建築を保存する形でありながらも、どこか不格好。(→帝冠様式にアレンジ。)
・三四郎池
ごくふつうのありふれた光景。つまらない場所になってしまった。
猫を描き入れるなどして、情緒的な味わいを表現する。
・七徳堂
1938年建造。
帝冠様式の立派な建物。コンクリートと瓦のミスマッチが面白い。
中は畳敷きの武道場。
・地下街(法文2号館)
実際にある2号館地下の様子。食堂などが軒を連ねている。
地上の重厚な趣きとは違った面白い場所。
地下街の下に空想の地下鉄を通してみた。(実際にもメトロという喫茶店が存在する。)
・アルムな場所(医学部3号館うらて)
医学実験のための山羊の小屋。2、30年前から建っている。バラック風。
・仮説の庇(医学部3号館)
シンプルな庇を大仏様のようにアレンジ。美を感じる。

・ビヤホール計画(理学部2号館北)
殺風景な2号館を賑わうビヤホールに。
ガラスをはめ込んだテラス。開放的。

・東大タワー
帝冠様式の上に伸びるタワー。赤と白の着色。
奥深い山に建つ鉄塔をイメージ。
・ラテンな清掃員
日本人でありながら、いかにもラテン風(ちりちり頭や金時計など。)な清掃員。(←目撃情報を元にした空想の人物。)
楽しそうに掃除をしている姿と、一仕事を終えた後の姿のギャップ。
・秘密のはなぞの(付属病院第一研究棟)
医学部付属病院の前の光景。
守衛(?)が養生している奇妙な植物を描く。驚くべきアイディアのガーデニング。
ペットボトルに始まり、電話機やボーリングのトロフィーなどの廃品を使う。
・謎の建物(大講堂南側)
給水ポンプの残骸(?)。中央のスイッチにより作動したのか?
赤錆びてもう使われていない。
・外階段(付属病院第一研究棟)
実際の階段をエッシャー風にアレンジ。
・S坂
根津神社から東大へ向う坂。鴎外がS坂と名付けた。(正式には権現坂。)
実景を元にしたはずだが、道路の舗装などは異なっている。
清水堂を再現。
・環境安全研究センター
実景をまったくそのまま描いた。
・ロータリー(第二食堂前)
バスに瓦をのせる。レトロ風。

・東京大学出版会
一番初めに描いた作品。会心作。
・グレーゾーン(旧診療棟)
建物の迫力をそのまま表現。神社建築を思わせる建物。
・レッテルの店(いけのはた)
両山堂光景。実際の建物に負けてしまっている。

・本郷館
下宿屋。三階建てを四階建てに。実物よりも温かい雰囲気が出ている。
・安田講堂
東大のシンボル。屋根に幟や大砲など。要塞をイメージ。
正面に小競り合いの光景を描くつもりだったが、その歴史に鑑みて描くのを止めた。
質疑応答
・実際に外でデッサンをするのか
頭の中のイメージを大切にするため、極力外では描かない。写真を参考程度に。
・原画の大きさ
絵葉書よりも一回り大きなサイズ。
以上です。
実際の講演では、ここに記載した内容よりも、山口氏の軽妙洒脱なアドリブの方が印象に残りました。(むしろそのアドリブがメインになっていたとさえ思います。)会場は何度も笑いの渦に包まれました。こんな温かい雰囲気の講演も珍しいくらいです。
山口氏は現在、名古屋(中京大学アートギャラリー)でも個展を開催中ですが、12月からは中目黒のミヅマアートギャラリーでも同様の展覧会が予定されています。(12/7-2007/1/20)こちらも是非拝見したいです。
・講演会関連リンク
山口晃と歩く本郷東大界隈(Art & Bell by Tora/美術散歩)
『山口晃が描く東京風景 本郷東大界隈』刊行記念講演(弐代目・青い日記帳)
山口晃講演会 (徒然と 美術と本と映画好き...)
(掲載の作品画像は、著書のパンフレットから転載させていただきました。)
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「新版画と川瀬巴水の魅力」 ニューオータニ美術館 8/5
ニューオータニ美術館
「新版画と川瀬巴水の魅力」
8/5 14:00~
講師 渡辺章一郎(渡辺木版美術画舖株式会社 代表取締役)
少し前のことになりますが、ニューオータニ美術館で開催された「新版画と川瀬巴水の魅力」という講演会を聞いてきました。講師は、巴水の版元である渡辺木版美術画舖の社長、渡辺章一郎氏です。実際に川瀬と交流があった庄三郎氏の孫にあたります。講演は、新版画と創作版画という版画界の2つの潮流、及びにそこにおける巴水の地位、またはその魅力などを語っていく内容でした。いつもの通り、以下、講演全体の流れを追う形でまとめたいと思います。
渡辺版画店と「新作版画」
・新版画と創作版画
新版画:浮世絵の伝統から。絵師、彫師、摺師の共作。新しい創作版画への対抗心も。
創作版画:西洋の影響。全工程を一人で行う。いわゆる芸術性の追求。
・浮世絵の衰退
国内の西洋美術の隆盛とともに、日露戦争以降衰退。(海外では人気を保持。)
写真の勃興。(=写実性では写真にかなわない。)
→浮世絵師の激減
・渡辺庄三郎と渡辺版画店の成功
版画店の創立者、渡辺庄三郎
浮世絵衰退への危機感。
復刻版として海外マーケットを拡大。
=1906年、名作浮世絵の復刻を手がける。(浮世絵風「新作版画」)
→外国人に売れた。(=手頃なサイズ。買いやすい。)
↓
事業成功
「創作版画」の誕生
・創作版画とは
浮世絵の没落とともに、洋画家を中心に隆盛。
自画、自刻、自摺の原則。
・創作版画の発展
山本鼎:創作版画の父。仏留学中に島崎藤村と交流。「漁夫(1904)」は創作版画の元祖。
戸張孤雁:錦絵と近代版画をつなぐ。やや浮世絵的な作風。
恩地孝四郎:抽象画の先駆け。詩や文学を版画で表現。
外国人の浮世絵師と「新版画」の誕生
・カペラリーと渡辺章一郎
カペラリーの水彩画を見た章一郎が彼を版画の世界へと誘う。
→章一郎と意気投合し新版画を制作し始める。(一説)
・バートレット
大英帝国全盛期のイギリス人。莫大な経済力。
→その資本を版画へ投下。
↓
摺師の意欲向上。新版画の隆盛時代へ。
初期の「新版画」
・新版画の制作
橋口五葉
渡辺の新版画熱に打たれて制作を始める。13点。自ら工房を持ち独立。
伊東深水
外国では美人画の浮世絵師として名高い。キャリア初期は新版画制作。100点以上。
巴水との厚い交流。
・役者絵と風景画(川瀬巴水)のモチーフ
役者絵:名取春仙、山本耕花(「大正の写楽」と呼ばれた。)
風景画:川瀬巴水
「塩原おかね路(1918)」:初期作。
「東京十二ヶ月」シリーズ
「三十間堀の暮雪(1920)」:銀座界隈を捉えた2作のうちの1つ。現在の三原橋。
「月島の渡船場(1921)」:3点ある自画像のうちの1つ。
関東大震災(1923)とその時代
・関東大震災の大被害
渡辺版画店焼失。灰燼に帰す。作品も多く失われた。
→経済的苦境へ。=売れ筋の追求。「分かり易いもの、売れるもの。」
・この時代の創作版画
都市文化、近代的生活の主題。
前川千帆「地下鉄(1924)」:地下鉄開通。美男子を雇って女性客を集めたという車掌の姿を捉える。
深沢索一:百景の考案者。「新東京百景 神宮球場早慶戦ノ日(1931)」
小泉葵巳男:9年かけて「明治大東京百図絵版画」を完成。
・新版画の変化
外国では大変に人気。(現在も巴水を初めとする新版画は国外の方が高評価。)
アメリカ、ポーランドでの展覧会。数千枚、数万枚が輸出。大量生産へ。
国内では「所詮、浮世絵の延長。」と見られていた部分もあった。
二次大戦前には輸出激減。資材不足により制作も低調に。
震災以降、二次大戦前の川瀬巴水
・「東京二十景」シリーズ
「芝増上寺(1925)」:三千枚(?)が売れた。海賊版も出回る。

「馬込の月(1930)」:巴水の移り住んだ馬込の地。現在も記念プレートが設置されている。

・「新東京百景」シリーズ
百景と言いながら、僅か6点でやめてしまった。「弁慶橋の春雨(1936)」など。
・「東海道風景選集 日本橋 夜明(1940)」:五本の指に入る名作。高速道路のない日本橋の姿。
渡辺版以外の巴水作品
・酒井川口版
赤と青が強い。派手。アメリカ人好み。
「上野清水堂の雪(1929)」や「雪の宮島(1929)」など。
・東京尚美堂版、土井版
渡辺版と殆ど変わらない。
・芳寿堂版
巴水を4点だけ刷った謎の版元。「雪の夜 浦安(1932)」など。
第二次大戦後の「新版画」と巴水
・新版画の一大ブーム
進駐軍の手頃な土産物。「版画大国日本」として認知。
新版画のさらなる大衆的傾向。まさしく土産物的な作品を売り出す。
・風景版画、巴水
「愛子(あやし)の月(1946)」
宮城県に残る何もない原風景。
→巴水はこうした無名の光景を美しく版画に仕立てるのが巧かった。
名所も構図などを工夫。
「平泉金色堂(1957)」

