映画「わたしのお母さん」を観た。
石田えりが演じた母親寛子は、独善的で自分を正当化するのが癖で、そのためには娘を平気で貶める。自分は利他的だが娘は利己主義だと決めつけて非難する。独善的な親に共通する言葉「あなたのためよ」を連発する。自分の恩着せがましさに少しも気づいていない。パターナリズムの典型みたいな理不尽な母親だ。多分観客の殆どが嫌いになるだろうこのキャラクターを石田えりは見事に演じている。おそらくではあるが、演じながら昭和のパラダイムを楽しんだのではないだろうか。
対して井上真央が演じた無抵抗主義の娘夕子。反対意見を述べることも、母親を否定し批判する言葉を吐くこともない。ただ無言。しかしその無言が言葉以上に圧力をかけ、最後は母親を追い詰める。虚勢を張り、言い訳に終始する母親は、実は弱い人間で、強かったのは夕子のほうだった
井上真央のアップのシーンが長く続くので、観客はどうしても彼女の心の内を想像することになる。そういう演出なのだろう。応えた井上真央の演技も見事だった。
当方が想像したのが現実感の喪失だ。当方は何度か、家族でも友人でも、目の前の人間が家族や友人とはどうしても思えないことがあった。名前を忘れることもある。視界全体がテレビの画面になったような気がすることもある。高校生の頃からあったから、ボケているのではないと思う。
井上真央の無言のシーンを眺めながら、どこか現実感が薄いように見えたのは、夕子にも現実感の喪失が起きているからではないかという気がした。寛子のことを自分の母親とは思えない。本当に自分の母親なんだろうか。もっと言えば、この女性は誰なんだろう、どうして自分にずけずけ物を言うのだろう、そんなふうに感じているように思えたのだ。
その感覚は夕子の生活そのものにも影響していて、生きている実感がないままに時を過ごしているような、そんな虚しさがある。母親の愛を得られなかった長女の空虚感かもしれない。だとすれば夕子の人生はあまり楽しいものではなかっただろうし、これからも同じだろう。なんだか希望がない。
しかし、終盤になって漸く、現実感を取り戻すシーンがある。静かなシーンだが、そのシーンが本作品のハイライトだ。井上真央の渾身の演技が光る。
不思議な味わいの作品だった。