三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「たまねこ、たまびと」

2022年11月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「たまねこ、たまびと」を観た。
映画「たまねこ、たまびと」公式WEBサイト

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「棄てたのは人間 守るのも人間」小さな命が照らす人間の闇と光。多摩川に棄てられた猫を救い、守り、見つめ続けている人がいる写真家•小西修の活動を通して描く、人と...

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 猫は達人である。

 人間は本質的に臆病で利己主義だ。おまけに強欲で身勝手だから、欲望が満たされないと損をしたと被害妄想を抱く。それでいつも怒っている。子供を見れば分かる。子供は他人のために怒ることはない。泣き叫ぶのは常に自分のためだ。あれが人間の本質である。
 教育と経験によって、臆病と被害妄想を乗り越えることができるが、大人になっても乗り越えられない人も多い。むしろそちらが多数派かもしれない。
 様々な被害妄想が蓄積すると、精神的なバランスを崩すから、どこかで怒りを爆発させることになる。しかし元が臆病だ。怒りの矛先は弱いものに向かう。
 そして怒りを向けられて暴力や暴言を受けた者は、反撃するのではなく、更に弱いものを攻撃する。そして、より弱いものが次々に被害に遭うのだ。そして最後は赤ん坊や、犬や猫や鳥に行き着く。

 この図式は残念なことに社会の様々な場面で出現している。それだけ苦しんでいる人が多いということだ。しかしすべての場面で怒りの連鎖が続く訳ではない。どこかで食い止める人がいるのだ。暴力や暴言を浴びても、それを自分より弱い人に連鎖させるのではなく、自分ひとりで受け止める。あるいは柳に風と受け流す。それはとても勇気のいることで、臆病を乗り越えた人にしかできない態度である。
 そういう人は達観した人、すなわち達人と呼ばれる。器の大きい人だ。しかし子供の頃から器が大きかったわけではない。大器晩成である。教育と経験によってみずから器を大きくしていったのだ。人間の場合はそうだが、猫の場合は、そもそも怒りを連鎖させることがない。自分に被害が及びそうなときは、どんな相手にでもひとりで立ち向かう。猫は生まれたときから達人なのだ。

 最も印象に残ったのが「石松」と呼ばれる猫である。酷い暴力を受けて片目を失い、口も歪んでうまく閉じられない。外見はとても醜い猫だが、猫の例に漏れず、石松もやはり達人だ。誰のことも恨まないで淡々と生きる。
 石松を飼うのはホームレスの男性だ。こちらも怒りを連鎖させることはない。ある意味達人である。達人が達人を飼う。しかしふたりとも、社会から一顧だにされない。そこに現代社会の歪みの本質がある。

「僕が死んだあともずっと続いていくんですよ。終わりがないですね」と、小西カメラマンは達観する。そしてそれきり黙ってしまう。この人も達人だ。人類の不幸の歴史が、多摩川の川っペリで生きる、あるいは死んでいく猫たちのありように集約されていることを知っている。映画を観た当方も、小西カメラマンと同様に、テーマの大きさに言葉を失ってしまった。