絶筆。9割がた完成。この年の11月に没する。背を向けてとぼとぼと歩む僧侶。寂し気な作品。
現代の「創作版画」
・芸術性の高まり
抽象的作風と多様な技法。(←その反面での伝統的技法の衰退。技師の減少。)
・斉藤清:現在、最も人気の高い創作版画家。「会津の冬50柳津(1981)」など。
質疑応答
Q 一度にどのくらい刷るのか。
A 大抵は200枚程度。(但し数千枚は刷ることが出来る。)巴水は、当然ながら売れたものとそうでないものに差があった。売れたもので3千枚(?)、少ないもので大戦中の6枚など。
Q 巴水作品を多く所有している美術館は何処か。
A 巴水専門の美術館はない。作品は江戸東京博物館が多く持っている。(作品の約半数?)来年には、常設展示にて出品予定(展示替えにて。)も。
Q 版元の役割とは
A まず作品を刷ること。その他、画商、同業他社への卸販売など。創作版画のような場合は、作家からの委託販売を請け負う。画廊形式。
以上です。講演では、スライドによる100点以上の作品解説も行われました。総じて、近代日本の版画史を理解出来るような、とても分かり易い講演会だったと思います。
*関連エントリ
「川瀬巴水展」 ニューオータニ美術館 8/27:展覧会の感想です。
「新版画と川瀬巴水の魅力」
8/5 14:00~
講師 渡辺章一郎(渡辺木版美術画舖株式会社 代表取締役)
少し前のことになりますが、ニューオータニ美術館で開催された「新版画と川瀬巴水の魅力」という講演会を聞いてきました。講師は、巴水の版元である渡辺木版美術画舖の社長、渡辺章一郎氏です。実際に川瀬と交流があった庄三郎氏の孫にあたります。講演は、新版画と創作版画という版画界の2つの潮流、及びにそこにおける巴水の地位、またはその魅力などを語っていく内容でした。いつもの通り、以下、講演全体の流れを追う形でまとめたいと思います。
渡辺版画店と「新作版画」
・新版画と創作版画
新版画:浮世絵の伝統から。絵師、彫師、摺師の共作。新しい創作版画への対抗心も。
創作版画:西洋の影響。全工程を一人で行う。いわゆる芸術性の追求。
・浮世絵の衰退
国内の西洋美術の隆盛とともに、日露戦争以降衰退。(海外では人気を保持。)
写真の勃興。(=写実性では写真にかなわない。)
→浮世絵師の激減
・渡辺庄三郎と渡辺版画店の成功
版画店の創立者、渡辺庄三郎
浮世絵衰退への危機感。
復刻版として海外マーケットを拡大。
=1906年、名作浮世絵の復刻を手がける。(浮世絵風「新作版画」)
→外国人に売れた。(=手頃なサイズ。買いやすい。)
↓
事業成功
「創作版画」の誕生
・創作版画とは
浮世絵の没落とともに、洋画家を中心に隆盛。
自画、自刻、自摺の原則。
・創作版画の発展
山本鼎:創作版画の父。仏留学中に島崎藤村と交流。「漁夫(1904)」は創作版画の元祖。
戸張孤雁:錦絵と近代版画をつなぐ。やや浮世絵的な作風。
恩地孝四郎:抽象画の先駆け。詩や文学を版画で表現。
外国人の浮世絵師と「新版画」の誕生
・カペラリーと渡辺章一郎
カペラリーの水彩画を見た章一郎が彼を版画の世界へと誘う。
→章一郎と意気投合し新版画を制作し始める。(一説)
・バートレット
大英帝国全盛期のイギリス人。莫大な経済力。
→その資本を版画へ投下。
↓
摺師の意欲向上。新版画の隆盛時代へ。
初期の「新版画」
・新版画の制作
橋口五葉
渡辺の新版画熱に打たれて制作を始める。13点。自ら工房を持ち独立。
伊東深水
外国では美人画の浮世絵師として名高い。キャリア初期は新版画制作。100点以上。
巴水との厚い交流。
・役者絵と風景画(川瀬巴水)のモチーフ
役者絵:名取春仙、山本耕花(「大正の写楽」と呼ばれた。)
風景画:川瀬巴水
「塩原おかね路(1918)」:初期作。
「東京十二ヶ月」シリーズ
「三十間堀の暮雪(1920)」:銀座界隈を捉えた2作のうちの1つ。現在の三原橋。
「月島の渡船場(1921)」:3点ある自画像のうちの1つ。
関東大震災(1923)とその時代
・関東大震災の大被害
渡辺版画店焼失。灰燼に帰す。作品も多く失われた。
→経済的苦境へ。=売れ筋の追求。「分かり易いもの、売れるもの。」
・この時代の創作版画
都市文化、近代的生活の主題。
前川千帆「地下鉄(1924)」:地下鉄開通。美男子を雇って女性客を集めたという車掌の姿を捉える。
深沢索一:百景の考案者。「新東京百景 神宮球場早慶戦ノ日(1931)」
小泉葵巳男:9年かけて「明治大東京百図絵版画」を完成。
・新版画の変化
外国では大変に人気。(現在も巴水を初めとする新版画は国外の方が高評価。)
アメリカ、ポーランドでの展覧会。数千枚、数万枚が輸出。大量生産へ。
国内では「所詮、浮世絵の延長。」と見られていた部分もあった。
二次大戦前には輸出激減。資材不足により制作も低調に。
震災以降、二次大戦前の川瀬巴水
・「東京二十景」シリーズ
「芝増上寺(1925)」:三千枚(?)が売れた。海賊版も出回る。

「馬込の月(1930)」:巴水の移り住んだ馬込の地。現在も記念プレートが設置されている。

・「新東京百景」シリーズ
百景と言いながら、僅か6点でやめてしまった。「弁慶橋の春雨(1936)」など。
・「東海道風景選集 日本橋 夜明(1940)」:五本の指に入る名作。高速道路のない日本橋の姿。
渡辺版以外の巴水作品
・酒井川口版
赤と青が強い。派手。アメリカ人好み。
「上野清水堂の雪(1929)」や「雪の宮島(1929)」など。
・東京尚美堂版、土井版
渡辺版と殆ど変わらない。
・芳寿堂版
巴水を4点だけ刷った謎の版元。「雪の夜 浦安(1932)」など。
第二次大戦後の「新版画」と巴水
・新版画の一大ブーム
進駐軍の手頃な土産物。「版画大国日本」として認知。
新版画のさらなる大衆的傾向。まさしく土産物的な作品を売り出す。
・風景版画、巴水
「愛子(あやし)の月(1946)」
宮城県に残る何もない原風景。
→巴水はこうした無名の光景を美しく版画に仕立てるのが巧かった。
名所も構図などを工夫。
「平泉金色堂(1957)」

