2012.8.20(月)快晴
前回で終了するつもりでいたが、少し書いておきたいことがあるので続編とする。
それは摩野山一乗寺のことである。六世紀の創建で平安の頃には三十六坊七堂伽藍の大寺院という触書なのだが、この寺院の伝承については実に謎が多い。
本書には、「欽明天皇の(飛鳥時代)の時代には空海の開基になる摩野山一乗寺があった。」とある。空海は欽明天皇の時代よりも二,三世紀後の人物である。
摩野山一乗寺が空海の開基で、その前身となる寺院が欽明天皇の時代からあったという風に書かれているのだろうか。しかしこの一乗寺は高野山の追討によって焼き払われたということだから余計話はややこしいこととなる。
川上の宝尾、正面の尾根を登り稜線直下の竹藪のあたりが宝尾。
左のピークが鳥とまらずで右のへこみが日置峠(宝尾峠)のようだ。
わたしが摩野山一乗寺について関心を持ったのは廃村宝尾村(おおい町川上)を訪れた時である。(宝尾行、2010.11.13~14参照)一乗寺のことについては「川上通信」というホームページで見たのが総てで、藤原家(藤原左近太夫)に伝わる「宝尾山縁起」(江戸後期の明和年間に書き写されたもの)に基づいた話である。
欽明天皇の時代に建立され、七堂伽藍の栄華を誇ったが、寺格を鼻にかけ遂には討伐を受けて衰退したというのは高浜史話と同じ話である。ただ「宝尾山縁起」では「摩野尾山一乗寺」となっており、高浜史話では「摩野山一乗寺」となっている。
大きな違いは前者では、一乗寺は川上の宝尾(おおい町)にあり、後者では高浜町の牧山(428,6m)にあったと伝えていることである。高浜史話がいかなる文書を参考にして書かれているのか不明であるが、単に本家本元争いというようなものでも無いようだ。
旧宝尾村周辺には多くの遺跡があるが(左)、一乗寺があったとされる平地にはそれらしきものは見当たらない。
日置側には太郎坊、治郎坊、山鳥屋敷跡という遺跡があるそうだが、川上通信でも太郎坊、治郎坊跡は日置側にある旨記しているので間違いの無いことだろう。日置側の山上に権現山宮および日置一乗寺があり、中央の山上に鳥とまらずの観音があったと言われる。この山は牧山の西南にある362mのピークと思われるが、川上通信では若丹国境に向かう尾根上の490mのピークとなっている。
このように情報が錯綜しているのは縁起であったり言い伝えが正確では無いということが最大の理由だが、これは全国各地の古い寺社にいえることでありやむを得ない。
つづく
【晴徨雨読】20日目(2006.8.20)長野市~安代温泉
旅を続けていると病気と怪我が一番心配、長い間には何度か経験するものである。疲労困憊は別として体調を壊したのは3回、そのうち一回は下痢であとの二回は発熱体調不良というところか。実はこの日が始めてで、熱っぽくてふらふらで、身体に力が入らない。強烈な暑さで疲労が溜まったものか。興味深い土地柄ではあったがどこにも寄る気も見る気もしない。とにかく温泉に辿り着いて超暑い湯に入ったら治ってしまった。安代温泉(あんだいおんせん)ってきいても誰も知らないだろうが、渋温泉なら知ってるだろう。その隣にあるのだが、泉質は似たようなものだろう。よく効く温泉だ。
こういう外湯があって、宿泊者は無料。ここは渋温泉。
今日のじょん:お盆を過ぎたものの残暑は厳しい。夏の間は朝の散歩は見合わせている。なにしろ皆が起きてくる時間にはカンカン照りなんだから、、。ぽんぽこぽんとぽんぽこジャンプでお茶を濁して、あとはこのとおり。