三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「バルド、偽りの記録と一握りの真実」

2022年11月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「バルド、偽りの記録と一握りの真実」を観た。
Netflix『バルド、偽りの記録と一握りの真実』映画館で公開!

Netflix『バルド、偽りの記録と一握りの真実』映画館で公開!

一部劇場にて11月18日(金)劇場公開!傑出した演技力で主人公のシルヴェリオ・ガマを演じるのは、メキシコ人俳優のダニエル・ヒメネス・カチョ。アカデミー賞®ノミネート撮...

Netflix『バルド』

 シーンの編集がとても分かりづらい。現実と幻想が境界線もなしに入り組んでいて、過去と現在の区別もないから、本作品を起承転結で理解しようとすると、混乱するだけである。おまけに時間軸も定まっておらず、流れる時間さえ速かったり遅かったりだから、ますます混乱に拍車をかける。

 主人公シルベリオが自分の映画について語る通り、考えではなく感情を描いた作品なのかもしれないが、それにしては登場人物の哲学的な議論や社会的な発言が多い。
 それはそうだろう。思索も感情も同じ脳のはたらきであり、密接に関係している。感情、特に怒りや罪悪感といった負の感情は価値観やパラダイムに左右されやすい。考えと感情を分けろというのは無理な話なのだ。

 アメリカ人をカネのことしか考えないと貶めたり、メキシコは危険な場所だと自嘲してみせたりと、シルベリオの精神性はかなりややこしい。しかし整合性のなさも人間性のひとつだ。シルベリオにも性欲や名誉欲は人並みにあり、人間を信じるところと信じないところがある。友人は自分を映す鏡であり、自分のことのように友人を大切にするが、同時に自分のことのように友人を蔑ろにする。子どもたちの自由を重んじるかと思えば、パターナリズムの発言もする。精神性は大人であり子供でもある。感情に素直だが、自制心もある。意外に愛国者であり、差別主義者の面もある。メスチソ系のアメリカの役人がメキシコ人を軽く扱うのが許せない。

 行ったり来たりのシーンや劇中映画のシーン、家族や友人やその他の人々とのシーンなどがコラージュのようになって、シルベリオという人間の等身大の姿を浮かび上がらせる。息子が飼っていたウーパールーパーのニュートラルな生命のありように対して、シルベリオの人生のなんとややこしいことか。
 しかしそんなややこしい人生を、本作品はややこしいままに力強く肯定しているように思えた。どうしようもないおっさんだが、悪気はないよね、こういうおっさんが生きていてもいいよねと、そういうふうな暖かさが感じられる。そんな作品だった。

映画「ある男」

2022年11月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ある男」を観た。
映画『ある男』公式サイト | 11月18日(金)全国ロードショー

映画『ある男』公式サイト | 11月18日(金)全国ロードショー

愛したはずの夫は、まったくの別人でした──/日本映画史に残る「愛」と「過去」をめぐる珠玉の感動ヒューマンミステリー 出演:妻夫木聡 安藤サクラ 窪田正孝

映画『ある男』公式サイト | 11月18日(金)全国ロードショー

 日本国憲法第14条には「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と書かれている。
「門地」は聞き慣れない言葉だが、要するに家柄のことだ。現代では先祖代々のことはあまり言われず、せいぜいが親と祖父母くらいまでのことが取り上げられる。親がふたりとも政治家だとか、弁護士だとかいうことで優遇されることがあれば、親が貧しいことで差別されることもある。

 子供が他の子供を差別するのは、家庭で差別教育を受けているからだ。いじめっ子の親は差別主義者なのである。子供は他の子供の影響を受けやすいから、差別をする子供がいると、その友だちも差別をする可能性が高い。特に小学生は自分で考えて自分の行動に責任を持つまでの精神性に至らない子供が殆どだ。基本的人権について、他人にも自分と同じ権利があること、差別は人権侵害であることを、子供の頃の早い段階で教えるべきである。
 差別主義の親を学校で教え直すことはできないが、小学校から日本国憲法の平和主義、自由主義、平等主義、基本的人権、国民主権などを教えることは可能である。しかし日本国憲法が公布されて76年、施行されて75年が経っても、いまだに義務教育で日本国憲法が教えられていない。憲法を義務教育で教えたくない勢力が厳然と存在しているのだ。だから日本の社会は相も変わらぬ差別といじめの社会である。それは、差別主義の代表選手みたいな杉田水脈のような政治家が政務官という重職に就いていることに象徴される。そういう政治家が当選するのがいまの日本の社会なのだ。

 親が政治家だからといって政治家になる義務はない。医者も法律家も同じだ。それに宗教も同様に、親が信じている宗教を子供が信じる義務はない。だから信仰のない赤ん坊に洗礼を受けさせて洗礼名をつけるキリスト教は、明らかに人権無視の憲法違反をしている。統一教会や創価学会、エホバの証人などのカルト教団は論外である。
 しかし日本では世襲が世間で罷り通っている。政治家や医者の世襲では非人道的な苦しみはないが、カルト宗教の世襲は二世を大いに苦しめる。そして犯罪者の悪評の世襲は、当人にまったく責任がないが故に非道だが、悪評を立てる主体が誰ともしれない世間全体というところに、救いのなさがある。犯罪が遺伝することなどあり得ないのに、子供に対して「犯罪者の血が流れている」などと、論拠のない非難を浴びせる。

 理不尽な差別や迫害をする人間たちに、道理は通じない。だから逃げるのが一番だ。本作品は差別から逃げた人のその後のドラマを描く。いまの日本社会は差別者や迫害者たちが牛耳る世の中だが、世の中の片隅には、人を差別しない、迫害や虐待をしない人々もいる。寛容な世界もあるのだ。他人のために無償の行為ができる社会である。

 本作品はそういう社会を描きたかったのだと思う。妻夫木聡が演じた弁護士は、できればそういう社会で生きたかった。しかし妻とその両親は、道理が通じない相手だ。亡くなった男Xのことを、少し羨ましく感じていたに違いない。せめて見ず知らずの人を相手のときは、自由な精神性でいたいものだ。ラストシーンに弁護士の儚い願望が見て取れる。それは不自由な日本社会の精神性に倦んだ人たちに共通する願望でもあるだろう。

 窪田正孝の鍛え上げた肉体が見事だった。ストイックな俳優らしい、研ぎ澄まされた演技をしていたと思う。安藤サクラは母としての気持ち、妻としての気持ちがそれぞれストレートに伝わってきて、胸が熱くなった。妻夫木聡ももちろん好演。がめつい弁護士を演じた小籔千豊の関西弁が、よく人柄を表していると感心した。