絶筆。9割がた完成。この年の11月に没する。背を向けてとぼとぼと歩む僧侶。寂し気な作品。
現代の「創作版画」
・芸術性の高まり
抽象的作風と多様な技法。(←その反面での伝統的技法の衰退。技師の減少。)
・斉藤清:現在、最も人気の高い創作版画家。「会津の冬50柳津(1981)」など。
質疑応答
Q 一度にどのくらい刷るのか。
A 大抵は200枚程度。(但し数千枚は刷ることが出来る。)巴水は、当然ながら売れたものとそうでないものに差があった。売れたもので3千枚(?)、少ないもので大戦中の6枚など。
Q 巴水作品を多く所有している美術館は何処か。
A 巴水専門の美術館はない。作品は江戸東京博物館が多く持っている。(作品の約半数?)来年には、常設展示にて出品予定(展示替えにて。)も。
Q 版元の役割とは
A まず作品を刷ること。その他、画商、同業他社への卸販売など。創作版画のような場合は、作家からの委託販売を請け負う。画廊形式。
以上です。講演では、スライドによる100点以上の作品解説も行われました。総じて、近代日本の版画史を理解出来るような、とても分かり易い講演会だったと思います。
*関連エントリ
「川瀬巴水展」 ニューオータニ美術館 8/27:展覧会の感想です。
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「ロダン、カリエールと同時代の文化・社会」 国立西洋美術館 4/15
国立西洋美術館講堂
「ロダン、カリエールと同時代の文化、社会」
4/15 15:00~
講師 小倉孝誠(慶応義塾大学教授)
しばらく前のことになりますが、「ロダンとカリエール展」の関連企画として開催された記念講演会を聞いてきました。講師は、慶応義塾大学仏文科の小倉孝誠氏。内容はタイトルの通り、ロダンとカリエールの生きていたフランスを、二人の生き様に絡めながら、社会、制度、思想、文学などの観点から幅広く概観するものです。以下、いつもの通り、会場にて配布されたレジュメに則ってまとめていきたいと思います。
ロダンとカリエールの経歴について
・ロダン(1840-1917)
パリ・パンテオン地区にて下級役人の子として生まれる。
14歳から「小校」にてデッサンと彫刻を学ぶ。
国立美術学校を受験→三度失敗。進学を断念。(彫刻の成績が足りなかった。)
1871年 ベルギーへ移住。(7年間)貧しい下積み生活。(=彫刻の基礎を学ぶ)
1880年代から「地獄の門」・「カレーの市民」などの公共記念像の仕事を受注する。
↓
90年代以降、名声が確立。=「近代彫刻の祖」
・カリエール(1849-1906)
パリ生まれ。少年・青年期をストラスブール(ドイツ国境付近)にて過ごす。
リトグラフ作家の元でポスター制作の仕事に携わる。
1869年 国立美術学校へ入学。アカデミー絵画の大家カバネルの元で学ぶ。
1870年 普仏戦争勃発。従軍し敗北。捕虜生活も。
その後パリへ戻り、サロン(官展)へ出品。入選経験有り。
1889年 ロダンらとともに「国民美術協会」を設立。サロンとはやや距離を置く。
1998年「アカデミー・カリエール」(画塾)の創設。
教え子の一人にはマティスの名も。
→ともに19世紀半ばから20世紀初頭のフランス(主に第三共和制期)にて活躍。
19世紀フランスの社会、文化について
・期間 1789年フランス革命~1914年第一次大戦終結
=革命時代、ナポレオン帝政、王政復古、七月王政、第二共和制、第二帝政、第三共和制。
・目まぐるしく政治体制が変化した。(=次第に民主化へ)
・暴動の頻発。不安定な社会。
・産業革命による科学技術の発展=いわゆる近代化。
→ロダン、カリエールの二人に関わりが深いのは、第二帝政と第三共和制期。
(1)政治、経済、社会、制度、教育などについて
・第二帝政期(1852-70):ナポレオン三世の統治。ロダン、カリエールの少年・青年時代。(=普仏戦争で崩壊。)
パリの大改造(セーヌ県知事オスマンによる改革)
鉄道、都市開発、上下水道の整備、公園、緑地の整備など。
中世的都市から近代的な大都市へ。
街の浄化(暴動、犯罪を防ぐ。道路大拡張によるバリケード増築の阻止。)
↓
「光の都」、「文明の都」へ。
ベンヤミン:「パリは19世紀の首都である。」
ゾラはこの時期のパリを題材とした都市小説(居酒屋、ナナ。)を書く。
ボードレールは改造後のパリを否定。
「都市の形は人の心よりも早く変わってしまう。」と嘆く。
・第三共和制期(1870-1940):共和派が権力掌握。ロダン、カリエール、活躍の時代。
共和制の宣言。初めは政権が安定せず、カトリック勢力や王党派の揺り戻しも。
政府は共和制の「良さ」を積極的に宣伝していく。
1879年 ラ・マルセイエーズの制定
1880年7月14日 パリ祭の設定(革命記念日)
自由・平等・博愛の精神(=共和主義)を目に見える形で国民に示す。
↓
初等教育の義務化。公教育制度による共和主義思想の教示。
街のモニュメントとしての共和主義(大彫刻で象徴化する。)
共和国:女性のイメージ
神話的なイメージ。フリギア帽と月桂樹。
=共和国の理想の銅像
↓
街の目立つ場所にいくつも設置されていく。
=公の発注による銅像制作の活発化。彫刻家たちの生活の糧に。(ロダンも)
(2)19世紀の芸術、文学の流れ
・19世紀前半:ロマン主義の時代。
ドラクロワ、ベルリオーズ、ユゴーらが活躍。
・1850-1880:写実主義、自然主義の時代
ミレー、クールベ、フロベール、ゾラ。
クールベ「私は羽の付いた天使を描かない。」=目に見えたものだけを描く。
・1880-1900:象徴主義の時代
まさにロダンとカリエールの時代。
モロー、ルドン、ドビュッシー、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメ。
思索的、観念的な作品を生む。
ロダン、カリエールと同時代の文学・思想
(1)ロダン、カリエールの共通点
・キーワード「精神性」
生前から作品テーマや雰囲気が似ているという指摘がなされて来た。
目に見える世界ではなく、目に見えない世界を捉える=「主観的世界」
→文学における象徴主義との共通性
・「手仕事」の重要性
下積み時代の経験(工房で働くロダン、カリエール)
労働の重要性
・ジャンヌ・ダルクの主題
ジャンヌ・ダルクは中世フランスの救国の英雄
共和制下の当時のフランスにおいて流行した主題
アナトール・フランス、ルドン、ブールデルらもダルクを主題とした作品を制作
↓
1870年 普仏戦争で敗北したフランス
独へ対する復讐心=「愛国心」(=共和制の核心)
その象徴としてのジャンヌ・ダルク(次の戦争に備えてのシンボルに。)
↓
それをロダン、カリエールも取り入れた。
ロダン:恍惚とした表情のジャンヌ・ダルク
カリエール:手を組んだ忘我の境地にいるジャンヌ・ダルク
→ともに神のお告げを聞いた時のダルクの姿を制作したと思われる。

