晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

穴虫考(56) 奥武は葬地か-17 5/8

2014-05-09 | 地名・山名考

2014.5.8(木)晴れ

 奥武島は万物が来たりて、そして去って行く島であり、そのひとつの現象として葬地になるのだろう。そのなかで奥武島が特に葬地としてクローズアップされるのは、おそらく弥生時代以降の海洋民族による水葬の影響が大なのではないだろうか。水葬の存在については、船形石棺や壁画、あるいは古事記などの文中や伝説の中にもそれらしい痕跡があることで認められる。
 森浩一(考古学者)、横田健一(文化人類学者)両氏の対談(「墓地」社会思想社)のなかに、「縄文人の遺骸に対して弥生人の遺骸は非常に少なく、死者を海に流したかあるいは海岸に埋めたかという仮説も出ている」という森氏の意見が出されている。はっきり水葬が行われていたとは言っておられないが、その後の遺跡からも船材を使った木棺や船を棺に使った例などが出ているという。水葬であれば、本来遺骸を船に乗せて沖に流していたものが、あの世とこの世の中間にある、奥武島に遺骸を安置し自然に任せるという葬法が考えられるのである。
 海岸部であれば地先の島であったり、岬であったりするのだが、内陸に行くと、川の中州や集落の対岸が葬地となり、水が出ると死骸は流されることになる。以前に想像した由良川沿いの鳩瀬などはまさにそういった場所といえまいか。(2014.3.29参照)
P1020832
 

花壇展が行われる白瀬橋上流の由良川河川敷も鳩瀬である。かつては由良川の右岸であり、中州だったのかも知れない。鳩瀬は泊瀬、初瀨(はつせ)の転ではないだろうか(2014.4.29)
 では沖縄の奥武と本土の青は同一かという問題になるが、少なくとも地形的、位置的には同一のものと見ていいだろう。幾つかの青島に葬地の跡や墓地といったものが見られ、伝説などもあるようだが、すべての青島について調査されているということではない。まだ未見の文献も多くあり、想像の域を超えないのだが、奥武島同様に葬地としての青島が存在するようだ。
 おわり
【作業日誌 5/8】
白樫の苗植え付け(実生のもの)
薪割り

【今日のじょん】あまり水を飲まないじょんだったが、よく飲むようになった。年齢のせいもあるんかなあ。P1020860

 

 

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