『ぶらり橋巡り』その116。旧楓川に架かる橋を巡る③。宝橋も震災復興の楓川改修と道路建設に伴い1929年に竣工。その名前の由来は色々調べても出てこない。近くに都営地下鉄浅草線宝町駅があるのでこれがヒントかと思い、調べてみると『宝町』は1931年に実業家で東京市議会議員であった中澤彦吉という人がめでたい名前として付けたことがわかる。しかし、橋ができたのは1929年だからこれより2年前、どうも違うようである。
宝橋の周囲も児童遊園となっていて袂には『宝地蔵尊』がある。そのお隣には石造りの『宝塔』がある。宝地蔵は1954年に近くに住んでいた子供が楓川にはまって亡くなった事故の供養として作られたものである。
急に周囲が開け、行幸通りに出る。架かっているのが久安橋、17世紀に架橋された橋で寛永江戸図では『下野橋』(橋の東側にあった下野守屋敷に由来)、さらに『越中橋』(東詰に松平越中守上屋敷に由来)と呼ばれた。1868年に久安橋と改称された。
その名の由来は①単に美称を付けた、②古くにお坊主久安の屋敷があった、③松平氏の本姓が久松松平氏であった、などの諸説がある。
今の橋はやはり関東大震災の復興事業として1930年に架橋されたもので橋長33.0m、幅員33.0mと不思議に正方形である。
新馬橋は阪本小学校からすぐのところにある高速道路に架かる橋である。袂には楓川新馬橋公園。
また、高速道路と昭和通りに挟まれた道は中央区により『かえで通り』と名付けられ、道に沿って楓の木が植えられている。よく見るとちょうど緑色の実が成っていた。(以下、次回)