・肖像、および肖像画の制作(同一モデル)
「肖像はモデルの単なる似姿ではなく、魂や内なる生命を表現するものでなければならない。」
1.ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ
二人にとって親しみのある象徴派絵画の巨匠。
後に三名でグループ展を開催した。
2.ギュスターヴ・ジェフロワ、ロジェ・マルクス
ジェフロワはロダン、カリエールをいち早く評価していた。
3.アンリ・ロシュフォール
左翼ジャーナリスト。
4.ジョルジュ・クレマンソー
左派政治家。後に首相を二度務めた大物。特にカリエールと関係が深い。
新聞「夜明け」(左派系新聞。ポスターをカリエールが制作。)
1898年 ドレフュス事件
ユダヤ人フランス将校がドイツへ機密情報を売り渡していたとされる事件。
結果的に冤罪とされたが、フランス国内で有罪か無罪かの議論が巻き起こる。
「無罪=ドレフュス派 対 有罪=反ドレフュス派(=反ユダヤ主義へ)」
↓
ゾラがドレフュスが無罪だとする抗議文を作成。それを掲載した新聞が「夜明け」
カリエールもドレフュス派。(ロダンを比べると政治活動に熱心だった。)
5.ヴェルレーヌ
同時代の作家。
代表的な肖像画をカリエールが制作。またヴェルレーヌもカリエールへ詩を献呈。
6.エドモン・ド・ゴンクール
美術批評家。日本の浮世絵についても造詣が深い。歌麿や北斎に関する著作。
カリエールを絶賛(=知性、内面を表現した画家として。)
ゴンクールの日記にカリエールの記述がいくつか存在。
例)「黄昏時のベラスケスのようだ。」、「心理的傾向の強い画家だ。」
カリエールの手がけたゴンクールの肖像画を大切に所有。
7.ヴィクトル・ユゴー
共和主義を象徴する作家。
第三共和制のシンボル(=帝政批判、亡命。共和制にて帰国。葬儀は国葬。)
→ユゴーを描くことはまさに共和制を描くことでもある。
ロダン、カリエールともに深い敬意を払っていた。
1902年 「生誕100周年」
ロダン:胸像の制作(生前のスケッチを元に)
カリエール:生誕年にちなんだ冊子に挿絵を描く。
(2)ロダンと世紀末の文化
・文学からのインスピレーション
「地獄の門」=ダンテ「神曲」の地獄編からイメージ
ボードレールを通してダンテを発見(ロダンが最も愛した作家がボードレール)
ロダンの作品における大胆な女性の官能性(悪魔主義的傾向)
→ボードレール、世紀末デカダン派作家たちの世界と共通
・ロダンの「バルザック像」
1891年 文芸家協会がロダンへ発注
↓
最初に完成した作品は受け取りを拒否される。
=ドレフュス事件との関係
「受け取り承認:ドレフュス派 対 拒否:反ドレフュス派」
(3)カリエールと女性の表象
・ロダン、カリエールの描く女性像
ロダン:官能的で大胆
カリエール:母子像、穏やか、静か。
↓
カリエールは、母性または家族愛に大きな価値をおいていた。
・世紀末における女性像とカリエール
世紀末の女性像:デカダン、悪女のイメージ(小説でもそのような女性像が頻繁)
例)モローの「サロメ」=男を惑わし、滅ぼす女性。
↓
カリエールの女性像はむしろ例外的。
さいごに
・ロダンもカリエールも、自然や人間に芸術の対象を求めながら、その内なる生、精神性を捉え、想像力によってそれに形を付与することが、芸術家の使命であるという認識を持っていた。
・「本当に大事なものは目に見えない」→それを視覚化
以上です。長くなりました。
元々この講演会の仮題は「ロダン、カリエールと同時代の文学」であったので、てっきりロダンとカリエールが交流した同時代の作家や、ともに影響された文学などについて突っ込んだ話が聞けるかと期待していたのですが、会場に着いてみるとなんとタイトルが「文学」から「文化・社会」へと変わっていました。もちろんその分、当時の社会システムなどに関する興味深い話もあったわけですが、全体としてやや総花的な話になった感は否めません。もう少し文学、特にロダンとボードレールや、ヴェルレーヌとの関係の話が聞ければとも思いました。
とは言え、やはりこの話で興味深かったのは、ボードレールやユゴーらとロダン、カリエールの関係です。特にボードレールの悪魔的な女性イメージとロダンの官能的な女性像に共通性を見出す指摘はなかなか気がつきません。またカリエールの女性像が、当時のそれと異なっていたという視点も面白いと思いました。(母性愛、家族愛の重視。)そして普仏戦争敗北における抑圧された共和意識の高まりが、例えばジャンヌ・ダルクを生んだことなども、二人の作品に社会性を見い出す観点として重要かと思います。当然ながら、たんに偶然、同一のモデルを制作したわけではないのです。
展覧会では、どちらかと言うと二人の実際の交友関係から、作品に共通点なり相違点を見出す方向をとっていますが、この講演会ではむしろ逆に、二人を取り巻くもっと大きな波(それこそまさにこの激動のフランスの時代ですが。)から二人の作品を見て行くアプローチをとっていました。その点で、この講演会は鑑賞会には幾分欠けた視点を補うとも言えるような、鑑賞者側にとっては大変有難い話題だったのかもしれません。貴重な90分でした。
*関連エントリ
「ロダンとカリエール 特別鑑賞会 講演会」 4/4
「ロダンとカリエール」展感想 3/19
「ロダン、カリエールと同時代の文化、社会」
4/15 15:00~
講師 小倉孝誠(慶応義塾大学教授)
しばらく前のことになりますが、「ロダンとカリエール展」の関連企画として開催された記念講演会を聞いてきました。講師は、慶応義塾大学仏文科の小倉孝誠氏。内容はタイトルの通り、ロダンとカリエールの生きていたフランスを、二人の生き様に絡めながら、社会、制度、思想、文学などの観点から幅広く概観するものです。以下、いつもの通り、会場にて配布されたレジュメに則ってまとめていきたいと思います。
ロダンとカリエールの経歴について
・ロダン(1840-1917)
パリ・パンテオン地区にて下級役人の子として生まれる。
14歳から「小校」にてデッサンと彫刻を学ぶ。
国立美術学校を受験→三度失敗。進学を断念。(彫刻の成績が足りなかった。)
1871年 ベルギーへ移住。(7年間)貧しい下積み生活。(=彫刻の基礎を学ぶ)
1880年代から「地獄の門」・「カレーの市民」などの公共記念像の仕事を受注する。
↓
90年代以降、名声が確立。=「近代彫刻の祖」
・カリエール(1849-1906)
パリ生まれ。少年・青年期をストラスブール(ドイツ国境付近)にて過ごす。
リトグラフ作家の元でポスター制作の仕事に携わる。
1869年 国立美術学校へ入学。アカデミー絵画の大家カバネルの元で学ぶ。
1870年 普仏戦争勃発。従軍し敗北。捕虜生活も。
その後パリへ戻り、サロン(官展)へ出品。入選経験有り。
1889年 ロダンらとともに「国民美術協会」を設立。サロンとはやや距離を置く。
1998年「アカデミー・カリエール」(画塾)の創設。
教え子の一人にはマティスの名も。
→ともに19世紀半ばから20世紀初頭のフランス(主に第三共和制期)にて活躍。
19世紀フランスの社会、文化について
・期間 1789年フランス革命~1914年第一次大戦終結
=革命時代、ナポレオン帝政、王政復古、七月王政、第二共和制、第二帝政、第三共和制。
・目まぐるしく政治体制が変化した。(=次第に民主化へ)
・暴動の頻発。不安定な社会。
・産業革命による科学技術の発展=いわゆる近代化。
→ロダン、カリエールの二人に関わりが深いのは、第二帝政と第三共和制期。
(1)政治、経済、社会、制度、教育などについて
・第二帝政期(1852-70):ナポレオン三世の統治。ロダン、カリエールの少年・青年時代。(=普仏戦争で崩壊。)
パリの大改造(セーヌ県知事オスマンによる改革)
鉄道、都市開発、上下水道の整備、公園、緑地の整備など。
中世的都市から近代的な大都市へ。
街の浄化(暴動、犯罪を防ぐ。道路大拡張によるバリケード増築の阻止。)
↓
「光の都」、「文明の都」へ。
ベンヤミン:「パリは19世紀の首都である。」
ゾラはこの時期のパリを題材とした都市小説(居酒屋、ナナ。)を書く。
ボードレールは改造後のパリを否定。
「都市の形は人の心よりも早く変わってしまう。」と嘆く。
・第三共和制期(1870-1940):共和派が権力掌握。ロダン、カリエール、活躍の時代。
共和制の宣言。初めは政権が安定せず、カトリック勢力や王党派の揺り戻しも。
政府は共和制の「良さ」を積極的に宣伝していく。
1879年 ラ・マルセイエーズの制定
1880年7月14日 パリ祭の設定(革命記念日)
自由・平等・博愛の精神(=共和主義)を目に見える形で国民に示す。
↓
初等教育の義務化。公教育制度による共和主義思想の教示。
街のモニュメントとしての共和主義(大彫刻で象徴化する。)
共和国:女性のイメージ
神話的なイメージ。フリギア帽と月桂樹。
=共和国の理想の銅像
↓
街の目立つ場所にいくつも設置されていく。
=公の発注による銅像制作の活発化。彫刻家たちの生活の糧に。(ロダンも)
(2)19世紀の芸術、文学の流れ
・19世紀前半:ロマン主義の時代。
ドラクロワ、ベルリオーズ、ユゴーらが活躍。
・1850-1880:写実主義、自然主義の時代
ミレー、クールベ、フロベール、ゾラ。
クールベ「私は羽の付いた天使を描かない。」=目に見えたものだけを描く。
・1880-1900:象徴主義の時代
まさにロダンとカリエールの時代。
モロー、ルドン、ドビュッシー、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメ。
思索的、観念的な作品を生む。
ロダン、カリエールと同時代の文学・思想
(1)ロダン、カリエールの共通点
・キーワード「精神性」
生前から作品テーマや雰囲気が似ているという指摘がなされて来た。
目に見える世界ではなく、目に見えない世界を捉える=「主観的世界」
→文学における象徴主義との共通性
・「手仕事」の重要性
下積み時代の経験(工房で働くロダン、カリエール)
労働の重要性
・ジャンヌ・ダルクの主題
ジャンヌ・ダルクは中世フランスの救国の英雄
共和制下の当時のフランスにおいて流行した主題
アナトール・フランス、ルドン、ブールデルらもダルクを主題とした作品を制作
↓
1870年 普仏戦争で敗北したフランス
独へ対する復讐心=「愛国心」(=共和制の核心)
その象徴としてのジャンヌ・ダルク(次の戦争に備えてのシンボルに。)
↓
それをロダン、カリエールも取り入れた。
ロダン:恍惚とした表情のジャンヌ・ダルク
カリエール:手を組んだ忘我の境地にいるジャンヌ・ダルク
→ともに神のお告げを聞いた時のダルクの姿を制作したと思われる。


・肖像、および肖像画の制作(同一モデル)
「肖像はモデルの単なる似姿ではなく、魂や内なる生命を表現するものでなければならない。」
1.ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ
二人にとって親しみのある象徴派絵画の巨匠。
後に三名でグループ展を開催した。
2.ギュスターヴ・ジェフロワ、ロジェ・マルクス
ジェフロワはロダン、カリエールをいち早く評価していた。
3.アンリ・ロシュフォール
左翼ジャーナリスト。
4.ジョルジュ・クレマンソー
左派政治家。後に首相を二度務めた大物。特にカリエールと関係が深い。
新聞「夜明け」(左派系新聞。ポスターをカリエールが制作。)
1898年 ドレフュス事件
ユダヤ人フランス将校がドイツへ機密情報を売り渡していたとされる事件。
結果的に冤罪とされたが、フランス国内で有罪か無罪かの議論が巻き起こる。
「無罪=ドレフュス派 対 有罪=反ドレフュス派(=反ユダヤ主義へ)」
↓
ゾラがドレフュスが無罪だとする抗議文を作成。それを掲載した新聞が「夜明け」
カリエールもドレフュス派。(ロダンを比べると政治活動に熱心だった。)
5.ヴェルレーヌ
同時代の作家。
代表的な肖像画をカリエールが制作。またヴェルレーヌもカリエールへ詩を献呈。
6.エドモン・ド・ゴンクール
美術批評家。日本の浮世絵についても造詣が深い。歌麿や北斎に関する著作。
カリエールを絶賛(=知性、内面を表現した画家として。)
ゴンクールの日記にカリエールの記述がいくつか存在。
例)「黄昏時のベラスケスのようだ。」、「心理的傾向の強い画家だ。」
カリエールの手がけたゴンクールの肖像画を大切に所有。
7.ヴィクトル・ユゴー
共和主義を象徴する作家。
第三共和制のシンボル(=帝政批判、亡命。共和制にて帰国。葬儀は国葬。)
→ユゴーを描くことはまさに共和制を描くことでもある。
ロダン、カリエールともに深い敬意を払っていた。
1902年 「生誕100周年」
ロダン:胸像の制作(生前のスケッチを元に)
カリエール:生誕年にちなんだ冊子に挿絵を描く。
(2)ロダンと世紀末の文化
・文学からのインスピレーション
「地獄の門」=ダンテ「神曲」の地獄編からイメージ
ボードレールを通してダンテを発見(ロダンが最も愛した作家がボードレール)
ロダンの作品における大胆な女性の官能性(悪魔主義的傾向)
→ボードレール、世紀末デカダン派作家たちの世界と共通
・ロダンの「バルザック像」
1891年 文芸家協会がロダンへ発注
↓
最初に完成した作品は受け取りを拒否される。
=ドレフュス事件との関係
「受け取り承認:ドレフュス派 対 拒否:反ドレフュス派」
(3)カリエールと女性の表象
・ロダン、カリエールの描く女性像
ロダン:官能的で大胆
カリエール:母子像、穏やか、静か。
↓
カリエールは、母性または家族愛に大きな価値をおいていた。
・世紀末における女性像とカリエール
世紀末の女性像:デカダン、悪女のイメージ(小説でもそのような女性像が頻繁)
例)モローの「サロメ」=男を惑わし、滅ぼす女性。
↓
カリエールの女性像はむしろ例外的。
さいごに
・ロダンもカリエールも、自然や人間に芸術の対象を求めながら、その内なる生、精神性を捉え、想像力によってそれに形を付与することが、芸術家の使命であるという認識を持っていた。
・「本当に大事なものは目に見えない」→それを視覚化
以上です。長くなりました。
元々この講演会の仮題は「ロダン、カリエールと同時代の文学」であったので、てっきりロダンとカリエールが交流した同時代の作家や、ともに影響された文学などについて突っ込んだ話が聞けるかと期待していたのですが、会場に着いてみるとなんとタイトルが「文学」から「文化・社会」へと変わっていました。もちろんその分、当時の社会システムなどに関する興味深い話もあったわけですが、全体としてやや総花的な話になった感は否めません。もう少し文学、特にロダンとボードレールや、ヴェルレーヌとの関係の話が聞ければとも思いました。
とは言え、やはりこの話で興味深かったのは、ボードレールやユゴーらとロダン、カリエールの関係です。特にボードレールの悪魔的な女性イメージとロダンの官能的な女性像に共通性を見出す指摘はなかなか気がつきません。またカリエールの女性像が、当時のそれと異なっていたという視点も面白いと思いました。(母性愛、家族愛の重視。)そして普仏戦争敗北における抑圧された共和意識の高まりが、例えばジャンヌ・ダルクを生んだことなども、二人の作品に社会性を見い出す観点として重要かと思います。当然ながら、たんに偶然、同一のモデルを制作したわけではないのです。
展覧会では、どちらかと言うと二人の実際の交友関係から、作品に共通点なり相違点を見出す方向をとっていますが、この講演会ではむしろ逆に、二人を取り巻くもっと大きな波(それこそまさにこの激動のフランスの時代ですが。)から二人の作品を見て行くアプローチをとっていました。その点で、この講演会は鑑賞会には幾分欠けた視点を補うとも言えるような、鑑賞者側にとっては大変有難い話題だったのかもしれません。貴重な90分でした。
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「ロダンとカリエール 特別鑑賞会 講演会」 4/4
「ロダンとカリエール」展感想 3/19
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「ロダンとカリエール 特別鑑賞会 講演会」 国立西洋美術館 4/4
国立西洋美術館
「ロダンとカリエール 特別鑑賞会 講演会」
4/4 18:00~
先日「弐代目・青い日記帳」のTakさんのご好意によって参加させていただいた、毎日新聞社主催の特別鑑賞会で行われた講演会です。講師は美術館主任研究員の大屋美那氏。約30分ほどの時間で、展覧会の主旨や、二人の芸術家の類似点ついて簡単に触れていく内容でした。
「ロダンとカリエール展 特別鑑賞会 講演会」
国立西洋美術館講堂
講師 大屋美那(美術館主任研究員)
ロダンとカリエール展について
・ロダン(彫刻の巨匠・大家)とカリエール(知名度に欠ける画家)
→ともに外光を発見した印象派のグループに属するが、もっと人の内面的な要素に関心があった。
=象徴主義
↓
二人の親交。そこから二人の芸術性を結びつけていく
カリエールの意外性に注目し、また既存のロダン像(「カレーの市民」や「考える人」のイメージ)に楔を打ち込む。
二人の類似点(形の上だけではない、思想上の)を示していく。
ロダンとカリエールの関係とは -第一章と第二章において-
第一章「ロダン像とカリエール像」
・ロダンとカリエールの人物を紹介する。
カリエールの描いたロダンと、ロダンの制作したカリエールのデスマスクを並べて展示。

