映画「ゴジラ-1.0」を観た。
大江健三郎の「遅れてきた青年」を思い出した。戦争に行って華々しく死にたかったのに、生まれてきたのが遅くて間に合わなかったと嘆く男の話である。もちろん大江健三郎は反戦の作家なので、英霊などという言葉を使って意味もなく戦争を礼賛するのとは、まったく異なる。戦争が暗い影を落としている戦後の日本人の精神のありようを描いたのだ。
本作品にも同じような深みがある。戦争が落とす影は、ひとりひとり違っている。主人公敷島浩一は、生きて帰ってくるんだという両親の言葉を肝に銘じて、戦闘から逃げて、生きて帰ってきた。恥じることはないはずだが、見事に散ってこいというパラダイムがまだ生き続けていた時代だ。罪悪感を抱くのは自然だろう。
残念なことに、組織のために個を滅することをよしとするパラダイムは、現代でもまだ残っている。ブラックと呼ばれる組織である。ブラック企業だけでなく、自衛隊や体育会系の部活動もそうだ。勝つことを目的とすれば、どうしてもそうならざるを得ない。人類の社会が競争社会である限り、ブラックな面は消えることがないだろう。人類のジレンマでもある。そういう歪みを個人で引き受けるのが敷島浩一だ。神木隆之介は見事だった。
銃後の人々はどうかというと、生還した兵隊というのは、恥知らずな存在かもしれない。安藤サクラが演じたスミコはそう感じてしまう。しかし彼女にも想像力はある。浩一の両親にとっては、息子が帰ってきたのだ。生きていれば喜んだだろう。自分も夫が生還したら、たとえどんな事情があっても、喜ぶに違いない。
無定見で愚かな人間たちが始めた無謀な戦争だと理解していた者たちの中には、一瞬でも愛国を叫んだ自分を恥じている者もいただろう。国民を犠牲にする国家は、もはや共同体の体を成していないのだ。
そういった複雑な社会状況の中で、本作品はゴジラを再度出現させる。これまでのゴジラ作品のストーリーの通り、ビキニ環礁の核実験の影響で巨大化し、凶暴化している。実際に相対した者たちは、圧倒的な強さに絶望さえ覚える。
吉岡秀隆は医者が似合うのと同じように学者が似合う。佐々木蔵之介は豪快な役と繊細な役の両方ができるが、今回は豪快ながらも繊細な、器の大きな男を演じる。山田裕貴は少し空回りしているようにも感じたが、空回りする役でもあり、ぴったりだった。浜辺美波はブスに見えるような演技があって、自論ではあるが、どう見ても美人の女優がブスに見える演技ができれば、本物の女優だと思う。浜辺美波も作品を重ねて、本物の女優に近づいてきた訳だ。実に喜ばしい。
VFXの技術が高くて、ゴジラが暴れるシーンは、これまでのゴジラ作品の中でもピカイチだと思う。山崎貴監督の作品はこれまで「アルキメデスの大戦」や「DESTINY 鎌倉ものがたり」などを鑑賞したが、どれも面白くてハズレがない。本作品はプロットもVFXもアイデア満載で、ワクワクしてハラハラしてドキドキした。心を揺さぶる傑作だ。
それにしても音楽の佐藤直紀は凄い。全体を通じて不穏な空気を盛り上げて、クライマックスでは、ゴジラのテーマともいうべきふたつのメロディーを実にタイミングよく効果的に使っていて、何度も、思わず息を呑んだ。