映画「バルド、偽りの記録と一握りの真実」を観た。
シーンの編集がとても分かりづらい。現実と幻想が境界線もなしに入り組んでいて、過去と現在の区別もないから、本作品を起承転結で理解しようとすると、混乱するだけである。おまけに時間軸も定まっておらず、流れる時間さえ速かったり遅かったりだから、ますます混乱に拍車をかける。
主人公シルベリオが自分の映画について語る通り、考えではなく感情を描いた作品なのかもしれないが、それにしては登場人物の哲学的な議論や社会的な発言が多い。
それはそうだろう。思索も感情も同じ脳のはたらきであり、密接に関係している。感情、特に怒りや罪悪感といった負の感情は価値観やパラダイムに左右されやすい。考えと感情を分けろというのは無理な話なのだ。
アメリカ人をカネのことしか考えないと貶めたり、メキシコは危険な場所だと自嘲してみせたりと、シルベリオの精神性はかなりややこしい。しかし整合性のなさも人間性のひとつだ。シルベリオにも性欲や名誉欲は人並みにあり、人間を信じるところと信じないところがある。友人は自分を映す鏡であり、自分のことのように友人を大切にするが、同時に自分のことのように友人を蔑ろにする。子どもたちの自由を重んじるかと思えば、パターナリズムの発言もする。精神性は大人であり子供でもある。感情に素直だが、自制心もある。意外に愛国者であり、差別主義者の面もある。メスチソ系のアメリカの役人がメキシコ人を軽く扱うのが許せない。
行ったり来たりのシーンや劇中映画のシーン、家族や友人やその他の人々とのシーンなどがコラージュのようになって、シルベリオという人間の等身大の姿を浮かび上がらせる。息子が飼っていたウーパールーパーのニュートラルな生命のありように対して、シルベリオの人生のなんとややこしいことか。
しかしそんなややこしい人生を、本作品はややこしいままに力強く肯定しているように思えた。どうしようもないおっさんだが、悪気はないよね、こういうおっさんが生きていてもいいよねと、そういうふうな暖かさが感じられる。そんな作品だった。