・二人の出会いは1880年頃
ロダン=職人
カリエール=ワインラベルなどを手がけるリトグラフの制作者。
→パリ・セーブルの陶磁器製作所にて知り合う。
・家族的な親交
作品を交換し合う。特にロダンは最後までカリエールの作品を手放さなかった。
第二章「ロダンとカリエールの直接の交流」
・アトリエを再現した会場
展示作品はともに二人のアトリエから出て来たもの。
互いにどう影響し合ったのかを考えていく。
・1900年のロダン展
パリ万博に合わせて開催された。
生前では最大の回顧展。(「地獄の門」が公開。)
展覧会のポスターはカリエールが制作。
(ポスターの一部)
・カリエールの母子像とロダンのイース(トルソ)
母性愛(カリエール)と濃密な性愛表現(ロダン)の対比
ロダンには絡み合うような男女愛を象った作品が多い。
一方のカリエールはヌード作品が多いもの、母性愛を表現したものが多い。

・二人に共通のモチーフ
芸術家にインスピレーションを与えるミューズ
芸術家に舞い降りるミューズ
画家とモデル
モデルに触れる画家(モデルの存在を手で確認。彫刻を制作するかのよう。)
内なる生命を見出す=形に魂を与える=象徴主義的

以上です。
この後は三章以降の展示についてもお話になる予定だったのかと思いますが、おそらく時間切れでしょうか、ちょっと中途半端な所でまとまってしまいました。今回の講演の核心は、やはり二人の類似点、特に最後で触れた「芸術家とミューズ」または「画家とモデル」のモチーフの行です。そこからロダンとカリエールの「思想上」の類似点も考えて欲しい。そんな企画者側のメッセージを感じる内容でした。
さて初めにも触れましたが、この日は毎日新聞社の特別鑑賞会ということで、西洋美術館の「ロダンとカリエール展」を、閉館後ののんびりとした雰囲気の中でたっぷりと堪能させていただきました。あともう一度だけ出向く予定なので、この日の講演会を踏まえた上での展覧会の感想を、拙いですがまた後日にアップしたいと思います。
*関連エントリ
「ロダンとカリエール」展感想 3/19
「ロダン、カリエールと同時代の文化、社会」(講演会) 4/15
「ロダンとカリエール 特別鑑賞会 講演会」
4/4 18:00~
先日「弐代目・青い日記帳」のTakさんのご好意によって参加させていただいた、毎日新聞社主催の特別鑑賞会で行われた講演会です。講師は美術館主任研究員の大屋美那氏。約30分ほどの時間で、展覧会の主旨や、二人の芸術家の類似点ついて簡単に触れていく内容でした。
「ロダンとカリエール展 特別鑑賞会 講演会」
国立西洋美術館講堂
講師 大屋美那(美術館主任研究員)
ロダンとカリエール展について
・ロダン(彫刻の巨匠・大家)とカリエール(知名度に欠ける画家)
→ともに外光を発見した印象派のグループに属するが、もっと人の内面的な要素に関心があった。
=象徴主義
↓
二人の親交。そこから二人の芸術性を結びつけていく
カリエールの意外性に注目し、また既存のロダン像(「カレーの市民」や「考える人」のイメージ)に楔を打ち込む。
二人の類似点(形の上だけではない、思想上の)を示していく。
ロダンとカリエールの関係とは -第一章と第二章において-
第一章「ロダン像とカリエール像」
・ロダンとカリエールの人物を紹介する。
カリエールの描いたロダンと、ロダンの制作したカリエールのデスマスクを並べて展示。


・二人の出会いは1880年頃
ロダン=職人
カリエール=ワインラベルなどを手がけるリトグラフの制作者。
→パリ・セーブルの陶磁器製作所にて知り合う。
・家族的な親交
作品を交換し合う。特にロダンは最後までカリエールの作品を手放さなかった。
第二章「ロダンとカリエールの直接の交流」
・アトリエを再現した会場
展示作品はともに二人のアトリエから出て来たもの。
互いにどう影響し合ったのかを考えていく。
・1900年のロダン展
パリ万博に合わせて開催された。
生前では最大の回顧展。(「地獄の門」が公開。)
展覧会のポスターはカリエールが制作。

・カリエールの母子像とロダンのイース(トルソ)
母性愛(カリエール)と濃密な性愛表現(ロダン)の対比
ロダンには絡み合うような男女愛を象った作品が多い。
一方のカリエールはヌード作品が多いもの、母性愛を表現したものが多い。


・二人に共通のモチーフ
芸術家にインスピレーションを与えるミューズ
芸術家に舞い降りるミューズ
画家とモデル
モデルに触れる画家(モデルの存在を手で確認。彫刻を制作するかのよう。)
内なる生命を見出す=形に魂を与える=象徴主義的

以上です。
この後は三章以降の展示についてもお話になる予定だったのかと思いますが、おそらく時間切れでしょうか、ちょっと中途半端な所でまとまってしまいました。今回の講演の核心は、やはり二人の類似点、特に最後で触れた「芸術家とミューズ」または「画家とモデル」のモチーフの行です。そこからロダンとカリエールの「思想上」の類似点も考えて欲しい。そんな企画者側のメッセージを感じる内容でした。
さて初めにも触れましたが、この日は毎日新聞社の特別鑑賞会ということで、西洋美術館の「ロダンとカリエール展」を、閉館後ののんびりとした雰囲気の中でたっぷりと堪能させていただきました。あともう一度だけ出向く予定なので、この日の講演会を踏まえた上での展覧会の感想を、拙いですがまた後日にアップしたいと思います。
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「ロダンとカリエール」展感想 3/19
「ロダン、カリエールと同時代の文化、社会」(講演会) 4/15
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「バーク・コレクションの魅力」 「バーク・コレクション展」記念講演会 2/5

