2012.8.29(水)曇
実は既に本書に関する「雨読」を書いているのである。(2010.3.24,2010.4.7参照)
この二件の記事に対してコメントが入っている。そのまま残してあるので見て頂ければいいのだが、「別所と俘囚の関係はどう立証するのですか」というコメントは実はその後今日までずっと脳裏に残っていた。
「鉄と俘囚の古代史、蝦夷「征伐」と別所」柴田弘武 彩流社 1987年発行
書籍になった文書を読むとその内容を鵜呑みにするという傾向は誰しもある。インターネット上の情報や口伝やテレビの内容だとそうでも無いのに活字になると信じやすくなるのは不思議なものだ。ところが思慮深く書籍を読み進むことが出来るようになると、頭から怪しげな説や恣意的な内容は判断できるようになる。やはり誰でも安価に出版が出来るようになったことと、信頼すべき大手出版会社でも売れさえすれば怪しげな本を出すようになったことが、読者をして読解力と判断力を必要とするに至ったようだ。
本書がそのような本であると言っているのでは無い。本書は真摯に鉄と俘囚の課題に取り組んでおられ、鉄、俘囚、別所の関係は古代史の中で定着しつつあるのではないかと思っている。その一つの論拠はこの説に関して反論が見つからないことである。
しかし前述のコメントのような疑問を出されたとき、読者であるわたしははっきりと答えることができないのだ。つまり「別所」が俘囚の移配地であるという確証が本書の中にあるか否か探るため再読した訳である。
初回読了後に生じたわたしの疑問を紹介しておこう。
俘囚を別所に移配したと仮定して、どのように移配、管理したのか。
俘囚であればそれを管理した人員は相当数になるだろうが、実態は?
時代が進んで、俘囚達はどうなったのか。
俘囚がそのまま住み着いたとしたら蝦夷の文化が残るはずなのに見られない。
なぜ飛騨に別所が無いか。
横穴古墳との関係は?
東光寺、白山神社との関係は?
などである。読み直して答が見つかるかもしれない。つづく
【晴徨雨読】29日目(2006.8.29)佐渡島滞在
佐渡は金山である。ここまで大規模な鉱山となると、資料館など含めて一日では時間が足りない。観光用に作られた施設は大勢の人だが、相川の資料館などは一人でじっくり楽しめた。
相川郷土資料館
【今日のじょん】:いくみちゃんが来ているとじょんは素気ない。外から帰ってきても知らん顔、朝二階から降りてきても目線はまだ階上、誰のお蔭で飯が食えてんねん、と言ってしまったらお終いだって。
写真は朝外に出ても、ドアの窓から中の誰かを気にしている薄情じょん。