鳩山由紀夫首相や民主党と肌合いが合わないのは、彼らがあまりにもコスモポリタン過ぎるからだ。日本のナショナリズムについて考えたことは、これまで一度もなかったに違いない。若い頃に読んだ本で、今でも影響を受けているのに、吉本隆明の『自立の思想的拠点』がある。日々の生活に終われている大衆のナショナリズムに目をあてたのだった。明治、大正、昭和という各時代に流行った歌を取り上げて、大衆ナショナリズムとの関係から論評していた。国のために戦争に行くとか、立身出世を目指すとかいった、主題が明確であった明治にあっては、真下飛泉の「戦友」や大和田建樹の「青葉の笛」などのように、その裏目に大衆の心情が隠されていたのだという。主題が喪失してしまった大正になっては、三木露風の「赤蜻蛉」に代表されるような、空虚なやるせない思いが表現されたのだった。昭和に入ると、大衆ナショナリズムの実感がなくなってしまい、近代主義者によって概念化された、ウルトラナショナリズムとして結晶化されたのだという。吉本の議論の立て方は大筋においては間違っていないと思う。大衆ナショナリズムに含まれる土俗性を否定したのが、日本の革新官僚であり、軍部における統制派であったからだ。そこにマルクス主義からの転向者が含まれていたことはいうまでもない。しかし、吉本が意識しているかどうかは別にして、日本のナショナリズムを論じることは、結果的に、近代主義者と対決した「さびしい浪人の心」に目を向けることなのである。日本浪漫派の保田與重郎も『日本の文学史』のなかで、「明治以来の文学の歴史の本筋は、明治の文明開花と、その論理や態度、考え方に抵抗し、また批判的だった、在野精神の人々の手にあった。天心(岡倉)は多少あらわな云い方で、詩心はさびしい浪人の心に宿ったと云った」と書いている。
このままでは民主党を中心とする政権が続くことになってしまうから、それを阻止するためにも、政界再編を行うしかないだろう。自民党の与謝野馨元財務相が谷垣禎一総裁に辞任を迫っているのも、そうした危機感の表れにほかならない。日本という国家の根本を守り育てていく政治か、それとも、それを否定しようとする政治かで、対立軸もはっきりしているわけだから、国民も選択しやすいのではないかと思う。そして、いよいよ保守派の宿願であった憲法改正に取り組むべきなのである。日本が真の意味で主権を回復するには、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全を保持しようと決意した」というような他人任せではなく、日本国民自身が平和を維持するための普段の努力を続けるということが、明文化されなくてはならない。さらに、高坂正堯も「二一世紀の国際政治と安全保障の基本問題」で述べているように、安全保障というのは「日本人を日本人たらしめ、日本を日本たらしめている諸制度、諸慣習、常識の体系を守ること」も含まれてあり、それを保持し続けることこそが、国柄を保つことなのである。三島由紀夫は檄文で「国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態に落ち込んでゆくのを見た」と嘆いていたが、そうした戦後体制に終止符を打つためにも、憲法を改正することが喫緊の課題なのである。