記念講演会 「バーク・コレクションの魅力 -日本に恋したアメリカ女性の宝物- 」
2/5 14:00~
講師 辻惟雄(展覧会監修者)
先日東京都美術館で開催された、バーク・コレクション展の記念講演会です。講師はこの展覧会を監修された辻惟雄氏。最近では「日本美術の歴史」(東京大学出版会)という本もお書きになられた日本美術絵画史の第一人者です。ここに、配布されたレジュメに沿って、講演の内容を記録しておきたいと思います。(予告タイトルは「生き続ける日本美術」でしたが、レジュメには「バーク・コレクションの魅力」とありました。そちらをタイトルにします。)
1.アメリカ人の日本美術蒐集過程
・日本美術とアメリカとの出会い
先行したヨーロッパのジャポニスム(1867年のパリ万博)
↓
ヨーロッパ経由での日本文化との出会い(19世紀アメリカ)
財力にものを言わせて質量ともにヨーロッパを抜き去る。(=先入観なしに自由にコレクション)
フーリア、スポールディング、ルドー、バッキンガムらの富豪
・フェノロサによる日本美術研究と作品蒐集
1878年に来日。「お雇い外国人」として東京美術学校設立に尽力。
アンダーソン(英・医者)の日本美術蒐集に刺激され、日本絵画を集め始める。
富豪ビゲローらと共同で日本美術を研究、蒐集。→作品をボストンやフーリア美術館へ。
・第2次大戦後の日本美術とアメリカ
進駐軍軍属や留学生として、アメリカ人東洋美術研究者が多数来日。
ケイヒル、シャーマン、リー、パカードなど
富豪らの日本美術蒐集も続く。
パワーズ(教科書会社経営)、プライス(若冲の熱狂的ファン)、ドラッカー(経済学者)、そしてバーク。
→世界で最も日本文化への関心が高いアメリカ人
=質量ともに世界最高の日本美術コレクション。
特に浮世絵では本国日本を上回る。(ハッパー:広重に取り憑かれた蒐集家。死後、広重の墓の隣に埋葬。)
2.バーク・コレクションの成り立ちと特色
・バーク一家
南北戦争にて功績を残した名門ルヴィングストン家を母方の先祖に持つ家柄。
いわゆる教養のある上流階級。
伯父:エール大にて日本人留学生二名と親しくなり来日。(関東大震災後)
「白衣観音図」(カタログ番号36)は、伯父帰国後、留学生の娘が手みやげにアメリカヘ持っていた作品。
母親:1902年に日本へ観光旅行。着物などを購入。日本文化に魅せられる。
別荘に日本庭園を建築。中国陶磁など東洋古美術全般をコレクション。
画家オキーフ(1887-1986。風景、花、動物の骨などを描き続けた画家。)と交流。
・メアリー・バーク女史
1954年 建築家ワルター・グロピウスのすすめで日本訪問。
建築家吉村順三の案内で日本庭園を見てまわる。=数寄屋造などを賞賛。
日本の田舎の風景に魅せられる。=「fell in love with Japan」
1955年 ジャクソン・バーク(デザイナー)と結婚。
1956年 最初の日本美術コレクションとして、江戸期の「源氏物語図屏風」を購入。
→本格的な日本美術の勉強を始める。(=大学や研究所にて、研究生として美術史を学ぶ。)
1962年 浮世絵のコレクションを入手。琳派を蒐集。源氏物語(英訳)を読破。
1965年 ニューヨークの高級アパート内に「ミニ・ミュージアム」を作る。(夫ジャクソンのデザインによる。)
1973年 この年までに、仏像、仏画、大和絵、書、水墨画などのコレクションを幅広く蒐集。
67、68年には大量の南画(水墨を基調にした東洋画。江戸期に技法確立。)を購入。
1975年 夫ジャクソン死去。
→その後も蒐集に情熱を燃やす。仏像、茶室ギャラリーの増設など。
・バーク・コレクションの特色
質の高さ。超一流・一流揃いのコレクション。(特に仏像。)
女性らしいきめ細やかな美的感性が作品選択に表れる。(大和絵系など。美しい作品。)
縄文土器から江戸期まで、日本美術を万遍なく概観出来る幅広いコレクション。(蕭白、若冲まで。)
事前申し込み制にて公開。
3.バーク・コレクション展の経緯
1985年 東京国立博物館(他)での「バーク展」 122点
2000年 メトロポリタン美術館「Bridge of Dreams展」 168点
2006年 東京都美術館(他)での「ニューヨーク・バーク・コレクション展」(本展) 116点
東博展にないもの69点、メトロ展にないもの23点が出品。
4.日本人にとってのバーク・コレクションの意義
・日本美術の国際的普遍性のあかし
海外に存在する日本美術を、作品の「流失」(ネガティブ)ではなく、その「普遍性の証明」(ポジディブ)として捉えるべき。
文化交流に果たす日本美術の役割。(=『里帰り展』の企画。)
・日本美術を映す鏡としてのコレクション
まさに「白雪姫の鏡」のように、日本美術を映し出してくれるバーク・コレクション。その貴重さ。
5.スライド作品解説(カッコ内の番号は、カタログ番号)
(1)縄文土器:蛇のような口縁部が印象的。
(2)埴輪:古墳時代のもの。死者の慰めとして埋葬。頬紅の赤み。髪を結ったオシャレな女性。
(3)弥生土器:ボールのような形。弥生土器としては変わっている。赤色は魔除けの意味か。
(4)横瓶:須恵器。素焼きの土瓶。灰が表面に付着する様はうわぐすりのよう。
(6)天部形立像:彫刻としては最も大きなコレクション。木彫。顔は厳粛。貞観から藤原期に入った和風化の様式。
(14、15)不動明王坐像、地蔵菩薩立像:共に快慶作。寄木造り。目には水晶。堂々とした様子。
(17)灰釉菊花文壷:古瀬戸焼。素焼きが主流の中でうわぐすりを使った作品。(中国文化の影響か。)
(21)住吉物語絵巻断簡:文学に関心の強いバークの趣味が垣間みられるコレクション。住吉物語は原典が不明。切り取られたものが多く、詞書が残ったのはこれだけ。貴重な品。
(22)平治物語絵巻断簡:色紙大の小さな品。元は大きな巻物。六波羅合戦において平家が源氏を倒した光景が描かれる。
(23)絵因果経断簡:釈迦の前世を伝えた仏伝。巻物。活劇的。
(24)春日宮曼陀羅:藤原氏の守り神春日大社を鳥瞰的に描いた図。一番下にある鳥居から参道、宮、春日奥山と描かれる。神の使いの鹿の描写。一番上には、神が仏に姿を変えて(本地仏)描かれている。貴族が屋敷に飾って参拝していた。
(28)清滝権現像:神仏混合的な作品。女神の姿。現在残っていないふすま絵を伝える。貴重。
(29)釈迦三尊羅漢像:一番左下に聖徳太子(釈迦の生まれ変わり)、右下には空海(太子の生まれ変わり)が描かれている。謎めいた作品。
(31)源氏物語絵巻:図柄を小さくしたもの。(需要が追いつかず多く生産するため。)黒い線のみで描かれた「白絵」と呼ばれる方法。
(32)秋冬景物図屏風:ヨーロッパから手に入れた大和絵。六曲一双の片側のみ。室町期に流行った「四季絵」。ススキの枯れ草にかかる雪の様子が美しい。
(39)愚庵 葡萄図:輪郭線を使わず、墨の濃淡だけで表現。葡萄、ツタ、蝉が描かれている。
(44)雪村 竹林七賢図:竹林七賢図をパロディー化。七賢人が酒を飲んで遊んでいる。自由奔放な印象。竹もまるで人間のように伸びやかに描かれている。
(51)鼠志野葡萄文瓜形鉢:桃山期の焼物。自由自在のデザイン。引っ掻いた様に描かれた葡萄のつたが印象的。
(53)平鉢 備前:備前焼。焼物の上に他の焼物を重ねて出来た図柄。(作為的に作られた。)それが「わびさび」として評価される。
(56)白濁釉角徳利 小代:桃山期。朝鮮半島から連れて来た陶工による作品。うわぐすりが美しい。
(60)蓮池蒔絵経箱:蓮をデザインしたもの。虫にくわれたり、葉が枯れた様子も描いている。
(66)狩野探幽 笛吹地蔵図:優しく穏やかな画風。ハーグの感性が表れている。水子供養に描かれた作品。
(69)柳橋水車図屏風:桃山期の王道的デザイン。金箔にて橋が覆われている。風流な屏風画。現世から来世への橋渡しの意味。
(71)大麦図屏風:麦畑が雲の形のように切れている。霧が畑にかかっている様子なのか。抽象性も感じさせる。
(76)扇流図屏風:扇流しの構図。小川に流れている扇を絵画化。非常に珍しい構図。描かれているのは全て女性だが、後に一人の男性が金箔に隠されていたことが判明した。
(83)英一蝶 雨宿り風俗図屏風:雨宿りの光景。身分制度のある江戸期において、武家も町人も分け隔てなく雨宿りをしている様子が興味深い。
(92)尾形光琳 布袋図:光琳晩年の様式。洗練されている。
(96)酒井鶯蒲 六玉川絵巻:マイナーな画家だが、見応えのある作品。川の青みが目にしみるように美しい。一体どのような顔料を使ったのか。名前にとらわれず良い物を購入するハーグのセンスが見て取れる。
(100)伊藤若冲 双鶴図:首をグイッと曲げている鶴二羽。クレーンのような足がユーモラス。形の遊び。
以上です。最後は少々時間切れ気味で、やや駆け足での作品解説となりましたが、スライドを使って、一点一点丁寧に見せていただけました。辻氏のお話で特に印象的だったのは、バーク・コレクションのような海外の日本美術のコレクションを、「日本から失われた。」というようにマイナスの方向で捉えず、もっと懐深く、普遍的に愛されている証として考えようというくだりです。私など、どうしても海外に日本美術の至宝があることを苦く思ってしまいますが、確かに「里帰り」したこの美術品を温かく迎える姿勢は重要でしょう。とても示唆に富んだお話でした。
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「もの派とその時代」 「李禹煥 余白の芸術」展レクチャー 横浜美術館 11/13
横浜美術館レクチャーホール(横浜市西区みなとみらい)
アーティストが語る2(対談) 「もの派とその時代」
11/13 15:00~
