『東京の坂、日本の坂』その181。長く坂のブログを書いているが、赤坂地区の坂を歩くのは2015年以来だから8年ぶりになる。気になったのが『赤坂』という坂道はどこにあるのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/bf/71f24abe7cef4382ed42e8e8441e5271.jpg?1687331223)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/ca/12fa7b94c91d5d60948ad1b5d76a9b1a.jpg?1687331223)
これは『新橋』という橋がどこにあるのかと同じくらい難しい問題である。これには2つの説があり、どちらもはっきりしていない。1つ目は茜坂(現在は紀伊國坂とよばれている)からは由来していて茜が咲く丘に向かって坂道があったという説、2つ目はこのあたりは赤土で舗装される前は坂道が赤かったからという説である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/3e/c779b763c799eb7081f8c9a66c630df9.jpg?1687331282)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/58/90f6f7a1f21b3000d3ab53f9eec68ccb.jpg?1687331283)
とにかく赤坂という坂はないらしい。今回は赤坂駅で降りて赤坂5丁目交番を右に曲がると90度ずつ2回曲がる急坂が現れる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/5c/c5715d59985f9aa241160ce34439b9ef.jpg?1687331322)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/cf/31d2921a4382fe39db5867ed87015900.jpg?1687331323)
坂の下には報土寺、寺より築地塀に目がいってしまうが、由緒あるお寺である。雷電爲右エ門という江戸時代の名大関の墓もある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/1e/d0ba5074abc5ba6f8de8fec2dd78d6d5.jpg?1687331364)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/14/5512c00a1c4b2803c9d1cf6b40e3353d.jpg?1687331364)
坂を上がると90度右に曲がるが、この坂はここからが本番、さらに登ると左にさらに勾配が続く。右側には一ツ木公園、坂の下からはこんなところに公園があることは想像だにできない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/68/84d0bbff82163c3386338db4b0efcc95.jpg?1687331412)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/ba/4ce83627ee0058e31d426d7506d51869.jpg?1687331412)
坂の名前は『三分坂(さんぷんさか)』である。よく三分(さんぶ)と間違えられるが、坂が急で坂を登る車力賃に銀三分(100円)程度上増しさせられたからこの名前が付いた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/8c/49973d6d0f736baff3c8b84e53651052.jpg?1687331507)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/22/6c913e5bf5e7fe5e0d9566149b172bc4.jpg?1687331507)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/1b/9ba5aa0049cafd3ba0bc1cdf136bf598.jpg?1687331508)
三分(さんぶ)では1両の4分の3、米の価格で換算すると3万円だが、こんな高額な上増しはしなかったと考えられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/cf/c0bc339f3b3d499aeef9001324bc5352.jpg?1687331596)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/9f/7270c969ac9d8047ab0f58b4ef56ec46.jpg?1687331596)
坂を降りて先ほどの交差点もまっすぐ進む。しばらく歩いて左に曲がると『勝海舟の旧居跡』が現れた。海舟は36歳からはこの地に居を構え、長く赤坂に居住していた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/59/488bb75d87dd2411273128c427068281.jpg?1687331723)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/54/d44aed88808e02e71211167dfabc1a73.jpg?1687331723)
その先、右に曲がる緩い坂道が現れるが、これが『本氷川坂』である。最初は登り、さらに降って行くのだが、元々はこの坂の途中に本氷川神社があり、その後氷川神社に合祀されたため、この名前が残されたと言われている。赤坂も一本入ると急に閑静な地区となる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/f9/051ea13b04c77c5c285cfa39e30343ab.jpg?1687332259)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/8b/47b147aea0ae5323da79778f085d64b5.jpg?1687332259)
坂を降りて左に曲がり、さらに右に曲がって行くと突き当たり、目の前に檜坂公園が現れた。奥には高いビルが聳え立つが、公園には犬を連れた住人が散歩に歩いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/3b/3cde08c1788eec3adb399247a656c3b0.jpg?1687332365)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/45/d94125237970ddd13b4531480502e65c.jpg?1687332364)
左に向かって上り坂となっているが、この坂道が『檜坂』である。江戸時代には檜坂公園は毛利邸の屋敷があり、檜造りであったため、檜屋敷と呼ばれていた。その屋敷に沿っていた坂道のためこの名前が付けられたのである。(以下、次回)、