『秋の甲斐路へ』⑧、銚子塚古墳を堪能した後、ファミレスでランチ。雨も完全に止まないので昇仙峡を諦め、甲斐善光寺へ。
甲斐善光寺は元は武田信玄が川中島の戦いを考え際に信濃善光寺に戦火が及ぶことを恐れて創建した寺院。
1555年第三次川中島の戦いを和睦するとこの寺を建て、その3年後に信濃善光寺の本尊の善光寺如来を移した。
しかし、信玄の死後、1582年武田勝頼は織田・徳川連合軍に敗れ、善光寺如来は織田信雄により岐阜に移され、さらに清洲城、徳川家康により吉田、浜松を経て甲斐善光寺に戻される。しかし、豊臣秀吉が方広寺大仏損壊を受けて善光寺如来を京都に移されるが、秀吉が病となり、善光寺如来の祟りと噂されたこどあり、1598年に信濃善光寺に戻された。
甲斐善光寺の伽藍はほぼ信濃善光寺と同じ大きさがあった。しかし、1754年の火災で焼失、1766年から30年かけて1796年に完成した物が残されている。
本堂の内陣に入ると天井の鳴き龍2頭が手を叩くと反射が起こり、共鳴して大きな音が出る。
また、本尊の裏に行くと信濃善光寺同様に『お戒壇巡り』があり、真っ暗な中で鍵(錠前)を触れることにより本尊と縁が結ばれるとされる。もちろんチャレンジしたが、降りていく階段の高さが異なり、怖い。さらに壁に沿い、腰の高さを探るが、一度突き当たり、右に曲がったのち、ようやく見つかるもので結構時間がかかる。
今の本尊は銅造阿弥陀三尊像で写真も飾られていた。この像はかつては御前立で、秘仏ではあるが、7年毎に開帳されている。
次は武田神社に向かう。この土地に武田信虎、信玄、勝頼の3代がこの地を治めた時の躑躅ヶ崎館(武田館)の跡地であり、明治・日露戦争後信玄祭祀神社創設の機運が盛り上がり、1919年に完成した。
甲府城もあるが、これは武田氏滅亡後に秀吉・家康が築城、江戸時代は当初は幕府直轄、その後、徳川義直(家康の9男)が初代城主となり、その後も親藩系大名が続いた。
武田神社は坂を登った突き当たりにあり、以前来た時は左の第二駐車場に向かって停めたが、あまりに遠く、辟易した。今回も左に一旦は曲がったが、雨が強くなってきたこともあり、近い駐車場に再チャレンジ。停めることができた。
すぐ階段下まで行き、橋を渡って境内に入る。激しい雨にも関わらずちょこちょこ歩く七五三の女の子が大変そう。我々も本殿に参り、御朱印をもらったのち、急いで車に戻った。
最後は降りしきる雨の中、本日宿泊する富士吉田へ一気に走り出した。(以下、次回)