講師 李禹煥氏 菅木志雄氏
司会 松井みどり氏
少し前に開催されたイベントですが、横浜美術館の「李禹煥」展のレクチャー、「アーティストが語る」の第二弾です。今回のテーマは「もの派とその時代」。李禹煥本人と美術家の菅木志雄、それに美術評論家の松井みどりを交じえての対談です。やや漠然とした内容でありましたが、それぞれがそれぞれにもの派の時代を回顧し、そこからもの派の意義を探っていきます。以下、いつものようにレクチャーの内容を簡単にまとめました。
もの派の起源とは(松井みどり)
・もの派の時代(=1960年代から70年代)
ヒューマニズム(人間中心主義)・近代西洋芸術・オブジェ思想への批判
・1971年 李禹煥著「出会いを求めて」から
・「近代とは、目が認識の奴隷となり、表象作用によって操作された『対象』の輪郭に拘れるようになっている、『作品世界』を指す。
→人間が対象を観念的に征服している。そのアリバイとして芸術がある。
・「今や見る、『と同時に』見られ、見られる『と同時に』観るというあるがままに出会う仕方として、『現実』が鮮やかな『現実』を開く場所であるように、すべてが自ら生きた光景であるように、観ることを持続し普遍化させる出来事をもよおすことが仕事であり営みとなるべきであろう。」
→人間の意思のままにならない世界と出会うこと。
今ここにある現実(=「現実」)から、さらにより感じられる現実へ(=「鮮やかな現実」)
・「そのとき出来事において形作られた構造(関係項)は、立ち会う者をして、いよいよ場所の状態性あらわな、直接なる世界のありように出会わせる『即』の境地を開くのだ。そこで顕在化される関係の相は、だからなにものの像でもない、まさしく世界自身のおおいなる場所の身体であるということができる。」
→「出来事」と「場所」
先入観のない人として入っていった時に、必然的に感じられる構造
↓
作品としてのオブジェを作るのではなく、「出来事」の「場」を生み出すこと。それが「もの派」の衝動である。
もの派の誕生(李禹煥)
・「もの」という言葉の多義性=ややこしい
物体・物質・ことetc→「もの派」と自らが名乗ったことはない。
↓
砂と土を組み合わせて、「作ったように見えた作品のようなもの」
作品の否定、または、ものを「利用」した上での芸術の否定。
↓
そういった運動を指して、いつの間にか定着させられた言葉=それが「もの派」
・60年代の激動の時代
ヒッピー(米)、五月革命(仏)、全共闘(日)
→既存の制度への破壊的懐疑と否定。=自由になりたい。
↓
その流れが「演劇」・「文学」・「美術」などへ伝播=美術としては「もの派」へ。
↓
「もの派」は突然出現した運動ではなく、それまでにあった様々な運動の潮流が、半ば一つの海になる形で集まった。
=自然にグループ化した「もの派」
特定のイデオロギーの元に参集したのではない。
もの派の時代(菅木志雄)
・60年代後半=「解体の時代」
「もの」以前に秩序だった美術世界
枠組み・制度の中での彫刻や絵画
↓
それを否定すること=「もの派」の原動力
・「あるがままのもの」
机を机として見ない時に生まれる「もの」とは何か?
=机の有用性と意味を剥ぎ取った時に生まれるそのもの
例)ロバート・モリス
フェルトをカッターで切り、その不定形の形を作品化させる。
→ただの物質を明示しただけ。=「もの」のみを認識させる。
↓
ものの「価値」や「意味」を解体する=作品の以前に「もの」でしかない存在
(タイトルも仮象でしかなく、本質ではない。)
美術の材料にならないような工業作品などを作品にすること。(=ゴミの作品etc)→美意識すら破壊
→名前も付けられないような非・美術に、価値を与える試みの実践=「解体の時代の美術」
ものの解体的な見方(李禹煥)
・関根伸夫「ほこりを払う」
→ものから名前を外す=「あるがまま」
従来の制度化された作品を、あえてそうでないものに見てみることの意味
↓
それを美術の視点によって考えてみること
例)川端康成のハワイでの体験
「初めてコップに出会った。」=偶然並んでいたコップに、光が差し込んだ様を見て。
→非日常的なものの見方=ものを「鮮やかに」見ることの意味。
「そのもの」と「もの自体」(菅木志雄)
・「もの」を対象化させない(=人間がものを捕まえないこと。)
「もの」としか言い様のない「もの」
↓
その「もの」であって、それ以外のなにものでない「もの」=「もの自体」=「あるがまま」のもの
→美術で「もの自体」を表現してみる試み=「もの派」
存在を明らかにすることの有用性。
→ものの多義性の明らかになる。(もの自体は、一面、一つの認識だけでは成立しない。)
もの派の成り行き(李禹煥)
・視覚トリックから「ものの内側」へ
関根伸夫の「位相-大地」
目のトリックを用いた仕事から、トリックを超えたものの面白さを追求する。
高松次郎=もの派に影響を与えた中心的人物
遠近法を立体化した作品の制作。
↓
トリッキーなものから、ものの素材や物質感へ関心がうつる。
「もの自体」は良く分からないという前提に立ちながら、「もの」を追求。
→もの派も多様に分裂。概念芸術的な方向へ進む者もいた。
・「ものの内側」とは
「ものの内側」(=形の内部の質)を探る作品
例)高松次郎
「杉の単体」(1969-70)-木を削って内側を見る作品。
「コンクリートの単体」(1971)-コンクリートの内側を見せる。
→「ものを生かすことは、ものの内側を見せることなのかもしれない。」という問い。
=作品が外部を持たないこと、または、内側へと閉じることへの批判。
↓
批判と同時に、外部を内側に引き込むことの重要性が認識される。
→内側を外して、外と一体となった「もの」見せること。外部性の重要さ。
・ものの内と外
見えないものを見せる=ものの内を外へと拡大
→内から外へ向かった動きは、さらにその外へと進む。
外は内を包んでいるわけではない。外は内に向かわず、その外へとつながる。
↓
「ものは一つの場である。」=ものの内と外を融合した場
外へ向かうことの追求は、もの派の動向における面白い点の一つ。
↓
オブジェとしての作品、内としての作品を破壊させる。
→オブジェから、出来事、場(=外へと向かった)を与える作品へ。
↓
「もの」でありながら、「もの」を感じる人間の自由な視点も盛り込む。
=人の感性に示唆を与える「場」としての作品。
もの派における「出来事」と「仕草」(李禹煥、菅木志雄)
・ものに「仕草」と「出来事」を与える
仕草:何をしているかわからないような行為
出来事:その仕草によって生まれた場、事。
→造形的な組み立てすら捨てて、名付けようもないレベルにまで、ものを解体する。
・「仕草」について-千利休の事例から
千利休が、ある朝、庭にびっしりと落ちていた葉を掃き、さらに掃いた葉の中から、一、二枚適当に落としてみた。
→この千利休がしたことが、まさに「仕草」である。
=何か自然の現象に、新たなる作為を少しだけ加えること。
↓
この「仕草」をアーティストが実践出来ないか。
様々な自然の素材に、自らの意思を持って手を加えること。=身体性を重視。
例)鉄板と石(関係項)
↓
「仕草」の結果、何か見えてくるものを求める。
=他(自然など)との関わりの中で、一つ生まれてくる行為性。
↓
「仕草」は唯一性を持つ。
=「仕草」によって生じた結果は、決して同じものが生まれない。
→それぞれに絶対的な差異が生じる。
・間石と「仕草」
寺にある「間石」=これ以上入ってはならない意味を持って置かれた石。
↓
もちろん、物理的な障壁としての石ではなく、容易にその境界を超えることが出来る。
→しかしながら、間石を見た者は、自信の意思を抑制して、境界を超えようとしない。
=自らの意思に基づく行動の抑制、その単純化された意味。=「仕草」
以上です。1960年代のもの派の原初と、それ以降の複雑な流れ、さらには「もの派」という名は、あくまでも便宜的に事後的に付けられたことなどが語られ、その後、もの派の重要なキーワードでもある「出来事」と「仕草」へ話がうつりました。時間的な問題もあったのか、少々消化不良気味のレクチャーとなりましたが、もの派の「もの」の意味、仕草という名の「制作」(のようなもの)、「作品」を外に開くための「場」など、様々な視点から、もの派の意義が語られたのではないかと思います。
その後の質疑応答では、主に今回の展覧会について、李禹煥に対しての質問が二つ三つほど出ました。あくまでも身体にこだわり、さらには美術という枠(キャンバスや色など。)に留まった上、新たなる「場」を生み出そうとしたこの展覧会の意図や、会場のカーペットの上では作品の存在感がなくなるため、全ての床をコンクリート剥き出しにさせたこと(カーペットはもう使えないのだそうです…。)などが語られます。また、単純に「もの」と言っても、やはりその「もの」には、自らの意思が入っている、つまり鉄板や石は、どれでも良いわけではないことも述べられました。近代美術としてのオブジェ的な作品、その意味を解体するための「もの」には、やはり何らかの意思がこめられている。もし「もの」と「意思」が矛盾であるとするならば、おそらくそれは、「仕草」という語の意味によって解決されるのかもしれません。
横浜美術館の「余白の芸術 李禹煥展」に関するレクチャーは今回で終了です。これまでのレクチャー関連の記事は以下の通りです。
・アーティトが語る1 「現代美術をどう見るか」 李禹煥
・「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」 柏木智雄(横浜美術館主任学芸員) その1、その2
アーティストが語る2(対談) 「もの派とその時代」
11/13 15:00~
