2012.7.30(月) 快晴
「産土今昔夜話」などではっきりしていることは、猪鼻の地名のおこりが、例の猪鼻岩でないことである。
猪鼻岩が発見というか注目される以前から猪鼻の地名はあり、猪鼻岩が注目を浴びた昭和17年の府道工事ではじめて岩が猪の顔の形をしていたことが解ったのだろう。それが余りにも猪の顔に似ていたので一般的に猪鼻の地名のおこりと言われるようになったのだろうが、「産土今昔夜話」の著者の西山氏は微妙な言い方をされている。
それは猪鼻の地名の起源について猪鼻岩とは無関係に、水に関連ある起源説を出されているにもかかわらず、昭和17年のこの岩の発見について次のように書いておられるのである。
この村のはじまりに住んでいた人たちは 川下で身を清め このお岩さまに向いて篝火を焚いて しずかにお祈りをしたり 時にはにぎやかに笛や太鼓ではやしたてるお祭りもしたにちがいない
その頃からこの里を”ゐのはな”と言ったのだろう そして”猪の鼻”という字を当てはめるようになった字の縁起でもあるように思われる
氏の言わんとすることは、古来から”ゐのはな”の地名があり、猪鼻岩が注目を浴びるようになって”ゐのはな”の字の起こりは猪鼻岩であるということのようだ。
猪鼻岩が余りにも猪の顔に似ているものだからそういうことになったのだろうし、村の古老の言も猪鼻岩が”ゐのはな”の地名の起こりということだったのかもしれない。
実に似ている。
わたしは氏が最初に書かれた、「蛇ノ端」説が最も妥当だと思っている。水の流れの中に突き出た尾根の意味である。それは加用から池の元方面に突き出た尾根だろう。池の元から下がかつて水たまりであったという伝説は事実かも知れないと思っている。その理由は池の元の地名もあるが、猪鼻の上村、中村、下村の地名である。下村が熊野神社から北に入る横谷にあり、中村、上村が熊野神社より上流にあるということは、池の元より下流は人の住めない水たまりだったのかも知れない。もっとも上中下村という地名がいつ頃どのような事由で付けられたのか解らないので、あまり自信持って言えることでは無いのだけど。
池の元はこのあたりか、熊野神社から加用口、そして府道を横切るのが旧道と思われる。
伝説では木之本はんという武士が大身との境の峡谷をぶち抜いて水を抜き、人の住める耕地に替えたということだが、こういった地形のところには同様の伝説がままあるものだが、木之本喜平治という名と信長の時代などと言われているのでなにか調べようがなかろうか。原が谷という地名は、新たに開墾した谷と解釈できるので、湿地で住めなかったところを現在のように開発したということならあり得る話では無かろうか。つづく