晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(83)丸山とイモリ村 8/25

2012-08-25 | 歴史・民俗

2012.8.25(土)快晴

 貝坂の地名の由来は貝殻の出土か地形、狭間のどちらかだろう。実はもうひとつあるのだがこれは発表できる段階で無いし、確信も無い。
 この貝坂について今ひとつ納得のいかないことがある。それは現在の関屋からの関屋川左岸の道が本来の貝坂かということである。国土地理院地形図では標高150mあたりで右岸に渡り、そのまま猪鼻峠に至るのだが、明治22年陸地測量部の地図を見ても同様の様で、おそらく関屋川沿いに登っているようだ。
 上林に最初の文化を運んだのはこのルートだとは思うのだけど、道の発達という観点から言うと、若狭青鄕日置~宝尾峠(日置峠)~宝尾~P474m~市茅野の尾根道ルートが最も古いルートだと考える。そのルートには牧山、宝尾、大田和などの遺跡もあり、集落もあるからである。わたしはいまだこのルートを踏破していないのだが、いつか歩いてみたいと思っている。宝尾峠と鳥とまらずの間の尾根は歩いたが、日置峠周辺には旧い地蔵など見つけた。Img_1697
 
日置峠から宝尾に向かう道沿いの風化した地蔵さま。


 歩きやすさ、街道の維持管理からいえば、この尾根道が最も有利だが、労力やスピードが重要視されるようになると、横津海~大田和ルートや貝坂ルートが使われるようになるだろう。特に重い塩や時間的制約を受ける海産物を運ぶ場合、貝坂は若狭から丹波への最短ルートだと思われる。しかし谷筋であるが故にその道の維持管理には相当労力を費やしたと思われる。
 貝坂についてわたしは1/4も歩いていないので語ることはできないのだが、少なくとも黒部谷出合いから先は古い街道を歩いているという雰囲気は無いのだ。
 それはきっと古い細々とした街道の上に重機で切り開いた林道だからかもしれない。しかしこれだけの重要な街道なら道端に地蔵尊があったり、屋敷跡があったり、水場があったりしてもおかしくないだろう。
 関屋の集落、黒部谷出合い集落の手前、黒部谷出合いには地蔵さまがあり、いずれも丁重に祀られていた。P1020499 P1020498 P1020488




 関屋集落内から黒部谷出合いまでの地蔵さま。

  しかしそれ以降は、最近にできた林道のように何も人の気配がしないのが気になるところである。いずれにしても全ルートを自らの足で踏破しないとどうこう言えないのは事実である。つづく

【晴徨雨読】25日目(2006.8.25)野沢温泉~小千谷
 暑さは続いていたが、装備が軽くなったことで随分楽になっている。それは肉体的にというより精神的に楽になったようだ。もしこの時「北越雪譜」を読んでいたら、秋山郷に向かっていたかもしれない。信濃川に沿って走っていると右方向に山脈が見える、あれを越えると群馬県かなあと思いつつ走っていた。今回の旅で日本一周という位置づけは47都道府県を全て巡ることとしていた。となると群馬県は今かすめておかないと、ぐるりと日本を回ってきたとき関東から最奥の群馬まで行かなければならないことになる。しかし飛騨や信州で山々に苦しめられた身体はあの山脈を越える気にはならなかった。念三夜塔とは二十三夜塔のことだそうだ。二十を念とは読めそうに無いのだが。Img_0354





 【今日のじょん】:やっと涼しい夜がきた。朝の温度も24℃、じょん君も元気に走り回ると思いきや、どうもぼーっとする癖がついて、遂にはへたり込んでしまう。夏の疲れか、歳いったんか?P1020526 P1020525


時々ぼーっとする癖がある。

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大唐内のこと(82)丸山とイモリ村 8/24

2012-08-25 | 歴史・民俗

2012.8.24(金)晴れ

 関屋から猪鼻峠に至る関屋川沿いの道を貝坂という。丹波志などには現れず、若狭郡縣志、若狭國志に出てくるので、若狭側での呼び方なのだろう。
若狭國志には
 具坂 在關屋村外通丹波國
とあり、若狭郡縣志には有名な伝説が記載されている。訳すると以下のとおりである。

 丹波国の人が海塩水を器に入れ持ち帰る時、坂の石につまづいて倒れ、器をこわし塩水が出た処付近一帯に海水があふれ波浪が押し寄せ暫し海になったと伝える。このためか現在貝の化石が出る。これは他国人が塩を国外に持ち出さないようにするための伝説とも言われる。(わかさ高浜史話)

 貝の化石が出るのか、はたまた貝塚があるのか定かでは無いのだが、高浜の製塩は重要な産業だったようで、近世に小浜藩が三松村(みつまつむら)から百十表三升八合を買い上げたとか、京都東寺に室町時代から塩を送った木札があるそうだ。戦後も盛んに生産され綾部から丹波の山間部に販売されたとある。
 佐分利の県道1号線が整備されるまでは貝坂が丹波への塩の輸送路として重要な街道だったのだろう。P1020490
 
貝坂は誰も通らなくなり、その上空の若狭道を無数の自動車が通り過ぎる。


 伝説で塩水を持ち出すというのはよくある話で、実際にあったのかも知れないし、製塩業が盛んであった頃には塩水の持ち出しは村民にとって頭の痛いことだったのかも知れない。そういう意味でこのような伝説が出来上がったのだろうが、わたしはこの坂のどこかに貝殻の集積した箇所があったのでは無いかと思う。貝塚などの遺跡があるという話も聞かないので、おそらく太古の汀線に堆積した貝殻が地表に出ていたところがあるのではないだろうか。縄文海進時にどのあたりまで海面が侵入したか分からないのだが、もし黒部川出合いあたりまで侵入していたら、その可能性はあるだろう。
 昭和40年代に妙見山麓で温泉掘削がなされたときに、地下3m前後は砂浜と貝殻の累積であり、往古海であったという伝説が実証されたそうだ。P1020419
 
温泉掘削はこのあたりの山側かと思う(郷土資料館から)
正面の山は青葉山。


 貝地名は山岳地帯にも存在し、一体何なのだろうと思わせるが、狭間を表す地形用語がよく使われている。語源大辞典(東京堂出版)では、カイ「峡」 山と山の間 とある。つづく

【作業日誌 8/24】
  秋ナス準備

【晴徨雨読】24日目(2006.8.24)野沢温泉滞在
 プレ旅行も合わせると一ヶ月近く走った。今日まではキャンプ用具一式を持って走っていたのだが、キャンプ場が今後閉鎖されること、キャンプ場は一般に高い所にあり辿り着く労力が大変、自炊と設営の時間と労力が大変、キャンプでは疲れが取れない、装備が重いなどの理由で、テント以外のキャンプ用具を送り返すことにした。よって明日からサイドバッグはリアのみとなる。楽になると同時に行動範囲がひろくなりそう。Img_0225 Img_0458

ビフォア、アフター、6Kgぐらいは減っただろうか。



【今日のじょん】:なんじゃこりゃ。カボチャかなあ、いやプリンスメロンやで、どうもアンデスメロンみたい。ネギ畑から出てきた双葉を育てたら、こんなもんができた。丸くてマスクが入ってきたのでアンデスメロンのようだ。今年は種まいたゴーヤがちっとも大きくならず、オクラは硬くて食べられず、プッコチは実が着かない。勝手に生えてきたこいつをなんとか世に出したいのだが、、、。P1020520

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