2012.8.30(木)晴れ、雷雨あり
結論から言うと、別所は蝦夷の俘囚を移配した地であるという確証は本書の中から見いだせない。
ただ、文書あるいは遺跡などから次のことはいえるだろう。
蝦夷の俘囚を各地に移配したこと。
俘囚料、夷俘料という形で、俘囚を養うための税が存在した。
別所が産鉄、金属生産に関係する土地であろうこと。
別所俘囚移配地説のはじまりは菊池山哉氏であり、氏の著書も読んでみる必要はあろうかと思っているが、未だ実現していない。菊池氏の論拠を発展させているのが本書であると思う。その菊池氏の俘囚移配説の根拠の難点について、次のように書いている。
難点は、俘囚移配地を別所とするという官符がないことである。しかしこれも菊池が言うように、六国史には欠本もあり、特に平安初期の部分は亡失していて、その中に官符があったと見ればおかしくはない。
つまり別所は俘囚の移配地であるという官符は無いのである。それを欠本の中に書いてあるという言い回しはどうみても科学的では無い。同様に別所は俘囚の移配地であるといういわゆる情況証拠は数多く示されているのだが、確証は無いのである。
前回読んだ際には柴田氏の説をほぼ肯定する立場であったが、現在では少し疑問を感じている。
別所が官指定の俘囚移配地であったとしたら、どこどこの俘囚をどこそこの別所におくったという文書が存在してもおかしくないと思うのである。またこれだけの数の別所が全国にあり、多くの俘囚がいたとすると、その管理についての文書もあっても良さそうだ。特に氏が言うように俘囚の移配が金属、特に鉄の生産が目的であったら、その生産高についての記述もありそうなものだ。
わたしが別所=蝦夷の俘囚移配地に疑問を持つのは、前回紹介した疑問の内、別所に蝦夷の文化や地名が残っていないことである。もちろん俘囚がその地に定住したとしての仮定だが、周囲から孤立して存在していたとするとそこになんらかの蝦夷の文化が残ると思う。少なくとも近隣の別所をみてもそれらしい文化は見とれない。周囲と何ら変わることのない文化なのである。つづく
瑞穂町(現京丹波町)井脇別所、現在丹波縦貫道の工事の最中である。この地に蝦夷の文化のかおりのするものはまったく見られない。
【作業日誌 8/30】
草刈り(5-4)
【晴徨雨読】30日目(2006.8.30)佐渡滞在
天気が悪いので休養を決め込む。実は京都を発って雨天というのはこの日が初めてだったのだ。夕立程度はあったが、随分長く晴れたものだ。しかも暑かった。考えてみれば今年の上林もこのようなもので、あり得ることなのだ。結局旅行の年は昼間の雨は数えるほどで、幸運だったと言えよう。この日は昼から晴れたので金山奉行所見学に行く。
奉行所裏庭、なんで撮ったか解らないが、多分金山方面を撮ったのだろう。
【今日のじょん】:新じょん語録(14)え~こえ
動画アップロードでき次第表示します。
YouTubeにはアップロードしましたがブログに取り込めません???