民主党や鳩山政権は何が何でも、子供手当てだけはマニフェスト通りにやるつもりのようだ。7月の参議院選挙で勝つにはそれしか方法がないからだろう。しかし、考えても見るがいい。地方に住む者にとって、今一番問題になっているのは、職がないことだ。企業にとっては、仕事がないことだ。いくら金をばら撒かれても、そんなことでは追いつかないのだ。公共事業がほぼストップしてから、地方は目もあてられない惨状を呈している。「コンクリートから人へ」というスローガンは、あまりにも空々しい。所得が減ってしまっており、そんなものをもらっても、焼け石に水なのである。鳩山由紀夫首相は、ブルジョアであるから、サラリーマンの平均年収を1000万円くらいと思っていたそうだが、300万前後で暮らしている人がたくさんいるのを、考えたこともないのだろう。田中真紀子衆議院議員が鳩山由紀夫首相を「生活感覚のないずれた地球人」とこき下ろし、閣僚の多くについても「高学歴の労働貴族だ」と批判するのも、まんざら的外れではない。閣僚席に座っている労働組合のダラ幹に、多くの国民は怒りを覚えているはずだ。子供手当ては、来年度は1人あたり月1万3000円だが、それ以降は月2万6000円を支払うことになり、毎年度5・6兆円の国費が投じられる。防衛予算に匹敵する規模であり、これによって日本の経済はがたがたになり、借金は増える一方だろう。そうすれば残された選択は、増税以外になくなる。財源がありますと鳩山首相が言っていたことは、真っ赤な嘘だったのである。今こそ、日本の保守派は街頭に押し出るべきだろう。もはや国民が抵抗権を行使することによってしか、悪政を倒すことはできないわけだから。
創価学会を支持母体とする公明党が、民主党と急接近している。社民党や国民新党は内心穏やかではないようだが、一番困っているのは、公明党の支持者だろう。これまで自公政権でやってきたのに、急には路線転換はできないものだ。しかも、法華経を重視するとしても、日蓮を師として仰ぐにしても、なぜ政治に創価学会が進出したかについて、まともな説明を聞いたことがない。まずはそこから議論を始めるべきだろう。政治は多数決であり、時には妥協せざるを得ない。宗教となると、それとはまるっきり違う。真理は一つであるというのを前提にしているからだ。
日本の宗教論争でまず一番に挙げられるのは、9世紀始めに、最澄と徳一の間で繰り広げられた三一権実論争である。法華経が権(かり)の教えであるか、それとも真実の教えであるかについて、白熱した議論がたたかわされた。あまりにも激しいものであったために、その心労がたたって、最澄は寿命を縮めたともいわれる。最澄は日本の天台宗の開祖であり、徳一は会津を中心にして、東北や関東で絶大な影響力を誇っていた。論争自体の優劣はつけがたいとしても、その後の日本仏教は、比叡山延暦寺で修行した僧によって担われたのであり、仏教の日本化という意味では、最澄の果たした役割は大きい。日蓮が開祖である日蓮宗も、その一つである。
クリスチャンであった内村鑑三は、代表作『代表的日本人』のなかで、わざわざ日蓮を取り上げ「我等の理想的宗教家」とまでほめちぎった。「彼よりその知識上の誤謬、遺伝されし気質、時代と環境が彼の上に印したる多くのものを剥ぎ取れば、然らば諸君はその骨髄まで真実なる一個の魂、人間として最も正直なる人間、日本人として最も勇敢なる日本人を有する」とまで書いたのである。北一輝も宮沢賢治も、日蓮宗に帰依していたことは有名だ。
日蓮宗には、大衆を熱狂させるようなエネルギーの源泉があるように思えてならない。その意味でも、創価学会が、公明党を通じて何をしようとしているのかについては、ついつい興味を抱いてしまう。だが、小沢一郎民主党幹事長にたぶらかされて、政治の駆け引きに翻弄されるようでは、大きな力を持てるはずがない。「法華経を弘むれば釈尊の御使なり、梵天帝釈も我が左右に事へ、日天月天も我が前後を守り、我が国すべての神神も頭を垂れて我を敬ふべし」という日蓮のパトスとは、似ても似つかわないからだ。
イランをめぐる情勢が緊迫の度を加えている。最悪の場合は、どこかの国が核のボタンに手をかける可能性もあるのではなかろか。日本のマスコミはほとんど触れていないが、事態はかなり深刻だ。アフマディネジャド政権は、濃縮度80パーセントのウランを製造する能力があると公言しており、核兵器が製造できる90パーセントに手が届くところまできている。イランの核開発が最終段階に入っていることは、ほぼ間違いない。それを恐れるイスラエルが、いつ核開発施設に対して空爆を行っても、不思議ではないのである。アフマディネジャド政権の反米、反イスラエルの姿勢が一貫しているだけに、奇襲攻撃を受ければ、革命防衛隊を使って、ホルムズ海峡を封鎖することだって考えられる。そうなれば、中東からの石油が日本に入ってこなくなるのは必至だ。世界は暴力の海のただなかにあることを、日本人は肝に銘じるべきだろうし、米軍の普天間基地の移設問題も、そうした世界情勢とリンケージしているのを忘れてはならない。だからこそ、米国は自民党政権時代の日米合意にこだわらざるを得ないのだ。東アジアにおける均衡のバランスを崩せば、取り返しが付かないからだ。厳しい現実と向き合うことなく、理想論だけを振りかざす鳩山政権や民主党の外交感覚には、失望を通り越して、怒りすら感じてしまう。
鳩山由紀夫首相や小沢一郎民主幹事長の顔を思い浮かべると、それだけで腹だたしくなるのはなぜだろう。金をばら撒けば、黙って国民が付いてくると思っているに違いないから、ついつい怒りがこみ上げてしまうのである。日本を守るために、その礎となった者たちがいたことを、私たちは断じて忘れるべきではないだろう。この国の大本が破壊されることを、一番悲しんでいるのは、彼らであるからだ。国のために死んでいった者たちの意思を、どのように引き継いでいくかは、生ある者の務めでなければならない。高峰秀子の『わたしの渡世日記』では、特攻隊のことが取り上げられている。まだ21歳であったデコちゃんは、慰問に特攻隊基地を訪れたときのことが、忘れられないという。フィナーレは、出演者と観客が一緒になって「同期の桜」を合唱した。その歌の作詞は帖佐裕だが、作曲した者の氏名は分かっていない。一説では特攻隊員の手になるともいわれるが、潔く散ろうとする者には、身につまされる歌詞であった。デコちゃんは「まだ少年としか言いようのない紅顔の特攻隊員」を目の前にして、「この人々の行く手に待っているのは、確実な死である」と考えると、あまりにも可哀想で、「見物席から食い入るように私を見上げ歌っている彼らの目を、とてもまともにみつめられはしない。喉本もとに熱いかたもりが突き上げてきて、私は半べそだ」と述懐している。靖国神社で再会することを誓って、飛び立った者たちの思いを、どうして私たちが踏みにじられようか。