講師 李禹煥氏 菅木志雄氏
司会 松井みどり氏
少し前に開催されたイベントですが、横浜美術館の「李禹煥」展のレクチャー、「アーティストが語る」の第二弾です。今回のテーマは「もの派とその時代」。李禹煥本人と美術家の菅木志雄、それに美術評論家の松井みどりを交じえての対談です。やや漠然とした内容でありましたが、それぞれがそれぞれにもの派の時代を回顧し、そこからもの派の意義を探っていきます。以下、いつものようにレクチャーの内容を簡単にまとめました。
もの派の起源とは(松井みどり)
・もの派の時代(=1960年代から70年代)
ヒューマニズム(人間中心主義)・近代西洋芸術・オブジェ思想への批判
・1971年 李禹煥著「出会いを求めて」から
・「近代とは、目が認識の奴隷となり、表象作用によって操作された『対象』の輪郭に拘れるようになっている、『作品世界』を指す。
→人間が対象を観念的に征服している。そのアリバイとして芸術がある。
・「今や見る、『と同時に』見られ、見られる『と同時に』観るというあるがままに出会う仕方として、『現実』が鮮やかな『現実』を開く場所であるように、すべてが自ら生きた光景であるように、観ることを持続し普遍化させる出来事をもよおすことが仕事であり営みとなるべきであろう。」
→人間の意思のままにならない世界と出会うこと。
今ここにある現実(=「現実」)から、さらにより感じられる現実へ(=「鮮やかな現実」)
・「そのとき出来事において形作られた構造(関係項)は、立ち会う者をして、いよいよ場所の状態性あらわな、直接なる世界のありように出会わせる『即』の境地を開くのだ。そこで顕在化される関係の相は、だからなにものの像でもない、まさしく世界自身のおおいなる場所の身体であるということができる。」
→「出来事」と「場所」
先入観のない人として入っていった時に、必然的に感じられる構造
↓
作品としてのオブジェを作るのではなく、「出来事」の「場」を生み出すこと。それが「もの派」の衝動である。
もの派の誕生(李禹煥)
・「もの」という言葉の多義性=ややこしい
物体・物質・ことetc→「もの派」と自らが名乗ったことはない。
↓
砂と土を組み合わせて、「作ったように見えた作品のようなもの」
作品の否定、または、ものを「利用」した上での芸術の否定。
↓
そういった運動を指して、いつの間にか定着させられた言葉=それが「もの派」
・60年代の激動の時代
ヒッピー(米)、五月革命(仏)、全共闘(日)
→既存の制度への破壊的懐疑と否定。=自由になりたい。
↓
その流れが「演劇」・「文学」・「美術」などへ伝播=美術としては「もの派」へ。
↓
「もの派」は突然出現した運動ではなく、それまでにあった様々な運動の潮流が、半ば一つの海になる形で集まった。
=自然にグループ化した「もの派」
特定のイデオロギーの元に参集したのではない。
もの派の時代(菅木志雄)
・60年代後半=「解体の時代」
「もの」以前に秩序だった美術世界
枠組み・制度の中での彫刻や絵画
↓
それを否定すること=「もの派」の原動力
・「あるがままのもの」
机を机として見ない時に生まれる「もの」とは何か?
=机の有用性と意味を剥ぎ取った時に生まれるそのもの
例)ロバート・モリス
フェルトをカッターで切り、その不定形の形を作品化させる。
→ただの物質を明示しただけ。=「もの」のみを認識させる。
↓
ものの「価値」や「意味」を解体する=作品の以前に「もの」でしかない存在
(タイトルも仮象でしかなく、本質ではない。)
美術の材料にならないような工業作品などを作品にすること。(=ゴミの作品etc)→美意識すら破壊
→名前も付けられないような非・美術に、価値を与える試みの実践=「解体の時代の美術」
ものの解体的な見方(李禹煥)
・関根伸夫「ほこりを払う」
→ものから名前を外す=「あるがまま」
従来の制度化された作品を、あえてそうでないものに見てみることの意味
↓
それを美術の視点によって考えてみること
例)川端康成のハワイでの体験
「初めてコップに出会った。」=偶然並んでいたコップに、光が差し込んだ様を見て。
→非日常的なものの見方=ものを「鮮やかに」見ることの意味。
「そのもの」と「もの自体」(菅木志雄)
・「もの」を対象化させない(=人間がものを捕まえないこと。)
「もの」としか言い様のない「もの」
↓
その「もの」であって、それ以外のなにものでない「もの」=「もの自体」=「あるがまま」のもの
→美術で「もの自体」を表現してみる試み=「もの派」
存在を明らかにすることの有用性。
→ものの多義性の明らかになる。(もの自体は、一面、一つの認識だけでは成立しない。)
もの派の成り行き(李禹煥)
・視覚トリックから「ものの内側」へ
関根伸夫の「位相-大地」
目のトリックを用いた仕事から、トリックを超えたものの面白さを追求する。
高松次郎=もの派に影響を与えた中心的人物
遠近法を立体化した作品の制作。
↓
トリッキーなものから、ものの素材や物質感へ関心がうつる。
「もの自体」は良く分からないという前提に立ちながら、「もの」を追求。
→もの派も多様に分裂。概念芸術的な方向へ進む者もいた。
・「ものの内側」とは
「ものの内側」(=形の内部の質)を探る作品
例)高松次郎
「杉の単体」(1969-70)-木を削って内側を見る作品。
「コンクリートの単体」(1971)-コンクリートの内側を見せる。
→「ものを生かすことは、ものの内側を見せることなのかもしれない。」という問い。
=作品が外部を持たないこと、または、内側へと閉じることへの批判。
↓
批判と同時に、外部を内側に引き込むことの重要性が認識される。
→内側を外して、外と一体となった「もの」見せること。外部性の重要さ。
・ものの内と外
見えないものを見せる=ものの内を外へと拡大
→内から外へ向かった動きは、さらにその外へと進む。
外は内を包んでいるわけではない。外は内に向かわず、その外へとつながる。
↓
「ものは一つの場である。」=ものの内と外を融合した場
外へ向かうことの追求は、もの派の動向における面白い点の一つ。
↓
オブジェとしての作品、内としての作品を破壊させる。
→オブジェから、出来事、場(=外へと向かった)を与える作品へ。
↓
「もの」でありながら、「もの」を感じる人間の自由な視点も盛り込む。
=人の感性に示唆を与える「場」としての作品。
もの派における「出来事」と「仕草」(李禹煥、菅木志雄)
・ものに「仕草」と「出来事」を与える
仕草:何をしているかわからないような行為
出来事:その仕草によって生まれた場、事。
→造形的な組み立てすら捨てて、名付けようもないレベルにまで、ものを解体する。
・「仕草」について-千利休の事例から
千利休が、ある朝、庭にびっしりと落ちていた葉を掃き、さらに掃いた葉の中から、一、二枚適当に落としてみた。
→この千利休がしたことが、まさに「仕草」である。
=何か自然の現象に、新たなる作為を少しだけ加えること。
↓
この「仕草」をアーティストが実践出来ないか。
様々な自然の素材に、自らの意思を持って手を加えること。=身体性を重視。
例)鉄板と石(関係項)
↓
「仕草」の結果、何か見えてくるものを求める。
=他(自然など)との関わりの中で、一つ生まれてくる行為性。
↓
「仕草」は唯一性を持つ。
=「仕草」によって生じた結果は、決して同じものが生まれない。
→それぞれに絶対的な差異が生じる。
・間石と「仕草」
寺にある「間石」=これ以上入ってはならない意味を持って置かれた石。
↓
もちろん、物理的な障壁としての石ではなく、容易にその境界を超えることが出来る。
→しかしながら、間石を見た者は、自信の意思を抑制して、境界を超えようとしない。
=自らの意思に基づく行動の抑制、その単純化された意味。=「仕草」
以上です。1960年代のもの派の原初と、それ以降の複雑な流れ、さらには「もの派」という名は、あくまでも便宜的に事後的に付けられたことなどが語られ、その後、もの派の重要なキーワードでもある「出来事」と「仕草」へ話がうつりました。時間的な問題もあったのか、少々消化不良気味のレクチャーとなりましたが、もの派の「もの」の意味、仕草という名の「制作」(のようなもの)、「作品」を外に開くための「場」など、様々な視点から、もの派の意義が語られたのではないかと思います。
その後の質疑応答では、主に今回の展覧会について、李禹煥に対しての質問が二つ三つほど出ました。あくまでも身体にこだわり、さらには美術という枠(キャンバスや色など。)に留まった上、新たなる「場」を生み出そうとしたこの展覧会の意図や、会場のカーペットの上では作品の存在感がなくなるため、全ての床をコンクリート剥き出しにさせたこと(カーペットはもう使えないのだそうです…。)などが語られます。また、単純に「もの」と言っても、やはりその「もの」には、自らの意思が入っている、つまり鉄板や石は、どれでも良いわけではないことも述べられました。近代美術としてのオブジェ的な作品、その意味を解体するための「もの」には、やはり何らかの意思がこめられている。もし「もの」と「意思」が矛盾であるとするならば、おそらくそれは、「仕草」という語の意味によって解決されるのかもしれません。
横浜美術館の「余白の芸術 李禹煥展」に関するレクチャーは今回で終了です。これまでのレクチャー関連の記事は以下の通りです。
・アーティトが語る1 「現代美術をどう見るか」 李禹煥
・「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」 柏木智雄(横浜美術館主任学芸員) その1、その2
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